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第四章 二人の手

心臓外科医・黒木誠、四十五歳。


彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。


手術の朝、私は、いつものように爪の間を洗った。

隣で新村も洗っていた。もう何年も、私たちはほとんど毎週、この流し台に並んでいる。彼が水を止める音で、私は自分の手を洗い終える。そういう呼吸になっている。

 

「先生」と新村が言った。「今日は、ぼくが、どこまで」

「弁は、私がやる。デバイスは、おまえに任せる」

「わかりました」

 

それだけの会話だった。この青年は余計なことを訊かない。訊かないでいられるだけの技量が、もうある。

手術室に入る前、私は、麻酔前の鵜飼と少し話した。

 

「先生。よろしく」とこの男は言った。もう薬が効きはじめていて、呂律が少し怪しかった。「私はね、四十年、機械を作ってきた人間です。だから、あなたの仕事が、どれだけ大変か、わかる」

「わかりますか」

「わかりますよ。設計どおりに動くものなど、この世にない」

 

その言葉を、私は、覆布をかけながら思い出していた。

設計どおりに動くものなど、この世にない。――そのとおりだ。だから回収しなかったのか。壊れるものは壊れる、と。あなたの機械が止まったとき、その先には、心臓が一つずつあったのに。

鵜飼庸介の胸を私は開いた。

胸骨正中切開。あの、扉をこじ開ける音。三十年聞いてきた音だ。

心膜を切るとその心臓が現れた。

ひどいものだった。

私はそういう感想を、めったに持たない。心臓に美醜はない。あるのは、機能と、その人が生きてきた歳月の痕だけだ。

だが、この心臓はひどかった。

膨らんでいた。本来なら、拳ほどの大きさで、力強く縮むはずのものが、二回りは大きく、そして、だらしなく揺れていた。壁が薄い。伸びきったゴムのようだ。縮もうとしているのはわかる。だが、縮みきらない。血を押し出す力が足りない。

こういう心臓を拡張型心筋症という。

この病気の何が残酷かというと、心臓が、最後まで、諦めていないことだ。

力が落ちれば体はそれを補おうとする。交感神経が働き、ホルモンが出て、心拍を上げ、血管を締め、水を溜める。そうやって、なんとか血を回そうとする。

その代償が、この心臓をさらに壊す。

助けようとする働きが、助けるべきものを壊していく。この病気の本体は、そこにある。だから治療というのは、その頑張りを、薬で止めてやることなのだ。もう頑張るな、と言ってやること。

この病名を初めて習った日から、私はずっと、これを皮肉だと思っている。

僧帽弁を私は見た。

心臓が膨らむと、その中にある弁も、引き伸ばされる。二枚の弁尖が、閉じるときに、きちんと合わさらなくなる。隙間ができる。血が逆流する。

逆流すれば心臓はさらに働かされる。働かされれば、さらに膨らむ。さらに膨らめば、もっと閉じなくなる。

この輪の、どこかを断ち切ってやらなければならない。

私はその弁を、丁寧に形成した。人工の輪をかけ、開いた口を縮め、弁尖が合わさるようにする。一針、一針。糸をかけ、結び、また、かける。

誰も気づかないだろうが、この工程で、私は、いつもより慎重だった。

この男を殺すつもりでいる。それなのに、私の手は、いつもより丁寧に動いていた。おかしな話だ。

いや――おかしくはないのかもしれない。この手術で死なせるわけにはいかないのだ。この男は、家で死ななければならない。半年後に、静かに。だから私は、この胸の中では、完璧でなければならない。

殺すために、完璧に治す。私は、そういう工程を、これで二度目に踏んでいる。

その工程の途中で、私は、ある可能性に気づいた。

気づいた瞬間、手が止まりかけた。止めなかったのは、周りに人がいたからだ。私の手が止まれば、誰かが顔を上げる。

――これは、いままでのどれとも違う。

隠す必要がない。判断の幅ですらない。ただ、正しく切る。教科書どおりに、いちばん正しいやり方で。そして、その正しさの中に、一つだけ別の意味を持たせる。

効いてくるのは、二年後だろうか。三年後かもしれない。それまでのあいだ、この心臓は、誰が見ても正常に動いている。私が見ても、そう見える。

どこを、どう切ったか。記録に書ける。書いても、何の問題も起きない。むしろ、模範的な手技として引用されるかもしれない。

私は、その考えを、頭の隅に押し込んだ。今日は使わない。今日の相手には、必要がない。

その日の残りの工程を、私はいつもどおりに終えた。手は震えなかった。

震えたのは、帰りの車の中だ。信号待ちで、ハンドルを握る指が、細かく動いていた。恐ろしかったのだと思う。何がと訊かれても、うまく言えない。

三十年やってきて、私はまだ、自分の手が何をできるかを知らなかった。

弁の形成を終えた。逆流は、ほとんど消えた。経食道エコーで確かめても、きれいなものだった。

人工心肺から離脱する。空気は、時間をかけて、一片も残さず抜いた。この工程で手を抜いたのは、五年前に一度きりだ。あれ以来、私はここだけは、誰よりも執拗にやる。

贖罪のつもりか、と自分に訊く。答えは、いつも出ない。

心臓が拍動を取り戻した。弱々しいがリズムは保っている。

 

「離脱、良好です」と麻酔科医が言った。

「デバイスに移ります」と私は言った。「新村。頼む」

「はい」

 

ここから先は、私の仕事ではない。

鎖骨の下に機械を植え込む。細い電線を、血管を通して心臓の中へ入れ、先端を、心筋に固定する。左右の心室と、右心房。三本の電線が、それぞれの場所へ収まる。

この機械に二つの役目がある。

一つはリズムを揃えること。この病気の心臓は、左右が別々のタイミングで縮んでいることがある。それでは効率が悪い。機械が電気で合図を送り、揃えてやる。それだけで、心臓の働きは目に見えて改善することがある。

もう一つは、致死的な不整脈が起きた瞬間に、電気ショックを与えて止めること。突然死を防ぐ、命綱だ。

十二年前、鵜飼の会社が回収しなかったのは、この命綱だった。

いま、その男の胸に、同じ種類の機械が入っていく。

新村の手は正確だった。

この男が電線を通すのを、私は見ていた。血管の中を進む細い線が、心臓のどこに届くか。それを決めるのに、この男は一度も迷わない。何ミリ動かすか、あらかじめ決めてから手を出している。

私が三十年かけて身につけたのは、迷ったときに正しく選ぶ技術だ。この男が持っているのは、迷わない技術だ。似ているようで、まるで別のものだと思う。

電線を通す。位置を確かめる。閾値を測る。数値を読み上げる。声に迷いがない。私が二年かけて教えたことを、彼はすでに、私より速くやる。

私はその手を見ていた。

三十年前、私の手もあんなふうだった。若い手は迷わない。迷う理由を、まだ知らないからだ。

この手が、これから半年、この機械の設定を決めていく。どれくらいの強さで、どれくらいの頻度で、心臓に働きかけるか。薬をどの順に、どれだけ増やすか。

それが、この病気の治療だ。そして、その調整には幅がある。

教科書には目安が書いてある。だが、目安は目安だ。目の前の患者に合わせて医者が決める。少し増やすか、据え置くか。どちらも正しい。腎臓の数値を見て、慎重にいくか、心臓を優先して押すか。どちらにも根拠がある。

その、どちらも正しい選択を、半年間、繰り返す。

そのすべてを、いちばん不利な側で選び続けたとしたら。

誰にもわからない。一回ごとの判断は、すべて許容範囲の中にある。記録にも一行の嘘も残らない。ただ、半年後に、この男は死んでいる。

手術は四時間半で終わった。

閉創まで問題は一つもなかった。教科書に載せられるような手術だった。

手術室を出ると、廊下に、あの娘が立っていた。

 

「無事に終わりました」と私は言った。「弁の逆流は、ほとんど止まりました。機械も、問題なく入っています」

 

彼女は、頭を下げた。それから顔を上げて、こう言った。

 

「先生。……ありがとうございます」

 

私は、その言葉を、これまで何百回も受け取ってきた。城之内の娘からも。蒲生の孫からも。

私が殺した人間の家族は、みんな、私に礼を言う。それは私が上手に殺すからだ。上手に殺せば、家族は、最後まで、いい医者に診てもらえたと思って生きていける。

それを優しさと呼ぶ者もいるだろう。私は、そうは呼ばない。

手を洗いながら新村が言った。

 

「先生。術後の管理ですが」

「ああ」

「ぼくが、主治医で入ります。外来も、ぼくが持ちます」

 

私は、蛇口を止めた。

この患者の主治医は本来なら私だ。医長が執刀した症例を、専攻医が外来まで持つのは、ないことではないが、多くもない。

 

「私が診る」と私は言った。

「先生は、お忙しいですから」新村は、水を止めた。「それに」

 

彼は、そこで、タオルを取った。手を拭きながら、前を向いたまま言った。

 

「先生は、もう、手を汚さなくていいと思います」

 

水音が消えた更衣室は、静かだった。私は動けなかった。この青年はいま、何を言ったのか。

私が何を考えているかを知っている。知っていて、それを引き受ける、と言っている。

いや――もっと悪い。この言い方には労りがある。先生は、もう、いいですよ、と。私を休ませようとしている。

 

「新村」

「はい」

「おまえは、何の話をしている」

 

新村は、タオルを畳んだ。端と端を、きっちり合わせて。

この男は、いま、私に何かを頼んだのではない。報告したのだ。決めたことを、私に伝えている。順序が逆になっていることに、私はそのとき気づいた。

 

「術後管理の話です」

 

その目は、澄んでいた。三年半前と同じ、まぶしいほど澄んだ目だった。

私はそれ以上、何も訊かなかった。訊けなかった。

更衣室を出て、階段を降りながら、私は考えていた。

新村は、除外されていない検査のことに、気づいているのか。

気づいていて、あの計画を組んだのか。それとも、気づかずに、ただ善意で私の負担を減らそうとしているだけなのか。

どちらでも結果は同じだ。あの男が半年後に死ぬことに、変わりはない。

だが、私にとっては、まるで違う。

気づいていないなら、私は、この青年を騙して使ったことになる。母が八歳の私を使ったように。

気づいているなら――この青年は、私が一言も頼まないうちに、私のために人を殺そうとしていることになる。

どちらがましなのか。私には決められなかった。

 

その夜、私は自宅の台所に立っていた。

何をするつもりだったのか、自分でもわからない。ただ、そこに立っていた。

四十一年前、この位置に母がいた。

台所の蛍光灯は、片方が切れかけていて、ときどき瞬いた。私は、それを直そうと思ったまま、半年放っている。一人暮らしの家では、そういうものが増えていく。

白い粉薬を、オブラートに包んで、私の手のひらに載せた。香織にこれを持っていって、誠。お姉ちゃん思いの、いい子ね。

あの人は、自分で飲ませることも、できたはずだ。それなのに、ときどき私に運ばせた。

なぜか。

いま、わかった気がした。

あの人は、自分の手が汚れるのが、嫌だったのではない。もっと単純なことだ。

誰かに手伝ってほしかったのだ。

一人でやり続けるには、あれは重すぎた。だから幼い息子に、その一部を持たせた。持たせた瞬間、あの人は、少しだけ楽になった。私がいる。この子も運んでいる。だから、私だけの罪ではない。

新村が今日、私に言ったのは、その逆だ。あの青年は、私から重さを取り上げようとした。

どちらも同じことだ。

罪は、分けると軽くなる。分けた人間が二人になれば、それぞれが半分ずつになった気になる。実際には二人分に増えているだけなのに。

私は母がやったことを憎んできた。四十一年、憎んできた。

そして今日、私は、母がされたかったことを、若い男から、されている。

私は断らなかった。

 

翌朝、私は新村に、術後管理を任せると伝えた。事務的な口調で。彼も事務的に頷いた。

カルテの主治医欄が書き換えられた。黒木誠から新村健吾へ。

入力したのは新村自身だった。変更履歴には、その時刻が残る。この病院のシステムは、そういうところだけは、よくできている。

それだけのことだった。紙の上では、それだけのことだ。

この日から、鵜飼庸介の治療方針を決めるのは、私ではない。

私は何もしていない。除外されなかった検査について、私は黙っただけだ。術後の管理について、私は若い医者に任せただけだ。どちらも責められるようなことではない。

三度目だ、と私は思った。

一度目は、母から白い包みを受け取った八歳の私。二度目は、相馬の手術で、若い男にメスを渡した三年半前の私。

そして三度目に、私は、渡す側にも、受け取る側にもならなかった。

ただ、そばに立って見ていた。

――これが、いちばん罪が軽いのだと、私は思っている。そう思っている自分を、私は、いちばん軽蔑している。

鵜飼庸介は、二週間後に退院した。

次の外来は、一か月後。担当は、新村健吾。

私の名前は、もうカルテのどこにも出てこない。


(第四章 了)


本作はフィクションです。登場する人物・団体・病院・地名・出来事はすべて架空であり、実在のいかなる個人・組織・医療機関とも関係ありません。


一、医療・外科手術・法医学・司法手続き(調査法解剖、死体検案書、関係法令等)に関する描写は、いずれも物語を成立させるための演出です。医学的・法的な正確性を保証するものではなく、現実の手技・手順・制度を忠実に再現したものでもありません。また、作中のいかなる行為についても、その再現・実行を意図し、あるいは推奨するものではありません。


二、本作は、殺人・児童虐待・自殺・毒殺などの重い主題を含みます。これらは物語の主題を描くための表現であり、そうした行為を肯定・助長する意図は一切ありません。


三、専門的・制度的な事項については、必ず各分野の専門家および公的機関の最新の情報をご確認ください。本作の記述をもって、現実の判断の根拠とすることはお控えください。


――この物語は、事実ではなく、物語です。


毎日、22時に投稿予定です。(全10章)

それでは、次の章で、またお会いできますように。


隠岐群青

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