第二章 除外
心臓外科医・黒木誠、四十五歳。
彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。
診断というものが、どうやって決まるか、知っているか。
多くの人はこう思っている。検査をして、数値が出て、その数値が病名を教えてくれる、と。血糖値が高ければ糖尿病。腫瘍が写れば癌。そういうものだ、と。
ある種の病気はそうだ。だが、そうでない病気もある。
その病名は検査では出てこない。何をどう調べても、「これがその病気です」という所見は、どこにも見つからない。
では、どうやって決めるのか。
消していくのだ。
この症状を起こしうる原因を、一つずつ挙げて、一つずつ、違う、と消していく。あれも違う。これも違う。それも違う。そうやって、すべてを消し終えたとき、残ったものに、その病名がつく。
消去法だ。医学の教科書には、除外診断、と書いてある。
つまり、その診断は、こう言っているに等しい。ほかに思い当たるものが、ありませんでした。
――君は、それを、診断と呼ぶだろうか。
その週、私は五件の手術をした。
月曜、七十八歳の弁置換。火曜、四十代の解離。木曜に二件。金曜は、二歳の子どもだった。
最後の一件が、いちばん長かった。生まれつき心臓の中に穴があり、二度手術を受けて、それでも塞がっていない。三度目を、うちで引き受けた。
六時間かかった。終わったとき、両親が廊下で立っていた。母親は何も言えずに、ただ頭を下げ続けた。父親が、代わりに礼を言った。この子は三度目なんです、と。もう駄目かと思っていました、と。
私は、いつもの角度で頭を下げた。
二歳の子どもは、三度目の手術だった。次はない。次があるとすれば、二十年後だ。
私は、その子の胸を閉じながら、二十年後のことを考えた。
今週、五件。
私は、数えていない。数えるのは、事務の仕事である。
だが、金曜の夜に、その週の件数が頭に浮かぶ。三十年、毎週である。
――五件のうち、四件は、私でなくても助かった。
残りの一件が、私がここにいる理由である。
三十年、私はその一件だけを数えてきた。数えてきた、と書くと、数えていることになる。
浮かぶだけだ。書いたことは、一度もない。
――こういう週の終わりに、あの封筒は届く。
鵜飼庸介、六十三歳。
封筒は、いつものように、差出人がなかった。中には紹介状の写しが一枚。そして、あの几帳面な三つ折りの切り抜きが数枚。
紹介状にはこうあった。拡張型心筋症。心不全増悪のため、加療目的にて貴院へ紹介いたします。
私はその病名を、しばらく見ていた。
心臓が、風船のように膨らみ、薄くなって、うまく縮まなくなる病気だ。原因は、はっきりしないことが多い。遺伝子の異常。ウイルスに感染したあとの免疫の暴走。自分の免疫が、自分の心筋を攻撃してしまうこと。そういうものが、少しずつ、わかってきている。
だが、いずれにせよ確かめる術はない。だから、この病名がつく。
ほかに思い当たるものが、ありませんでした――と。
切り抜きのほうを私は読んだ。
十二年前。ある医療機器メーカーの、植込み型の機器に、設計上の不具合があった。特定の条件下で、電池の残量表示が実際より多く出る。つまり、まだ動くと表示されているのに、止まる。
止まればどうなるか。その機器を植え込まれているのは、放っておけば突然死する可能性の高い患者たちだ。止まったことに気づかないまま、命綱が外れる。
社内の技術部門は、早い段階でこれを把握していた。回収を進言する文書も残っていた。
回収は行われなかった。
その後の三年で、その機器を植え込まれた患者のうち、十四人が突然死している。因果関係は、証明されていない。証明できるはずがない。もともと、突然死しうる病気の人たちなのだから。
当時、その決定に関わった役員の一人が、鵜飼庸介だった。
切り抜きの最後の一枚は、三年前の週刊誌の広告だった。掲載中止のお詫びという、小さな囲み記事。原稿は世に出なかった、という意味の、丁寧な言い回しが並んでいた。
私はその紙を机に置いた。
切り抜きの折り目に指を当てた。端と端がきっちり合っている。この折り方を私は知っている。一年半前にも、二年前にも、同じ折り目の封筒が届いた。
用意がいい。相変わらず、あの手は、用意がいい。
私が「裁くに値する」と思うために必要なものが、ちょうど過不足なく揃っている。多すぎず、少なすぎず。私が自分で見つけた気になれる程度に、手がかりの形で。
私は、もうこの手つきに気づいている。気づいていて、それでも、切り抜きを最後まで読んでしまう。読めば腹の底が熱くなる。熱くなった腹で、私はまた、正しいことをした気になれる。
躾けられた犬は、餌の出所を知っても、尻尾を振る。
鵜飼が入院してきたのは、その週の木曜だった。
病室に入ると、痩せた男がベッドを起こして座っていた。六十三歳。だが、もっと老けて見えた。頬がこけ、足首がむくんでいる。心不全の顔だ。
「黒木先生ですか」と鵜飼は言った。息が少し浅かった。「お噂は、かねがね」
声には、まだ力があった。長く人を使ってきた人間の話し方だった。
「いまの状態を、ご説明します」
「先に、一つだけ、いいですか」鵜飼は、私を見た。「私は、あと、どのくらいですか」
単刀直入だった。私は、そういう患者は、嫌いではない。
「治療をしなければ、一年、もつかどうか。しても心臓が元に戻ることはありません。うまくいけば、いまの状態を保ちながら、五年、十年」
「治らんのですか」
「この病気は、治りません。進むのを、遅らせるだけです」
鵜飼は、少し笑った。
「正直な先生だ。前の病院では、みんな、言葉を選んでくれましたよ」
「選ぶ必要が、ありますか」
「ないですな」鵜飼は、窓のほうを見た。「言葉を選ばれると、こっちは、余計に悪いんだろうと思う。……先生、私はね、四十年、機械を作ってきた人間です。壊れるものは、壊れる。それは、わかっているつもりです」
壊れるものは、壊れる。
この男は、十四人の患者について、同じことを言ったのだろうか。私は、そう考えた。考えて、そして、自分の中の熱が、少し上がるのを感じた。
ほら。この男は裁かれるべきだ。
その声を、私はもう信じていない。信じていないのに、その声は、いつも同じ調子で、私の中に湧く。
鵜飼には娘がいた。
三度目の回診のとき病室にいた。三十代半ばだろうか。地味な服装の、疲れた顔の女だった。
「父が、いつもお世話に」と、彼女は頭を下げた。
鵜飼は、その娘に対しては、妙に無愛想だった。おまえは帰れ、仕事があるだろう、と、追い立てるように言った。娘は、慣れた様子で、それを聞き流していた。
病室を出るとき、娘が廊下までついてきた。
「先生。父は、どのくらい」
同じことを訊く。親子だ、と私は思った。
私は、鵜飼に説明したのと同じことを、少し柔らかく話した。娘は、黙って聞いていた。それから、こう言った。
「父を、恨んでいる人がいるのは、知っています」
私は、彼女の顔を見た。
「昔、会社で、何かあったみたいで。私は、詳しくは知りません。でも、家に、変な電話がかかってきたことがありました。私が学生のころです」
「……そうですか」
「父は、その話を、一度もしませんでした。私にも、母にも」彼女は、少し笑った。疲れた笑い方だった。「それが、あの人のやり方なんです。都合の悪いことは、なかったことにする。家でも、会社でも」
私は、答えなかった。答える言葉が、なかった。
この人は、父親の罪を、うすうす知っている。知っていて、それでも、見舞いに来る。追い返されても、また来る。
この娘に、何と言えばいい。あなたの父は、じきに死にます、と言うのか。私が殺すのです、と言うのか。
私は何も言わなかった。いつものように。
エレベーターの前で、彼女は立ち止まった。ボタンを押して、待っている。
「階段のほうが早いですよ。二階分ですから」
「私、すぐ息が切れるので」彼女は少し笑った。「運動不足ですね」
私は頷いて、その場を離れた。
私は、鵜飼の検査記録を、最初から辿り直した。
* * *
この病気の診断は消していく作業だ。だから、その記録には、消した痕跡が、番号を振って並んでいる。担当した内科医は、几帳面な人間らしい。
一。冠動脈。造影で見て、詰まっていない。虚血ではない。消した。
二。弁。逆流はあるが、これは心臓が膨らんだ結果であって、原因ではない。消した。
三。血圧の履歴。四十代からの記録がある。消した。
四。飲酒歴。本人と娘の両方に確認してある。消した。
六。甲状腺。消した。
七。膠原病。消した。
八。抗癌剤の使用歴。消した。
順序も内容も、教科書どおりだった。丁寧な仕事だ。
五が、ない。
番号は、この内科医が自分で振ったものである。だから、五を飛ばしたのも、この人だ。
飛ばしたのではないかもしれない。書こうとして、書かなかったのかもしれない。書かなかったのは、確かめていないからだ。
私は、一つだけ、消されていないものを見つけた。
名前は書かない。ここに書けばそれは診断の手引きになる。私はただ、こう記す。この男の生活と、経歴と、体の中に、それを疑うべき理由が一つあった。そして、その可能性を確かめるための検査は、行われていなかった。
珍しいことではない。医者は神ではない。すべての可能性を、すべての患者で潰していたら、医療は成り立たない。だから、確からしいものから順に消していき、どこかで線を引く。その線を、どこに引くか。
線の引き方は教科書に書いていない。書けないのだ。それは判断だからだ。
そして、判断には幅がある。
もし、それが正しく除外されていなければ、どうなるか。
この男についた病名は変わる。病名が変われば治療も変わる。いま予定されている手術も、デバイスの植込みも、その後の薬の組み立ても、すべて別のものになる。
そして、もし、正しくない病名のまま治療が進めば。
その治療は、この男の心臓を、少しずつ、正しくない方向へ運んでいくことになる。ゆっくりと。誰にも気づかれずに。何年もかけて。
誰も、嘘をつかないままで。
私はその記録を閉じた。
私がいま、一本の電話をかければいい。内科の担当医に、この可能性を確かめましたか、と訊けばいい。三十秒で済む話だ。相手は、恐縮して、追加の検査を組むだろう。それで終わる。
私はその電話をかけなかった。
断っておくが、私は何もしていない。誤診をしたのは私ではない。私は、他院がつけた診断を受け取り、その診断に基づいて、標準的な治療を行うだけだ。私の書く記録に、一行の嘘もない。
私は、ただ、気づいたことを、言わなかった。
それだけだ。
一針を縫うより、ずっと簡単だった。私は、指一本、動かしていない。
その週の金曜、学会の理事から電話があった。
次期の副会長候補として、私の名前が挙がっているという。心臓外科学会の副会長。この分野で、実質の頂点にあたる。
理事は、丁寧な人だった。先生の実績は誰もが認めるところです、と何度も言った。若手からの信望も厚い。難症例を引き受ける姿勢が、この学会に必要なのだと。
「もちろん、まだ内々の話ですが」と、その人は言った。「先生に受けていただけるなら、私どもとしては、これ以上ないと思っております」
私は、少し考えさせてほしいと答えた。
電話を切ってから、机の上の紹介状を見た。鵜飼庸介。除外されていない一項目。私が、今朝、黙ったこと。
この二つが、同じ日に届いた。
――偶然だ。何の関係もない。
そう考えて、私は少し笑った。関係がないと自分に言い聞かせる程度には、私は自分の立場を理解している。
だが、その夜は眠れなかった。
簡単すぎるからだ。
これまでの私の殺しには、まだ、手応えのようなものがあった。城之内のときも、蒲生のときも、私は自分の指で、何かをした。しなかったこともあるが、しないと決めたのは、私の指だった。
今度は指を動かさない。言葉を、一つ、飲み込むだけだ。
これでは、私は何者でもない。裁く者でも殺す者でもない。ただの、黙っていた人間だ。
そして、黙っていた人間は、この世にいくらでもいる。
あの十四人が死んだとき、社内の技術部門にいた人間たちも、たぶん、黙っていた。回収を進言した文書を書いた誰かも、それが握り潰されたあとは、黙った。三年前、羽賀という記者の原稿を止めた編集長も、黙った。二十八年前、太田という法医学者も、黙った。
私は、その列の、いちばん後ろに並んだだけだ。
人を殺すのに、いちばん静かな方法を、知っているか。
何もしないことだ。
翌朝、医局で新村に会った。
彼は、鵜飼の術前計画を、もう作り上げていた。私が指示する前に。
「一通り、組んでおきました」と、彼は言った。「弁の形成と、デバイス。二期に分けるより、一度で入れたほうが、ご本人の負担は少ないかと」
私は、その計画を見た。
完璧だった。手順も、想定される合併症への備えも、術後の管理の方針も。私が作るとしても、ほとんど同じものになっただろう。
一つだけ違うところがあった。この男の計画には、想定所要時間が分単位で書き込まれている。私は書かない。手術の時間は、開けてみないとわからないからだ。
この男は、開ける前から時間を決めてかかる。そして、たいてい、その通りに終わる。
「よくできている」
「ありがとうございます」
「新村。この患者の、術前の除外診断だが」
私は、そこで言葉を止めた。
新村が私を見た。何でしょう、という顔で。澄んだ、いい目だった。二年前、私が同じように言葉を止めたときと、同じ目だった。
「……いや。なんでもない」
「そうですか」
彼は、それ以上、訊かなかった。訊かないことが、この青年の礼儀なのだろう。
あるいは――彼も、とうに気づいていて、同じように、黙っているのか。
私にはわからなかった。
わからないまま、私は、その計画書に、判を押した。
押した判の朱が紙に滲んだ。
この一つの判で、一人の男の残りの人生が、決まる。そう思ってから、私は、自分の考えを訂正した。決まったのは、もっと前だ。あの内科医が線を引いた場所で。そして、私がそれを見て黙った瞬間に。
手術は、来週の火曜だ。
* * *
その前日、新村が私のところへ来て、一つだけ確認したいことがあると言った。
除外診断のことか、と私は身構えた。ちがった。麻酔科との打ち合わせの時間についてだった。
用件が終わってから、新村は一度だけ振り返った。
「先生。この患者さん、前の病院で、何か言われてませんでしたか」
「何かとは」
「いえ」新村は首を振った。「なんとなく、腑に落ちない気がして。……気のせいです」
私は、何も答えなかった。この青年は、気のせいで物を言う人間ではない。
(第二章 了)
本作はフィクションです。登場する人物・団体・病院・地名・出来事はすべて架空であり、実在のいかなる個人・組織・医療機関とも関係ありません。
一、医療・外科手術・法医学・司法手続き(調査法解剖、死体検案書、関係法令等)に関する描写は、いずれも物語を成立させるための演出です。医学的・法的な正確性を保証するものではなく、現実の手技・手順・制度を忠実に再現したものでもありません。また、作中のいかなる行為についても、その再現・実行を意図し、あるいは推奨するものではありません。
二、本作は、殺人・児童虐待・自殺・毒殺などの重い主題を含みます。これらは物語の主題を描くための表現であり、そうした行為を肯定・助長する意図は一切ありません。
三、専門的・制度的な事項については、必ず各分野の専門家および公的機関の最新の情報をご確認ください。本作の記述をもって、現実の判断の根拠とすることはお控えください。
――この物語は、事実ではなく、物語です。
毎日、22時に投稿予定です。(全10章)
それでは、次の章で、またお会いできますように。
隠岐群青




