第一章 記事の一行目
お待たせしました!
season3です。
心臓外科医・黒木誠、四十五歳。
彼には、開いた胸の奥から「その人の来歴」を読み取ってしまう才能があった。顔は笑える。言葉は飾れる。だが、心臓だけは嘘をつかない――。法が裁けぬ罪を、彼は手術台の上で、静かに裁いていく。生と死、家族、師弟、そして組織の闇へと沈んでいく、後味の悪い医療イヤミスです。手術・死・暴力などの描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。どうか、最後の一行まで見届けていただけますと幸いです。
羽賀清人の書いた記事は、その日、七十三人に読まれた。
配信から二十四時間で七十三。編集部のダッシュボードに表示された数字を、羽賀は、しばらく眺めていた。
三年前なら、雑誌の実売部数だけで数万部あった。それがいまは七十三だ。しかも、そのうちの何人かは、たぶん自分でリロードした分だろう。
「ある名医の、不審な患者たち」。
配信元は、社員が四人しかいないニュースサイトだ。原稿料は一本八千円。三年前の羽賀なら、鼻で笑ったはずの金額だった。いまはそれで家賃を払っている。
家賃は四万二千円。共益費込み。風呂はあるが、追い焚きができない。冬は、湯が冷める前に入らなければならない。
養育費は、月に三万。これだけは一度も遅らせていない。遅らせたら、もう二度と会えない気がするからだ。
残りで食べる。月末になると、もやしと卵の日が続く。それ自体は、どうということもない。羽賀は昔から、食にこだわりがない。
こたえるのは、コンビニで五百円の弁当を戻すときだ。手に取って、値段を見て、棚に戻す。あの二秒が、いちばん自分を惨めにする。
我ながらひどい見出しだと思う。週刊誌の生き残りが、ネットの片隅で書く記事の見出しとしては、いささか気合いが入りすぎている。品がない。だが、品のある見出しで人が死ぬ話を書いても、誰も読まない。
羽賀は、六畳のアパートの畳の上に座っていた。
ちゃぶ台の上は、物で埋まっている。ノートパソコン。吸い殻の山になった灰皿。飲みかけのカップ酒が二本と、空いた発泡酒の缶が四本。カップ麺の容器が三つ。いちばん下のやつは、いつのものか思い出せない。
床には洗濯物が散らばっている。二週間分か、三週間分か。数えていない。畳の目に沿って、埃が筋になっている。
部屋には、饐えた匂いが漂っていた。生ゴミと、汗と、何日も換気していない空気が混ざった匂いだ。最初のころは気になった。いまは、鼻が慣れた。
窓を開ければ済む話だが、開けない。開けると、隣の部屋の生活音が入ってくる。子どもの声がする日がある。それが、いちばんこたえる。
壁際に段ボール箱が四つ。三年前に会社を辞めたとき、机から持ち出した資料が、まだそのまま入っている。
窓の外は雨だった。
立ち上がって、洗面所へ行った。鏡に、四十六歳の男が映っている。
無精髭は四日目だ。剃ろうと思って、そのままにしている。誰にも会わない日が続くと、剃る理由が見つからない。
着ているシャツは、三日目か四日目か。襟の内側が、少し黄ばんでいる。前は、こういうことが我慢できなかった。記者は身なりで信用を買う商売だと、若いころに教わった。
いまは、その信用を買う相手がいない。
いま、羽賀が追っているのは、ひとりの外科医だった。
帝都大学附属病院、心臓血管外科医長。黒木誠。四十九歳。心臓手術の分野では、この国で五本の指に入ると言われている。他院が匙を投げた症例を引き受け、そして助ける。テレビにも何度か出ている。
その男の手術のあとで人が死んでいる。
死んでいる、と言っても、手術で人が死ぬのは珍しくない。心臓外科というのはそういう場所だ。だから羽賀の見ているものは、統計的には何でもない。難症例を多く引き受ける医者の、術後死亡が多いのは、当たり前のことだ。
だが、死んだ患者たちの経歴を並べると、妙なものが見えてくる。
共同経営者が事故死して、その資産を引き継いだ男。夫の長い闘病を看取り、保険金を受け取った女。四十五年前の事故の責任を問われずに済んだ元官僚。そして一年半前、民政党の実力者だった蒲生剛造。
叩けば埃の出る人間ばかりが、あの男の手術台で死んでいる。
偶然かもしれない。長く生きて、財を成した人間の周りには、たいてい暗い話の一つや二つはある。それを探しにいけば必ず見つかる。羽賀はそのことを知っている。知っていて、なお、この符合を捨てられずにいる。
証拠は、ない。
一年半、羽賀は探した。カルテは手に入らない。病院は何も言わない。関係者は口を開かない。手に入ったのは、公開されている学会発表と、遺族の何人かの話と、噂だけだ。
その記事の一行目を、羽賀は三日かけて書いた。
「その病院では、手術は、いつも成功している」
これでいい、と羽賀は思った。嘘は一つも書いていない。事実、あの男の手術は成功している。記録上は、すべて。だが、この一行を読んだ人間の何割かは、その後ろにあるものを想像する。
想像させることは、書くことではない。それは、羽賀もわかっている。わかっていて、そう書いた。
二本目の記事では、患者の一人の名前を、伏せ字で出した。三本目では、遺族の証言を載せた。名前は出せない。出せば、その人が潰される。
七十三人。数字は、それでも動かなかった。
変化があったのは、三本目の記事を出した、三日後だった。
配信元の編集部から、電話がかかってきた。若い編集者だ。二十代の、羽賀の半分ほどの歳の男が、申し訳なさそうに言った。
「羽賀さん。あの記事、ちょっと、取り下げてもらえませんか」
「どれだ」
「三本目です。……その、うちの上のほうから、話が来まして」
羽賀は、灰皿で煙草をもみ消した。手が、止まった。
七十三人しか読んでいない記事に、削除要請が来る。
その意味を、羽賀は、しばらく味わった。
「誰から来た」
「それは、ちょっと」
「弁護士か」
「……そこまでは。ただ、けっこう、上のほうの話みたいで」
編集者の声には、悪意はなかった。ただ、怯えていた。この若者も、守るべきものがあるのだろう。羽賀は、三年前の編集長の顔を思い出した。あの男も、こんな声をしていた。
「わかった。下げてくれ」
「……すみません」
「謝るな。あんたが決めたことじゃない」
電話を切ってから、羽賀は、窓の外を見た。雨は、まだ降っていた。
そして、笑い出した。声を出して、しばらく笑った。隣の部屋の壁を、誰かが叩いた。
誰かが、読んでいる。
七十三人のうちの誰か。あるいは、その七十三人の誰かから聞いた誰かが。
三年前、羽賀の原稿は、活字になる前に潰された。今度は、活字になってから潰された。順序が逆になっただけだ、と言うこともできる。だが、羽賀にとっては、まるで違う。
活字になる前に潰されるのは、内側の話だ。編集部の判断、広告の都合。そこには、外の力は要らない。
だが、配信済みの記事を下げさせるには、外から手を伸ばさなければならない。誰かが、動いたのだ。七十三人しか読んでいない記事のために。
つまり、当たっている。
どこかは、わからない。だが、どこかが、当たっている。誰かにとって、触れられたくない場所に、この記事は指を置いた。
羽賀は、ノートパソコンを開いた。新しいファイルを作った。四本目の記事だ。
書きながら、羽賀は、自分の口の端が上がっているのに気づいた。前歯の欠けた、みっともない笑い方だ。妻は、この笑い方が嫌いだった。あなた、人が困っているときに、そういう顔をするのね、と言われたことがある。
そのとおりだった。羽賀は、誰かが困っているときにしか、生きている気がしない。
四本目の記事は、一時間で書けた。
こういうときの原稿は、いつも速い。腹の底が熱いときに書いた文章は、後で読み返すと、たいてい、ひどい。感情が漏れている。読者はそれを、書き手の未熟さとして正しく嗅ぎ取る。
羽賀は、書き上げた原稿を、そのまま一晩寝かせた。翌朝、頭から読み直して、三分の一を削った。削ったのは、全部、自分の怒りが混じっている箇所だった。
残ったのは、事実だけだ。事実だけで書かれた文章は、冷たい。冷たい文章のほうが、人を動かす。それも、この三年で覚えたことだ。
* * *
三年前まで、羽賀は月刊誌の記者だった。
いま思えばいい身分だった。名刺を出せば、たいていの相手が会ってくれた。経費で新幹線に乗れた。締切に間に合わなければ、デスクが怒鳴った。怒鳴る人間がいる、というのは、ありがたいことだったのだと、いまはわかる。
その職を、羽賀は自分で捨てたわけではない。
ある製薬会社の薬で人が死んでいた。副作用の報告が社内で握り潰されていた。羽賀はそれを一年かけて追い、証言を集め、内部資料の一部を手に入れた。原稿は四十枚になった。
その原稿は活字にならなかった。
編集長は羽賀の顔を見なかった。広告の話をした。会社の話をした。守るべきものの話をした。そのすべてが正しかった。正しくないのは羽賀の原稿だけだった。
羽賀は辞表を出した。誰も止めなかった。
妻はその半年後に出ていった。娘は妻が連れていった。あのとき小学二年生だった娘は、いま五年生になっているはずだ。はずだ、というのは、二年前から会っていないからだ。
――俺にはもう、失うものが、ないんでね。
最近、羽賀はよくその台詞を使う。便利な言葉だった。相手を黙らせることができる。だが本当のところ、失うものがない人間などいない。
羽賀には、二つある。
一つは、娘の面会だ。月に一度、二時間。裁判所を通して決めた条件だが、この二年、一度も行使していない。行けないからだ。前に会ったとき、娘は羽賀の顔を見て怯えた。あんな顔をされて、また行く勇気が出ない。
だが、権利は残っている。使わないだけで、なくなってはいない。それだけが、羽賀を支えている日がある。
もう一つは、三年前に潰された原稿だ。
あの四十枚は、いまもパソコンの中にある。バックアップも取ってある。いつか、どこかで、あれが活字になる日が来ると、羽賀はまだ思っている。四十六にもなって、そう思っている。
その日が来たら、あの編集長のところへ持っていこうと決めていた。何を言うかも決めてある。三年かけて考えた。
* * *
遺族に会うのは、いつも、いちばん難しい仕事だ。
その日だけは、羽賀も身なりを整える。髭を剃り、洗濯した服を着て、靴も磨く。金がなくても、そこはやる。相手に失礼だからだ。
整えて出かけて、帰ってきて、また部屋の匂いの中に戻る。
先月、篠田という女の遠縁だという男に会った。喫茶店で三十分。男は終始めんどうくさそうに、あの人とは、ほとんど付き合いがなかったのでね、と繰り返した。手続きに行っただけです、と。
その前は城之内の娘に会った。こちらは丁寧に応対してくれた。丁寧に応対して、そして、何も言わなかった。
「父は、あの先生に、最後まで診ていただきました」と、彼女は言った。「感謝しています」
感謝しています。その言葉を聞くたびに、羽賀は、自分の仕事の意味がわからなくなる。
もし羽賀の見立てが正しければ、この女は、父を殺した男に頭を下げたことになる。それを教えるのが俺の仕事か。それとも、教えないのが優しさか。
羽賀はいつも前者を選ぶ。だから妻に出ていかれた。
だから羽賀は書くことにした。
証拠がなくても書ける。書けば誰かが読む。読んだ誰かが話す。話が広がれば、いつか、内側にいる誰かが口を開く。それが、この三年で羽賀が身につけた、唯一の戦い方だった。
一滴が、二滴に。二滴が、川に。
卑怯だと言われれば、その通りだ。羽賀自身、そう思っている。
証拠のない記事は人を殺す。三年前、羽賀が追っていた製薬会社の担当者は、記事が出る前に自死した。原稿は活字にならなかったのに、羽賀が取材で回った、それだけで。あの男が本当に何をしたのか、いまも羽賀は知らない。
それでも、書く。
黙っていれば何も起きないからだ。何も起きないというのは、いちばん静かな共犯だ。
羽賀はちゃぶ台の上のノートを開いた。取材ノートは、もう十七冊目になっている。
ノートの裏表紙に、羽賀は三つの数字を書いている。
十七。取材ノートの冊数である。
十四。三年前に死んだ人間の数である。
七十三。最初の記事を読んだ人間の数である。
三つとも、増えるはずの数字だった。増えているのは、一つだけだ。
一冊目の日付は一年半前だ。蒲生剛造が死んだ、その翌週。あのときはまだ、これが一年半続くとは思っていなかった。
ページをめくると自分の字が並んでいる。会えた人。会えなかった人。断られた電話。無視されたメール。会ってはくれたが何も言わなかった人。
字がだんだん乱れている。最近のページほど雑になっている。焦っているのだ、と羽賀は自分でわかる。
金も、そろそろ尽きる。
その夜、羽賀は、久しぶりに段ボール箱を開けた。
三年前に会社から持ち出した資料が、四箱分。ほとんどは、あの製薬会社の件だ。証言のテープ起こし。社内文書のコピー。取材ノート。全部、無駄になったものだ。
その中の一冊のノートを、羽賀は抜き出した。表紙に、几帳面でない字で「関係者」と書いてある。
あの件で、副作用の報告を握り潰す側にいた人間の名前が、そこに並んでいる。厚労省の役人。学会の重鎮。医療機器と医薬品の業界団体の、当時の役員たち。
羽賀は、そのページを、指でなぞった。
三年前、この名前たちに、羽賀は一人ずつ会いにいった。会ってくれた者もいた。ドアの前で追い返された者もいた。そして誰一人として、罪に問われなかった。
その中の一つの名前で、羽賀の指が、止まった。
――鵜飼庸介。
セイワ医科工業。当時、常務。いまは、退任して業界団体の要職にいる。
この男には、会えなかった。三度、申し込んで、三度とも断られた。四度目に、会社の受付で、警備員に腕を掴まれた。
羽賀は、その名前を、しばらく見ていた。
なぜ、いま、この名前が目に入ったのか。自分でもわからない。ただ、何かが引っかかった。手を洗ったあとに、指の間に何か残っているような、そういう感じだった。
羽賀は、ノートを閉じた。
閉じてから、もう一度開いて、その名前を見た。なぜ引っかかるのかは、やはりわからなかった。
その夜、羽賀は、久しぶりに娘の写真を見た。段ボール箱の底に、一枚だけ入れてあった。
妻のSNSは、月に一度だけ見る。それ以上見ると、自分がおかしくなるとわかっているからだ。
先月の投稿に、娘が写っていた。後ろ姿だけだったが、背が伸びていた。制服を着ていた。中学に上がったらしい。
入学式のことを、羽賀は知らされていない。知らせる義務も、たぶんない。
小学二年生の顔だ。もう、この顔ではないだろう。
俺は、この子のために書いているのだ、と言えたら、どれほど楽か。だが、そうではない。羽賀は、自分が書きたいから書いている。
その二週間後、羽賀は病院の近くの定食屋で、隣の男の電話を聞くことになる。
――ああ、鵜飼さんね。あの方は、医長のほうで診てますから。それだけだった。
医長のほうで診てますから。
羽賀は、その一言をノートに書いた。その日の日付を入れた。
十七冊目の、四十一頁目である。
この頁を、羽賀は三年後にもう一度開くことになる。
(第一章 了)
本作はフィクションです。登場する人物・団体・病院・地名・出来事はすべて架空であり、実在のいかなる個人・組織・医療機関とも関係ありません。
一、医療・外科手術・法医学・司法手続き(調査法解剖、死体検案書、関係法令等)に関する描写は、いずれも物語を成立させるための演出です。医学的・法的な正確性を保証するものではなく、現実の手技・手順・制度を忠実に再現したものでもありません。また、作中のいかなる行為についても、その再現・実行を意図し、あるいは推奨するものではありません。
二、本作は、殺人・児童虐待・自殺・毒殺などの重い主題を含みます。これらは物語の主題を描くための表現であり、そうした行為を肯定・助長する意図は一切ありません。
三、専門的・制度的な事項については、必ず各分野の専門家および公的機関の最新の情報をご確認ください。本作の記述をもって、現実の判断の根拠とすることはお控えください。
――この物語は、事実ではなく、物語です。
毎日、22時に投稿予定です。(全10章)
それでは、次の章で、またお会いできますように。
隠岐群青




