2-13 翔吾の母
「母親に、会ってこようと思う。」
長い夏休みの終盤。翔吾は唐突に言った。
「お母さん……?」
彼の母については、少し前に聞いたばかりだった。
「確か、ちょっと遠くの施設に居るって言ってたよね。」
「ん。俺もよく知らねぇけど、グループホームだと。」
喋りながら翔吾の手はずっとライターを弄もてあそんでいた。
蓋を開けて閉める。
彼の指の間で、オモチャのようにそれはくるくると回った。
「煙草、ここで吸ってもいいんだよ。」
一応勧めて見たが、手を振って断られた。
「……あの人が、他人と暮らしてるとか信じらんねぇけど。……顔だけ。一回見てくるだけ。」
彼の言葉はいつになく歯切れが悪かった。
記憶の殻を自ら破ろうとしている彼の葛藤が夕月の目にもはっきり見えた。
「お弁当、作ろうか。」
「……さんきゅ。でも、今回はいいや。」
微かに笑った翔吾の目は、夕月の後ろの壁を通り抜けて、どこか遠くを見ていた。
「俺1人で行ってくる。」
「翔吾、もう帰ってくるかな……。」
キッチンから振り返ると、いつも翔吾の座っている場所だけ、ラグが凹んでいるのに気がついた。
なんだか彼がそこにいた証みたいで、引き寄せられるように膝をついた。
そう、彼はいつもここに座って、指で下手くそな猫を描いている。
時計は深夜に近い時間を指していた。
玄関の鍵が回る音に、夕月はそっと立ち上がった。
ただ「おかえり」と、いつもと変わらぬ声で迎える。
翔吾は黙って頷き、シャワーを浴びに行った。
上がった翔吾の手を引いて、ラグに座らせる。
頭にタオルをかけて、丁寧に濡れた髪を拭った。
彼は何度か何かを言いたそうに息を吸い込み、けれどその度に口をつぐんで、されるがままになっていた。
「ね、お腹空いてない?」
黙って首を振る。
翔吾は黙ったまま、一度夕月の頭に手を置いて立ち上がった。そのまま煙草を取り、ベランダへと向かう。
夕月はその背中に煙が漂うのを、じっと見守った。
最後の煙が風に流されたのを見て、アルミサッシを引き開ける。
「ねぇ、翔吾が居なくて、寂しかったよ。」
シャワーを浴びたばかりの背中はTシャツ越しにもまだ湿っているのがわかった。
額を押し当てて、一言だけ伝えた。
翔吾がいないと寂しい。だから。
──ちゃんと帰って来てくれて良かった。
翔吾は何も言わなかった。
ただ一つ、震える息を吸って、吐いた。
夕月もそれ以上何も言わず、 煙草の残り香の中で彼の呼気に耳を澄ませていた。
「……あのさ、ちょっとそのまま、そこにいてくんない?」
やがて、翔吾がポツリと言った。
「……謝られたよ。ごめんねって。後悔してるって。」
翔吾は静かに語り出した。
ベランダの柵を抱えこむ様に背中を丸めて、乾いた笑い声を上げる。
「でもさ、参ったぜ? 俺の顔覚えてねぇんだよ。息子がいたって事は知ってた。赤ん坊の写真一枚持って、これが貴方ねって。……知らねーよ、そんなの。」
くっくっと喉を締めた笑い声は嗚咽のように聞こえた。
夕月はただ、翔吾の腰に回した腕に力を込めた。
「……病気だったって、薬のせいだって、あの人なりに苦しんでたって、わかってる。……でもさ、怒鳴ったことも殴ったことも覚えてて、なんで俺だけわかんねぇんだよ……!」
大きな声ではなかった。けれど確かに叫びだった。
静かな慟哭が蒸し暑い夜の空気をかき混ぜる。
部外者の夕月が言葉をかけるには、語られた事はあまりに残酷すぎた。
「……まぁ、おあいこかもな。あの人の顔も、俺が覚えてるのと違ったし……。憑き物が落ちたみてぇな、サラッとした顔してたよ。……許すとか、言えねぇけど、なんか……ひとつ終わった気は、した。」
わざとらしい笑い声を混ぜながら、翔吾はそう締めくくって、何度も深く息をした。
鼻を啜る音は聞こえないふりをした。
「……ごめんな、つまんねぇ話に付き合わせて。」
長い間俯いていた彼の背が伸びるのを感じて、夕月も腕の力を緩めた。
「つまんないなんて、そんな言い方しないで。私は翔吾がここにいるって、ちゃんとわかるよ。……お母さんの代わりにはなれないけど。」
振り向いた翔吾は、濡れた瞳で微かに笑みを浮かべた。
「じゃあ夕月が、覚えててくれればそれで良いや。……あのさ、もう一個お願いがあんだけど、いい?」
「なぁに?」
改まった言葉に首を傾げると、耳元に唇を寄せて照れ臭そうに囁いた。
「……腹減ったんだけど、なんかある?」




