1-2 不眠
雨の降る気配はなかったが、春の夜の湿度は妙に重たかった。
時計の針は深夜1時を指す所だった。
翔吾は品出しを終え、レジ横の棚にもたれて、明日の講義のことをぼんやり考えていた。
──面倒くせぇ。行かなくても死なねぇ。
「っせー」
自動ドアが開く音がして、投げやりに声を上げた。
入ってきたのは夕月だった。否応なく、大学での時間を思い出した。
次に浮かんだのは、恐らく部屋着のままサンダルを突っかけた無防備な格好で深夜に出歩く彼女を案じる気持ちだった。
「あ、翔吾。こんな時間にバイトしてたの?」
夕月は無邪気な様子で声をかけてきた。
「夕月こそ、こんな時間に何やってんだよ。」
「ここ近いの。レポート書いてたらお腹空いちゃった。」
夕月は限定商品のパフェを手に取って、そのままレジカウンターに置く。
「こんな時間までお勉強かよ。お利口なこって。」
「翔吾こそ、こんな時間までバイトして。今年から水曜の一限、必修だよ。」
鼻を鳴らした翔吾に返したその声は、いつも通りだった。説教でも呆れでもなく、少しだけ笑って付け足す。
「サボってばっかりいると、留年するから。」
「……チッ」
どうでもいいと思っていたことを見透かされた気がして、思わず舌打ちをした。
「俺だって色々あんだよ。留年なんて、したらしたで面白いじゃねぇか。俺のことなんか心配すんなよ。」
言いすぎたと思った瞬間には、もう夕月が袋を持ち上げていた。
いつもと同じ顔を装った夕月の眉が少し下がっていた気がして、翔吾の奥の何かがスレた。
「バイト頑張ってね。」
夕月がそれだけ言い残して、踵を返して歩き出した。
──夜中に危ねぇから。送るから少し待ってろ。
喉元にあったその言葉は、どうしても出てこなかった。
深夜の街に無防備な背中が溶け込んでいく。
翔吾はレジ画面を睨みつけて、言えなかった言葉を黙って飲み込んだ。
次の日の一限、夕月は講堂に彼の姿を見つけた。
珍しく取り巻きを連れずに頬杖をついて1人で座っている。
少しだけ、ぼーっとしているように見えた。
「もしかして、あれから寝てないの?」
「バイト終わってからちょっと寝た。……何だよお前そんな顔すんなよ。」
もしかして、昨夜の自分の言葉のせいで無理をさせたのかと自惚れた心苦しさを感じた。
夕月は荷物をもって彼の隣に腰を下ろした。
「しょうがないなぁ、出席つけといてあげるから寝てれば。」
「さんきゅ、じゃあお言葉に甘えるわ…、」
翔吾は机に頬杖をついたまま目を閉じた。
彼の寝息と本当に眠たくなりそうな単調な説明を聞きながら、回ってきた出欠記録に自分と彼の名前を書き込んで、また回す。
講義が終わって翔吾の肩に手を触れると、彼は驚いた様に目を開けて、一瞬神経質に視線を彷徨わせた。
それから夕月を目に留めて、息を吐いて照れた様に笑った。
「ごめんね、驚かせた?」
「……いや、助かった。今度なんか奢るな。」
翔吾は一度夕月の肩に手を置いて、振り向かずに講堂を出て行った。
夕月の驚いた目が、翔吾の中に残っていた。
──こんな日は、とっとと疲れて寝ちまうのが良い。
翔吾はいつものように適当に引っ掛けた女を連れて部屋に帰った。
どうやら身長と容姿に恵まれたようで、狙って声をかけて嫌な顔をする女は滅多にいない。それだけは遺伝子に感謝できる。
まぁ見た目でノってくるような女を選んでいるせいもあった。
コンビニで買わせた揚げ物を齧り、会話もそこそこにベッドに放った。
女は拒みもせずにへらへら笑っている。 ラメが光るベタベタした唇にはキスする気にもならなかった。
自分とは違う銘柄の煙草の臭いがして、吐き気がする。
「翔吾?」
『翔吾。』
女の甘えた声に、柔らかな別の声が重なって聞こえた。
女のけばけばしい爪が肩に触れてきて、大きく身を引いた。
あの時肩に触れた指先は、もっと柔らかかった。
「やっぱやめた。帰っていいよ。」
「は?なにそれ。」
女の声が一気に険を孕む。
「何じゃなくて、やる気失せた。出てけって。面倒くせぇな。」
喚く女を荷物ごと引きずり出してドアに鍵をかけた。
「っざけんなよ!バァーカ!!」
「……知ってるよ。」
1人になった部屋で、翔吾は朝まで煙草をふかした。
「翔吾、今日なんか顔色悪くね?」
「……ああ?」
「くまスゲーし、寝てないんじゃね。」
「いいねぇ、モテる男は!」
「俺も寝てねーって言ってみてぇわー。」
いつもつるんでいる奴らが、翔吾の顔を見て能天気に騒いでいる。 翔吾は鼻で笑って見せた。
「……まぁな。もう何日も寝てねぇ。」
霞がかかるような頭に大きな笑い声が響いて、1人で背を向けた。
女を抱けなくなった。 勃たなくなった訳じゃない。
ただ、手の届く所にいる女共に嫌悪しか抱けなくなった。
安い香水、派手な髪、長い爪、それらの物に触れられるのが我慢ならない。 そうしたら、眠れなくなった。
自分でも何故かわからなかった。いや、本当はわかっていた。
あっさり落ちてくる女に触れるたび、あの目が、声が、チラついたから。
「……夕月のせいだ。」
独りごちたその時、廊下の先にあの小さい背中を見つけた。
酷く、喉が渇いていた。
よぉ、と後ろから声をかけられて振り返った夕月は、その姿見て息を飲んだ。
「翔吾、……どうか、した?」
1人きりで廊下に立っている彼は酷い顔をしていた。
顔色が悪く、目の下に隈が見て取れる。
無精髭が生えて、眼差しは睨むように据わっていた。
近くの教室から、翔吾ー!と呼ぶ声がして、ほんの一瞬、彼の目に怯えの色が走るのを間違いなく見た。
いつもの余裕ぶって笑っている彼ではなかった。
──今の翔吾を放っておいてはいけない。
夕月は躊躇いなく翔吾に近づき、彼の腕を掴んだ。
「翔吾、ご飯いこう。この間、奢ってくれるって言ったよね。」




