1-1 小せぇ女と息が吸えない人
2人はいつもの埠頭で風に吹かれていた。
夕月はバイクの傍に膝を抱えて座り、翔吾は少し離れたところで風を避けて煙草に火を点けている。
春の海風は強く、火を庇うように広い背中を丸めているのが見えた。
「ねぇ、あんまり私とばっかり居ない方がいいよ。いっぱいいるでしょ、カノジョ。」
水面みなもが夕陽でキラキラと輝いている。
漸く煙草を咥えて戻ってきた翔吾は黒いバイクに手をかけた。
「俺は誰でもコイツに乗せるわけじゃねぇんだよ。」
「ふぅん。でも、カノジョ達に意地悪されたら嫌だもん。」
「困ったもんだな……。俺が悪いみてーじゃねぇか。」
渋い顔を見て、夕月は笑う。
「そうだよ、誰にでも手出すから。」
「別に誰にでも手出してる訳じゃねぇよ。」
翔吾はそっぽを向いて、煙を吐き出した。
「でも、お前といるのは、悪くねぇかな……。」
思わず見上げた一瞬、目があった気がした。
翔吾は遠くに目線を投げている。
振り返るまでは夕月を見ていたのかも知れなかった。
潮風になびく金の髪が、西陽でオレンジ色に光っている。
夕月は抱えた膝に頬を預けて笑った。
誰とでも寝ると言われるこの男が、夕月から距離を取るのがちょっと嬉しかった。
最初に夕月と会ったのは、大学2年の終わりごろ。
生ゴミの臭いがする路地裏で、翔吾は難癖を付けてきた男を相手に鬱憤晴らしをしていた。
口の割に手応えのないチンピラを壁に叩きつけ、追い討ちをかけようと拳を握って捻った背中が何か柔らかい物にぶつかった。
「あっ……!」
小さな声とガタッと何か固い物が地面に落ちる音。 振り返ると、若い女が汚れたアスファルトからスマホを拾い上げる所だった。
「あ、悪り、大丈夫か?」
声を掛けると、少しだけ驚いた様に女の目が大きくなった。
小さい。
立ち上がった女にまず受けた印象はそれだった。翔吾の胸の高さに顔がある。
「うん。ありがとう、大丈夫。」
彼女は長い黒髪を耳に掛けながら、小さな声で答えた。
──俺がぶつかったのに、ビビりもしないでありがとうなんて変な女だな。
女の凪いだ目を見て、不思議な気分になった。
「じゃあね、鮎川くん。」
「おう、気を付けろよ。……おい、テメェはどこ行くんだよ。」
足早に歩き去って行く小さな背中に声を投げて、逃げ出そうとしているチンピラに向き直った。
彼女が自分の名前を呼んだ事に、その時は気付かなかった。
次に彼女を見かけたのは、大学の講義前だった。
清楚っぽい白いカーディガン、長い髪を背中に垂らしている。
机に置かれている少し角の削れた白いスマホケースが不思議と何度も目について、ベタベタと寄り添ってくる女子を押し退けて、席を立った。
「なぁ、そこの……、えっと、ちっちゃいコ。この間会ったよな。スマホ壊れなかった?」
自分でも、なんで声をかけようと思ったのかよくわからなかった。別に女に困ってる訳ではないし、今まで遊んできた女のタイプとも全然違っていた。
「ああ、鮎川くん。」
彼女はまた翔吾を呼び、スマホを掲げて見せる。
改めて見た彼女は、柔らかさの中に芯がある凛とした佇まいと声色をしていた。
「大丈夫だった。鮎川くんこそ、怪我しなかった?」
「あんな雑魚ヨユー。つかさ、何で俺のこと知ってんの?」
「鮎川くん大きいから、目立つし。」
チラッと翔吾が座っていた席に目をやる。数人の女子が呆れや怒りの籠った目で2人を見ていた。
「……まぁな。なぁ、俺の事は翔吾で良いからさ、名前教えてよ。」
「篠原夕月」
夕月は翔吾をまっすぐ見つめて、短く名乗った。
「へぇ、夕月ね。覚えた。」
ゆき、ともう一度喉の奥で転がすと、夕月が微笑むように目を細めた。
「夕月さ、なんであんな所歩いてたんだよ。普通あんな汚ねぇ路地避けるだろ。」
「うん、ちょっと欲しい本があって。あの奥に古本屋さんがあるってネットで見たんだけど、結局見つからなくて。」
「本屋ぁ?」
翔吾は目をすがめて路地を思い出した。路地を抜けた先のわかりづらい汚い入口。確かにリユースショップだった気がする。
「あー……、それっぽいのあった、かも? でも普通の本屋じゃないんじゃね。やっぱ行かねー方がいいぜ。」
「うん、わかった。」
夕月は思いの外素直に頷いた。
「……俺が適当に喋ってるかもとか思わねーのかよ?」
「だってあの辺り、私より、翔吾、の方が詳しいでしょ。」
裏道の知識を信用された事よりも、ちょっと呼び捨てる時にはにかんだ声が翔吾の印象に残った。
大きいから目立つ。夕月が彼に答えた事に嘘は無かった。
けれど、長身で肩幅が広いモデルの様なスタイルよりも、ずっと目立って噂になっているのが、彼の生活態度だった。
大学に出てくるのは週に数コマ分の時間だけ。いつ見ても派手な女の子を連れて歩いている。
真偽の定かでない噂曰く、それ以外の時間はバイクで街を暴走しているとか、暴力団の関係者だとか、はたまたま乱交パーティーしているだとか。
──でも、そんな悪い人に見えなかったけどな。
夕月は、アスファルトに落として傷になったスマホケースを指でなぞった。
確かに路地裏で見た時は、喧嘩の最中の様だった。
けれど無関係に巻き込まれた自分を気遣ってくれたし、後から心配して声を掛けてくれた。
それに何となく。
今日初めて至近距離で見つめた彼の目が、何かを求めているように見えた。
ある日、翔吾が座っていた席に、ライターが落ちていた。
四角い金属製の、ちょっと珍しい形。
きっと彼のだろうとあたりをつけて、夕月は翔吾を探した。
「はぁあ!? 信じらんない! サイッテー!!」
駐輪場の近くまで来た時、つんざくような、甲高い女の声がした。
思わず振り返ると、そこには思い切り頬を張られる翔吾と、肉感的な女子の姿があった。
「……ってぇな。」
翔吾が呟いた時、その女子は夕月の脇を抜けて走り去っていた。
「あ、夕月」
目が合うと、翔吾は照れたようにニヤッと笑った。
「翔吾、落とし物。……ごめん、見ちゃった。」
「うわ、ダッセェー」
ライターを差し出すと翔吾は何でもなさそうな顔で僅かに赤くなった頬をさすって見せた。
「……あの女、思いっきりぶっ叩きやがった。」
「振られたの?」
「フッたの。ライター、どうも。」
翔吾はバイクに歩みよった。
「夕月、もう帰るだけだろ?送ってやるから、ちょっと乗ってけよ。」
「女は乗せないって言ってなかった?」
以前教室で強請る女をあしらっていた言葉を思い出して尋ねると、翔吾は気まずそうに目を逸らした。
「今日だけ、特別。嫌なもん見せたお詫びに、俺の秘密基地教えてやるよ。」
「……バイク、乗った事ない。」
夕月が立ち尽くしていると、翔吾が可笑しそうに笑いながら背を屈めた。
「ここ、足かけて、違うって反対の足。肩掴まって。」
ひと苦労してバイクに跨ると、翔吾はエンジンをかけてスタンドを蹴った。
「ちゃんと掴まってろよ。」
夕月は強い風の中に、潮の香りが混ざって行くのを感じていた。
翔吾がバイクを停めたのは、静かな埠頭だった。
海鳥の他は誰も居なくて、一隻の大きな船が停まっていた。岸壁の向こうには一面の海が広がっていた。
「ここ、俺の秘密基地。」
「……すごい。風が気持ちいい。」
開放感すごい、と続けて言うと、翔吾は自分が褒められたかのように嬉しそうに笑った。
「だよな。ここに来ると息してるって感じすんだよ。」
「でも、煙草は吸うんだ。」
「……これも呼吸の一部なんだよ。」
咥え煙草でバツが悪そうに答える翔吾を見て、夕月はふと、他のところでは息出来ないのかな、と思った。




