1-3 遣らずの雨
開いたばかりの小さな居酒屋のテーブルで、夕月と翔吾は向かいあっていた。
「いただきます。」
夕月が料理を前に手を合わせると、黙っていた翔吾がふと目をあげて見つめてきた。
「……どうかした?」
「いや、……そういうちゃんとしたの、見たことなかったから。」
「へぇ。」
翔吾はぼうっと夕月が箸を運ぶのを見ている。
気恥ずかしくなって、誤魔化すように言葉を紡いだ。
「こういうのしないお家もあるよね。うちの妹だってやらないし。私は、なんとなく。カッコいいかなって。」
「かっこいい、か。」
翔吾はようやく少し笑って、ぼそぼそといただきますと言った。
食べ進めながら、夕月は気になっていた事を聞いてみた。
「最近女の子あんまり連れてないね。この間フラれてたし。」
「だから、あれは俺がフッたんだよ。……そういうの、面倒くさくなっただけだ。」
翔吾は倦うんだ目をして呟くように言った。
「ふぅん、……そうなんだ。」
だから夕月も、それ以上は聞かなかった。
居酒屋からの帰り道。
空は黄昏を通り越してそのほとんどが藍色に染まっている。
街灯の下で、夕月は翔吾を振り仰いだ。
「翔吾、最近ちゃんと寝てる?」
翔吾は足を止めて隈の浮いた目で夕月を見下ろした。
「……寝てるよ。」
低く掠れた声が間を置いて答える。明らかに嘘だった。
夕月は少し考えて、その上着の袖を掴んだ。
「もし、良かったら。今夜、家こない?」
翔吾の目が少し開く。 夕月は袖を掴んだまま、目を逸らした。
女の一人暮らしの部屋に招く事がどう思われるか、考えなかった訳ではなかった。
それでもなんとなく、彼をこのまま1人で帰したくなかった。
「……夕月、お前さ、」
「あ、えーっと、そういうんじゃなくて……。飲み直そうよ。映画ね、借りたんだけど、1人で見てもつまんないし……。」
だんだん俯いて小さくなる夕月の声を聞きながら翔吾は少し笑った様だった 。
夕月の頭に大きな手が乗った。
「わかった。そんな言うなら、行ってやるよ。」
「はい、どーぞ。」
少し恥ずかしそうに、夕月がドアを開けて部屋に入って行く。
翔吾は靴を脱ぎながら、部屋の奥に目をやった。 狭いが、乱れていない空間。
毛足の長いラグの上に置かれた小さなローテーブル。花の柄が入ったマグカップ。読まれた本が積まれた棚に、畳まれたブランケットが重ねられている。
どこか懐かしいようで、知らない匂いがした。
この部屋に流れている時間は、誰かがまともな生活を営んでいる証だった。
「好きなとこ座ってて。お酒、あったかな……。」
飲み直そうと誘ったくせに、夕月の部屋には他人と酒を飲むような雰囲気が感じられなかった。
「……なんでもいいよ。」
翔吾は上の空で答えながら、床に敷かれたラグの端に腰を下ろす。
理由もなく泣きそうになって、唇を引き結ぶ。
今まで過ごしてきた部屋とは違いすぎて、今この空間にいる自分が酷く不釣りあいに感じた。
ジロジロ見ては悪いと思いながら、焦がれるように部屋を眺めるのを止められなかった。
柔らかい色のラグに手を滑らせると、毛足の色がさっと変わる。それが妙に優しくて、つい何度も手を往復させた。
「ごめんね、コップが揃ってなくて。こんなんで。」
もう一本の手に可愛らしいマグカップを持った夕月が、恥ずかしそうにプラスチックのコップを差し出した。中には冷えた麦茶が入っている。
「ビール、あったんだけど、冷えてなくってね。」
その時だった。遠くでパラパラと何かが落ちるような音。
ベランダの向こうで、雨が降り始めていた。音は小さく、けれど絶え間ない。
「……降るって言ってたっけか。」
夕月が立ち上がって、少しだけカーテンを開ける。
つられてそちらに目をやると、水滴がガラスに走り、街の明かりが滲んでいた。
「……どうする?」
夕月が迷った顔で振り返る。
プラスチックのカップに目を落とすと、冷たい麦茶に照明の明かりと迷子の様な顔が映って揺れていた。
「……いや普通に帰るよ。泊まってったら、迷惑だもんな。」
「掛け布団、あんまりないけど、寒くなければ。」
水圧の弱いシャワーが体を叩く音は、雨音に似ていた。
花の匂いのする泡が、排水溝に集まって少しずつ消えて行く。
──あいつ何考えてんだ。
知り合い程度の男を部屋に上げ、泊まるのならと当たり前のようにシャワーを勧めた。
おおよそ警戒心というものを感じられない。
だが、彼女の瞳には他の女の様な何か期待する色も見出せ無かった。
狭いバスルームから戻ると、夕月が柔らかそうなタオルを差し出してくる。
「風邪ひいちゃうよ? 雨やどりが台無し。」
着替えがないのでそのまま同じものを着たTシャツの肩は、夕月が言うように髪から落ちる滴で雨に打たれたように濡れていた。
タオルを受け取ると、柔らかく笑って棚のブランケットに手を伸ばす。
「どうする? ソファとベッドどっち使っても良いよ。」
「いや、ここで良い。」
最初に座っていたラグに腰を下ろす。
夕月はブランケットを持って翔吾の側に座った。
小さな手がリモコンを手に取り、映画が流れ始める。
翔吾はラグの毛足を撫でながら、誰かと黙って座るだけの夜が自分にもあることに、少しだけ驚いていた。
夕月は何も求めなかった。
隣に並んだ触れそうで触れない肩に僅かな温もりを感じる。
ただここにいても良いと言われているようで、強烈な安堵を感じた。
何日もまともに眠っていない頭が、急に限界を訴え始めた。
雨音と去年流行った映画の台詞が混ざり合って遠く聞こえる。
「……翔吾、寝ちゃった?」
夕月の声が耳元で聞こえて、肩が包まれるのを感じたが、もう一言も声が出なかった。
薄い光が、カーテンの隙間からラグの上に落ちている。
翔吾は目を開けてしばらく何も思い出せなかった。
「……俺寝てた?」
薄いブランケットに籠った温もり。 硬い床のはずなのに、なぜか心地よかった。
隣に目をやると、夕月が膝を抱えるように蹲って眠っていた。
起こさないようにそっと動いたつもりだったが、翔吾の動きに気づいたのか微かに目を開けた。
「おはよう。」
まだ眠そうな声で、花が咲くようにふわっと笑う。
咄嗟に返す言葉が出ず、ただ「ああ」と呻くように答えた。
まだ、夢の続きのようだった。
「寒くなかった? 途中でブランケット掛け直したんだけど。」
「……なんか、すげーよく寝た気がする。生まれて初めて。」
本当に、頭がすっきりしていた。 二日酔いでもない、じっとりした疲労もない。
自分がこんなに安らげる場所にいたこと。誰かが隣にいたこと。
それは人生で初めての経験のように感じた。
夕月は目を細めて、「良かった」とだけ言い、それ以上は何も聞かなかった。




