2-3 好きの先にあること
その日は確か、最初はTVがついていたと思う。
色々あって、恋人みたいな関係になった、少し後。
2人とも入浴を済ませて隣り合って座っていて、もうあとは電気を消すだけだった。
「夕月。」
翔吾が呼んで、手の甲をすっと指先が撫でる。
キスされると思った。
触れるだけのキスは、もう何度もしていた。
翔吾に寄り添うように距離を詰めると、ふっと小さな笑い声が落ちて来た。
「夕月、もし嫌じゃなかったら、膝乗って。お前小さすぎ。」
そう言われて初めて気がついた。
自分が見上げてばかりだと思っていたけど、翔吾も同じだけ背を屈めてくれていたのだと。
手を引かれるのに合わせて、おずおずと胡座をかいた片膝に跨ると、目線が揃った。
キスされる時、大きな手が後頭部に回るのが好きだった。少し遠慮がちに指先が耳を通って、髪の毛を梳くように頭皮をなぞられると背中がさわっとする。
もう片方の腕は、いつも肩の上から背中に回って抱きしめられているけど、今日は腕の下を通って巻き付くように腰を抱かれていた。
床についている膝下以外の全身が、彼の身体にくっついていて、少し恥ずかしかった。
いつもの、「おやすみ」のキスじゃなかった。
繰り返されるキスの途中で名前を呼ぼうと思ったら、その声と息ごと飲み込まれて、後はもうよくわからなくなった。
どきどきして倒れそうな身体を、翔吾の腕が強く支えていた。
「夕月、嫌だったらすぐ言えよ。もし止まんなかったら、殴っても噛み付いてもいいから。」
気がついたらもうベッドで翔吾を見上げていた。
熱い手がゆっくりと肌をなぞった。
くすぐったいのか、それが「気持ちいい」なのかよくわからなくて、顔を隠すように翔吾の腕に縋った。
途中で「やっぱりやめとく?」って聞かれて、首を振った。
痛いのも苦しいのも、嫌じゃなかった。
たくさん名前を呼ばれて、身体の底から「好き」が溢れてきて、溺れてしまいそうだった。
「好き」だけじゃ駄目なのかもしれない。
幸せだった「初めて」の記憶をなぞっても、あの女の子の声色が、耳にこびりついて離れない。
隣から聞こえる寝息に耳を澄ませながら、自分の肩を抱いた。
何度も寝返りを打っていたら、翔吾を起こしてしまった。
「夕月? どうした?」
「……眠れなくて。」
笑ったつもりだったけど、失敗したみたいだった。翔吾は柔らかい手付きで夕月の髪を撫でた。
「なんか悩んでんだろ。」
翔吾はいつも優しい。
初めての時も、それからの夜も。夕月の準備ができるのを待って、いつでも壊れ物に触るように、優しく導いてくれた。
でも、彼は?
「ねぇ、翔吾。私さ、もっと翔吾に……、いっぱい触った方が、良いよね……。」
それ以上は上手く言葉にならなかった。
慎みにかこつけて知らないでいた事が、逆に恥ずかしかった。 だから湿度の籠ったベッドで、もう1度肌を寄せた。
「……焦んなくていい。」
翔吾は夕月を抱き留めて手のひらに口付ける。でも、それだけだった。
「夕月が本当にしたいなら、それでいい。俺は嬉しい。……でも、何か気にしてそんな事すんなら、嬉しくない。」
図星だった。
翔吾の顔が見られなくて、肩に顔を埋めた。
「でもさ…、」
「……そりゃ、夕月と色んな事、したくない訳じゃない。でもこうやって側にいるだけで、充分だから。」
もう、夕月は何も言えなかった。
そのまま夜が明けるまで、黙って寄り添って、やがて眠ってしまった。
朝の気配を感じて、翔吾は目を開けた。
腕の中にはまだ夕月が眠っている。
いつも夕月の方が先に起きているので、明るい部屋で夕月の寝顔を見るのは珍しいことだった。
しばらく眺めていると、まつ毛が震える。
「んん、」
「おはよ。」
「……おはよう。」
声をかけると、肘をついて身体を起こした。寝ぼけた顔のままベッドを降りていく。
「まだいいだろ。もう少し寝てよーぜ。」
「だめー……。」
ヤカンをかけて、顔を洗いに行く、今までも何度か見たいつものルーティン。今日はかなり眠そうだ。
昨夜はあまり眠れなかったようだから、仕方ない。
心当たりがあった翔吾は弾みをつけて起き上がった。
「仕方ねぇなぁ。」
夕月が戻ってくる前にトーストと目玉焼きを焼いておく。それからレタスを千切って、コーヒーを入れる。ちゃんと2人分。
夕月の部屋で過ごす内にそのくらいはできるようになった。
「わぁ、朝ごはんできてる! ありがとう、今日は起きるの早いね。」
「おかげさまで。誰かさんに昼まで寝られない身体にされちまったんだよ。」
翔吾の軽口を気にも留めず、戻って来た誰かさんが向かいに腰を下ろす。
「もしかして、あれから寝られなかった?ごめんね、起こしちゃって……。」
夕月がトーストを齧りながら眉毛を下げる。夕月はいつも、翔吾の眠りに敏感だった。
「いや、ちゃんと寝た。……夕月こそ、昨日変だったろ。」
「うん、ちょっと、……眠れなくて。」
昨夜と同じ顔で、同じ言い方をする。翔吾は少し躊躇って、聞かざるを得なかった。
「……杏奈の言った事、気にしてる? あれ多分ただの八つ当たりだから、」
「あの人、杏奈さんって言うんだ。……ごちそうさま。」
「夕月!」
夕月は曖昧に笑って誤魔化そうとした。
ここで逃したらまた拗れる。
席を立ちかけた夕月の腕をテーブルごしに掴んだ。
「昨夜も言ったけど、お前の気持ちを無視してめちゃくちゃしたいとかされたいとか、本当に、これっぽっちも思ってない。杏奈にも悪いことしてたと思ってる。俺は、今の夕月が一番好きだから。……それだけ、覚えといて。」
頑なだった夕月の瞳が柔らかく潤んでいく。涙を堪える目で下手くそに笑った。
「……意地はってごめん。」
「……無理に笑わなくて良いって。俺の方が悪かったんだし。」
しばらくして、2人で食器を片付けながら、夕月が呟いた。
「翔吾、私ね、ずっと言いたかったんだけど。」
「ん? 何?」
「さっきからほっぺにパン屑ついてるよ。」
「っ、早く言えよ! そういうことは!」
顔を擦る翔吾を見て、ようやく夕月は声を上げて笑った。




