2-4:害意の神経網
「先生、私、この素晴らしい感動を世界中のみんなにも伝えたいです。
今のネットなら、この価値を、この文字の声を正しく理解できる人が、きっとどこかにいるはずです」
加瀬はそう言うと、三嶋が引き止めるよりも早く、スマートフォンをポケットから取り出し、本の真上に構えた。
カシャカシャ、カシャカシャと、静かな事務室に連続して不快なシャッター音が響く。
彼女が撮影したのは、あの奇妙な文字を含む、数ページの鮮明な写真だった。インクの濁った赤黒さが、液晶の光の中に吸い込まれていく。
「おい、加瀬、やめろ!
大学の未公開資料だぞ、勝手にネットに上げるな!」
三嶋は慌てて手を伸ばしたが、加瀬は器用に身を翻してそれをかわし、すでに画面を素早く数回タップしていた。
「大丈夫ですよ。私の個人アカウントですし、ちょっとした解読チャレンジとして投稿するだけですから。ケチなこと言わないでください」
彼女が投稿した先は、中高生から大人まで、一億人以上のユーザーが秒単位で利用する、リアルタイム拡散型の巨大SNSプラットフォームだった。
『大学の倉庫で、誰も読めない不気味な古書を見つけました。誰か解読できる天才はいませんか?』という、承認欲求を隠そうともしない軽いキャプションとともに、あの歪んだ記号の写真がタイムラインに放流された。
最初は、ただの悪戯や、よくある都市伝説系の暇つぶしとして扱われるはずだった。
現代のネットには、この手の奇妙な本や偽の古代文字の画像などあふれ返っている。
普段なら、数件のいいねや「フェイク乙」というコメントがついて埋もれるだけの、ありふれた投稿になるはずだった。
しかし、この本が持つ狂気は、ネットという媒体を通じて爆発的な伝播を始めた。
投稿からわずか10分後、事務室の静寂を暴力的に破るように、加瀬のスマートフォンの通知音が鳴り響き始めた。
ピン、ピピピン、ピン、ピン――。
それは次第に途切れることのない、不協和音のような連続音となり、スマートフォンのバイブレーションが机の木面と擦れて、ブブブブブブと不気味に震え続ける。
端末が発熱し、画面が異常な速度で明滅していた。
「……え? なにこれ、信じられない。凄い勢いで拡散されてる……」
加瀬が引きつった笑みを浮かべ、目を見開いて画面をスクロールする。
スマートフォンの画面の中で、数字が狂ったように跳ね上がっていた。
閲覧数は瞬く間に数百万を超え、リポスト数は1万、5万、20万――と、恐ろしい速度でカウントを増やしていく。
そして、その写真を見た、世界中の見知らぬ無数のアカウントたちが、コメント欄で異常なまでの熱量と殺意を持って解釈をぶつけ合い始めたのだ。
『これ、マジで洒落になってない。とある国際テロ組織の大量爆破予言書だわ。
この記号の羅列、ガチで主要都市の座標データになってる。警察マジで早く動いてくれ!!』
『いやいやデマ流すな。これは中世の魔女狩りで不当に虐殺された人々の、ガチの呪いの書だよ。
見てるだけで頭痛ヤバい。拡散した奴も巻き添え食らうから今すぐポスト消せ!』
『お前ら揃いも揃って騙されすぎ。これは某大国が隠蔽してる全人類の人口削減計画の決定的な証拠。
ついに開示されたか……。全人類、反逆の狼煙を上げる時が来たんだよ。』
コメント欄は、一瞬にして互いを罵り合う地獄のような戦場と化した。
誰もが自分の解釈が唯一の正解だと盲信し、それに少しでも異を唱える他者を、人間とは思えないような激しい言葉で罵倒し、人格を否定し、容赦なく攻撃している。
ネットの向こう側にいる何万人、何十万人もの人間が、たった1枚の不気味な写真を通じて、異常なまでの怒りと執着を爆発させていた。
三嶋は加瀬の画面を横から覗き込み、全身の血が引いていくのを感じた。
画面の向こうのアカウントたちは、お互いの顔も名前も知らないはずなのに、その本の正しい読み方を巡って、本気で殺し合わんばかりの憎悪を滾らせている。
スマホの画面から、人間の生々しい悪意の熱が、物理的な熱量となって伝わってくるようだった。
ネットという巨大な神経網を通じて、この本の害意が、毒液のように世界へ拡散していく。
三嶋はその怒りの熱量の異常さに、ただならぬ不気味さと、吐き気を伴う生理的な嫌悪感を抱いた。
この本は、人間の心の奥底にある「他者を攻撃したい」「自分が絶対に正しいと思いたい」という醜い破壊衝動を効率的に呼び覚ますための、何か邪悪な増幅器なのではないか。
画面の向こうで膨れ上がる狂気を見つめながら、三嶋はそんな恐ろしい錯覚に囚われていた。




