2-5:孤立する現実
その日の夜、白井と加瀬が、それぞれのスマホ画面に齧り付いたまま、取り憑かれたように大学を去った後。薄暗い事務室には、三嶋1人だけが残されていた。
窓の外は完全な闇に包まれ、遠くで電車の走る微かな金属音が、現実の世界の音として聞こえるだけだ。
静まり返った部屋の、蛍光灯の光が届かない机の真ん中に、あの黒い本がぽつんと置かれている。
世界中を炎上させ、無数の人間の精神を狂わせている元凶が、いま、目の前で静かに呼吸をしているかのように、ただそこに鎮座している。
三嶋は、ごくりと乾いた生唾を飲み込んだ。
(……もう一度だけ、確かめさせてくれ。俺の頭が本当におかしいのか、それとも、この世界が……)
恐怖にガタガタと手を震わせながら、三嶋は本に近づき、その黒い表紙を開いた。
目指すのは、昼間、白井と加瀬が激しい言い争いを繰り広げ、SNSで拡散された、あの文字が書かれているページだ。
三嶋の正確な事務記憶によれば、それは確かに、全体のちょうど真ん中に位置する第64ページのはずだった。
三嶋は、自分の指先を汚さないように慎重にページをめくっていく。
50、55、60、63、64――。
「……え?」
三嶋の指先が、氷を触ったように冷たく凍りついた。
加瀬が撮影し、いまもネットの海で爆発的に拡散され続けているはずの、あの上下対称の記号が並ぶページを開いたはずだった。
だがそこに刻まれているはずの、あの不気味なシンメトリーは、影も形もなかった。
そこにあったのは、文字すら存在しない、ただの無音の紙面だった。
さっきまで確かにそこにあり、現にスマホの画面の中で何百万人もの人間が目撃しているはずのあの文字が、忽然と消え失せている。
「おかしい……。そんなはずはない、もっと後ろのページだったか?」
三嶋は額から止めどない冷や汗を流しながら、狂ったようにページを前後にめくり直した。何度も、何度も、指の皮膚が擦り切れるほどに硬い黒頁をめくる。
「どこだ……どこにいった……っ」
しかし、どれだけ目を血走らせて探しても、あの上下に対称だった記号は、本のどこを探しても跡形もなく消え失せていた。
代わりに、今まで見たこともない、より複雑で棘々しい新しい記号の組み合わせが、あちこちのページに平然と滑り込んでいた。
本の構造そのものが、人間の目を盗んで、生き物のようにその内臓を組み替えている。
翌朝、三嶋は登校してきた白井に、血走った目で掴みかかった。彼の作業着はシワだらけだった。
「白井! この本、中身が変わってるんだ!
昨日お前と加瀬が言い争ってたあの記号のページが、別の場所に移動してるか、完全に消えてる!
文字が動いてるんだよ!」
しかし、白井は徹夜でさらに やつれ切った、まるで死人のような顔で、冷たく三嶋の手を振り払った。
「何をみっともない大声を上げているんだ、三嶋。そんなはずはないだろう。
この本は最初からずっと、この美しい構造のままだ。君の脳はいよいよ壊れてしまったのか?」
白井は一切の迷いなく本を開き、あるページを無造作に指差した。そこには、確かに上下対称の記号があった。
あろうことか、そこは昨夜、三嶋が何も無いと何度も確認したはずの、42ページだった。
「ほら見ろ。最初からここにあったじゃないか。
君の記憶力が異常をきたしているだけだ。それとも、若年性の認知症か何かか?
哀れだな、現実が見えない人間というのは」
白井の冷徹な言葉に、三嶋は1歩、2歩と、後ろへよろめいた。
白井の目は、嘘をついている人間のそれではない。
彼は本気で、一点の疑いもなく最初からこのページにあったと信じ込んでいるのだ。
加瀬も横で、当然のように頷いている。
(俺の、記憶が間違っている……?
いや、違う。本が、俺の認知を狂わせようとしているんだ。
世界が、静かに壊れ始めているんだ……)
三嶋は自分の頭を両手で強く抱え、冷たい事務室の真ん中で、1人きりで立ち尽くした。
周囲の人間が、ネットの無数の悪意が、そして本そのものの構造が、三嶋という存在の現実をじわじわと書き換え、彼の正気を確実にすり潰そうとしていた。
彼だけが、その底なしの沼の手前で、孤独に怯えていた。




