2-2:2つの正解
「あの、失礼します……。白井先生、いらっしゃいますか?」
事務室の建付けの悪い木製ドアが、ギィと不快な音を立てて控えめに開いた。入ってきたのは、人文学部の学部生である加瀬だった。
彼女は白井のゼミに所属している大人しい学生で、普段から真面目ではあるが、自己主張が弱く、周囲の意見に流されやすいタイプだった。
手には、白井から依頼されていた資料アーカイブ化のためのスキャナー機材を重そうに抱えている。
「あ、加瀬か。そこへ置いておいてくれ」
白井は顔も上げずに、そっ気なく手を振った。彼の意識はすでに、黒い頁の文字の中に完全に埋没していた。
「先生、お疲れ様です。
……あ、それが例の、地下倉庫で見つかったっていう古書ですか? 学内でも少し噂になっていて……」
加瀬は好奇心に若々しい目を輝かせながら、白井のデスクのすぐ脇まで近づき、その黒い本を上から覗き込んだ。
三嶋は「あまり近づかない方がいい、その本は妙だ」と言おうとしたが、その警告は喉の奥で引き裂かれ、声にならなかった。
加瀬が本を見つめた瞬間、彼女の喉から「ひっ」と短い息が漏れ、動きが完全に凍りついたからだ。
「……っ、あ……」
加瀬の細い肩が、小刻みに、そして規則的に震え始める。
「加瀬? どうした? 気分でも悪いのか?」
三嶋が椅子から立ち上がり、彼女に声をかけるが、加瀬にはその声が届いていないようだった。
彼女の視線は、黒い頁に強力な磁石で吸い寄せられたかのように固定され、瞬き一つしない。
その大きな瞳が、見る見るうちに濁った、異様な熱を帯びていくのがわかった。
「これ……凄いです……。先生、これが植物だなんて、とんでもない。先生は何も見えていないんですね」
加瀬の声は、普段の彼女の鈴を転がすような高音からは想像もつかないほど、低く、湿った、狂おしい熱を孕んでいた。
「なんだと?」
白井が初めて机から顔を上げ、眼鏡の奥の細い目を不快そうにギラつかせた。
「違います、これは植物なんかじゃない。これは、宗教儀式の記録です。
それも、人間の血と肉を捧げる、とても古い、残酷な儀式の系譜です……」
加瀬はうっとりとした、どこか恍惚とした表情で、自らの細い指先で頁の文字を愛撫するように書きなぞり始めた。
「ほら、この文字の並びは、祭壇に生贄の四肢を縛り付け、固定する手順を表しています。
そしてこっちの尖った記号は、その喉元を綺麗に掻き切るための、儀礼用の短剣の刃渡りです。
畏れ多い神をこの地上に呼び出すための、凄惨な血の祈祷文が、この頁にはびっしりと書かれている……。
私、読めます。
頭の中で、大勢の黒衣の人間が、地を這うような声で呪詛を唱えているのが聞こえるんです。なんて美しい旋律……!」
「何を馬鹿なことを言うんだ、加瀬!」
白井が激昂し、拳で机を激しく叩いた。ペン立てが派手な音を立てて倒れ、ペンが床に転がる。
「これは植物の成長記録だ!
科学的、かつ厳密な構造を持った独自の原初言語だぞ!
宗教儀式などという、オカルト崩れの妄想と一緒にされては困る!
君の未熟なオカルト脳で、この崇高な文字列を汚すな!」
「いいえ、絶対に儀式です!
先生の目は節穴なんですか!? これが血の匂いに見えないなんて、研究者としてどうかしています!
この文字は、肉が裂ける痛みを求めているんです!」
「黙れ! 学部生の分際で、この僕の解釈に異を唱えるか! 単位を落とされたいのか!?」
2人は、狂ったように激しく罵り合い始めた。
普段の白井なら、学生の突飛な意見を笑って受け流すか、あるいは学問的な指導を行う余裕があった。
普段の加瀬なら、傲慢な教授に対してここまで声を荒らげ、形相を変えて反論することなど、絶対にあり得なかった。
なのに2人は、互いの解釈を狂信的にぶつけ合い、血管を浮き上がらせて睨み合っている。
三嶋はその光景を、椅子に縛り付けられたような強烈な恐怖とともに見つめていた。
2人の解釈は、完全に食い違っている。暗黒地底の植物と、血生臭い宗教儀式。共通点などどこにもない。
しかし、2人とも自分だけは完璧に本の内容を読めているという、底知れない万能感と絶対的な自信に満ち溢れていた。
まるで、その本が2人に対して、それぞれが最も精神を囚われやすい物語を都合よく、個別に提示しているかのように。




