2-1:暗黒の繁殖
あの奇妙な発見から二日が経過していた。
しかし、三嶋の胸の奥にこびりついた鉛のような不快感は、薄れるどころか日を追うごとに重さを増していた。
原因は、他でもない白井だった。
「見ろ、三嶋。やはり僕の直感は正しかった。
これは単なる記号の羅列なんかじゃない。
極限環境における、明確な生命のドキュメントだ」
大学の一階にある薄暗い共同事務室。
白井は自分のデスクの上にあの黒い本を乱暴に広げ、何枚ものレポート用紙に狂ったような細さの文字でメモを書き殴っていた。
彼の代名詞でもあった理知的な横顔は影を潜め、今やその肌は土色に澱み、目の下にはどす黒い隈が張り付いている。
最後にいつ風呂に入ったのか、彼の身体からは微かに酸っぱい拒絶的な体臭さえ漂っていた。
「生命のドキュメントって……何が書かれてるっていうんだよ。
ただの古いインクの染みにしか見えないが」
三嶋は、あえて本から2メートルは距離を置いた位置でパイプ椅子に腰掛け、冷めた声を返した。
近づきたくなかったのだ。
あの本が放つ、目に見えない粘着質な空気に触れるだけで、肌が粟立つような感覚があった。
「植物だよ」
白井は、渇いた唇を紫色の舌で湿らせながら、恍惚とした目で紙面を指差した。
「それも、ただの植物じゃない。
地下の、光が一切届かない絶対的な暗黒の地底で、独自の進化を遂げた根と茎の成長記録、あるいは繁殖の系譜だ。
ほら、ここを見てみろ。この歪んだ曲線は、養分を求めて蠢く無限の根の軌跡を表している。
そして、その先にある尖った記号は、地表へ向かって硬い岩盤を穿とうとする芽の暴力的な意志だ。
読める……いや、目を閉じても脳裏に焼き付いて離れないんだ、映像として。
この黒い頁の奥で、無数の細胞が凄まじい勢いで分裂し、腐肉を喰らって肥大していく様が……!
君には、この歓喜に満ちた生命の躍動が視えないのか!?」
「……おい、白井。落ち着けよ」
三嶋の背筋を、冷たい針が突き抜ける。
白井が興奮して爪を立てているのは、初日に見たあの歪んだ記号だ。
三嶋の目には、それは相変わらず、ただの無意味で不揃いな、悪意に満ちた傷跡にしか見えない。
植物の絵など、どこにも描かれていないし、成長の規則性などこれっぽっちも感じられない。
しかし、白井の語り口には、一切の迷いがなかった。
それは仮説を立てて検証している学者の口調ではなかった。
目の前にある絶対的な真実を、ただそのまま言語化しているだけの、盲目的で狂信的な確信に満ちていた。
「白井、お前、あれからちゃんと寝てるのか?
悪いことは言わないから、その本を一度金庫にでも仕舞って、今日はもう帰れ。
休まないと脳が幻覚を見始めるぞ」
「帰る? 馬鹿を言うな。
幻覚なものか、これこそが真実の言語だ! 今、この瞬間も、本が僕に次の頁をめくれと促しているんだ。
睡眠などという無駄な生理現象で、この解読の手を止めるわけがないだろう。
邪魔をしないでくれ、三嶋。
君のような凡人に、この偉大な知識の潮流を堰き止める権利はない」
白井はぶつぶつと呪文のように呟きながら、再びルーペを眼球に押し当てるようにして覗き込んだ。
彼の指先が、本の黒いエッジを愛おしそうに、まるで恋人の肌をなぞるように滑る。
その指先が、ほんの一瞬、本の表紙の黒い闇と同化して、ずるりと溶け込んだように見え、三嶋は思わず激しく目を瞬かせた。
目の錯覚だ、と自分に言い聞かせるしかなかった。




