【甘いクレープと、変わらない君】
【甘いクレープと、変わらない君】
二月の冷たい風が吹き抜ける、東京の小さな公園。
持子の不器用で優しい手のひらが分厚い背中を何度か叩くうちに、竜の嗚咽は少しずつ静まっていった。
やがて、大きく息を吐き出して顔を上げた竜の目は、ひどく赤く腫れ上がっていた。
SSSクラスの武神とは到底思えない情けない顔つきだが、持子にとっては、道場で厳しくしごかれて悔し泣きしていた頃の『幼馴染の竜』そのものだった。
「……落ち着いた?」
「ああ……すまん、情けないところを見せた」
竜はバツが悪そうに視線を逸らし、大きな手で乱れた前髪を掻き上げた。
持子はそんな彼を見て、ふふっと小さく笑う。
そして、自分のコートのポケットからiPhoneを取り出した。
「ねえ、竜。今日、この後時間ある?」
「……? ああ、大丈夫だが」
こくりと頷く竜を確認すると、持子はiPhoneの画面をタップして『甘いもの』と検索窓に打ち込んだ。
北海道の道場にいた頃から、過酷な稽古の後は決まって甘いものが欲しくなったものだ。
持子の指先が、いくつかの検索結果をスクロールし、ある一件のカフェの画像でピタリと止まった。
「よし、決まり! 竜、クレープ屋に行こう!」
「……クレープ?」
武骨な竜の口から出たその単語は、あまりにも不似合いで、持子は思わず吹き出しそうになった。
「そう! クレープ。いくよ!」
持子はベンチから立ち上がり、まだ戸惑っている竜の大きな背中をバンバンと叩いて歩き出した。
竜は大人しく、彼女の後ろをついていく。
*
到着した店、『Mrs.Charlotte LA MAISON (ミセスシャーロット) cafe&sweets』は、持子のテンションが最高潮に達するほどに可愛らしい外観だった。
パステルカラーを基調としたアンティーク調の扉、華やかなドライフラワーが飾られたショーウィンドウ。
そして、店内から漂ってくるバターと砂糖が焦げる極上の甘い香り。
「うわぁ……なまら可愛いっ!」
持子は目を輝かせて扉へと向かったが、ふと背後の気配が立ち止まっていることに気がついた。
振り返ると、180センチ近い長身と鋼のような肉体を持つ大男が、まるで地雷原の前に立たされた兵士のような顔をして固まっていた。
ガラス張りの店内を見れば、お客さんは100パーセント見渡す限りの『女子』である。
華やかなスイーツの写真を撮り合う若い女性たちの空間に、全身から戦場の空気を漂わせる黒ずくめの巨漢が入っていくのは、確かに勇気がいるだろう。
竜のその困り果てた顔を見た瞬間、持子の中に少しだけ意地悪をしたいという『S心』が芽生えた。
普段は気弱でビビリな持子だが、心を許した幼馴染には容赦がない。
「何立ち止まってるの? ほら、入るよ」
「い、いや、モッチ。俺はここで待って——」
「だーめっ!」
持子は竜に逃げる隙を与えず、彼の手首をガシッと強引に握りしめた。
「えっ——」
そして、合気武道で鍛えられた見事な体捌きで竜の重心を崩し、そのまま強引にファンシーな店内へと引きずり込んだ。
男女問わずスキンシップが大好きな持子にとっては何の気負いもない行動だったが、急に手を握られた竜の顔は、一瞬で耳の先まで真っ赤に染まった。
店内に足を踏み入れた瞬間、甘い香りと共に、周囲の女子たちからひそひそ声と視線が一斉に突き刺さる。
「えっ、あの二人……」
「彼氏、すっごい体格良くない?」
「でも彼女さん、モデルみたいに美人……」
竜は居心地の悪さに身を縮めようとするが、持子は堂々としたものだった。
ヨーロッパでロレンツォのカメラの前に立ち、トップモデルとしての誇りを知った今の彼女は、他人の視線など気にも留めない。
レジカウンターに並び、可愛らしいメニュー表を覗き込む。
「えーっと、わたしは『ベリークリームチーズ』に、ラベンダーミルクアイスを追加でお願いします!」
店員が笑顔でオーダーを受け取ると、持子は隣で直立不動になっている竜の脇腹をツンと突いた。
「竜は?」
「……俺は、ブレンドコーヒーだけでいい」
「だーめ! せっかく可愛いクレープ屋さんなんだから、竜もクレープ頼みなさい」
「なっ……俺が、これを食うのか?」
「そう。はい、早く決めて!」
持子に急かされ、竜はメニュー表を険しい顔で睨みつけた。
まるで敵国の暗号文書でも解読するかのような真剣な表情だ。
「……じゃあ、このバナナが入ったやつで」
「あー、やっぱりね。でも、わたしはバナナは嫌い」
持子は即座に眉をひそめて顔を背けた。
「……そうだったな。持子はバナナが嫌いだった」
竜はメニューから顔を上げ、不思議そうに持子を見つめた。
「お前、あんなに甘いものが好きなのに、昔からバナナやバナナ味の物は全部俺に渡していたな。……どうしてだ?」
「っ——!!」
持子の顔が、今度はボンッと音を立てるように真っ赤に爆発した。
(だって……昔、男子に『男の人のアレはバナナみたいなんだぜ』ってからかわれて、それ以来、恥ずかしくて食べられなくなったなんて……言えるわけないじゃない!!)
『エッチな行為は結婚してから!』と固く決めているほど鉄壁の貞操観念を持つ持子にとって、それは絶対に口に出せない致命的な秘密だった。
「き、嫌いなの! 嫌いだから嫌いなのっ! 早く注文して!」
顔を真っ赤にしてぽかぽかと竜の腕を叩きながら、必死に誤魔化す持子。
その分かりやすく慌てる姿を見て、竜は思わず「ふっ」と噴き出し、苦笑いを浮かべた。
「……相変わらずだな、お前は」
記憶を失い、16歳の純朴な少女に戻っている彼女だが、自分でも忘れていたような些細な好き嫌いや、焦った時の癖、そして甘いものへの執着は、間違いなく共に道場で汗を流した『恋問持子』そのものだった。
(……ああ。俺は本当に、モッチを見つけたんだな)
ファンシーなクレープ屋の片隅で、竜は胸の奥が熱くなるのを感じた。
世界を裏で操るエクリプスのエージェントとして、血に塗れた修羅の道を歩んできた彼が、普段は絶対に祈ることのない神という存在に、今はただ深く感謝していた。
この騒がしくて、愛おしくて、かけがえのない日常に、またこうして出会えた奇跡に。




