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【反射的な制圧と、パニックになる少女】

【反射的な制圧と、パニックになる少女】


休日の賑わう通り。冷たい二月の風に吹かれながら、持子はラーメンの余韻に浸りつつ歩き出そうとしていた。


その時だった。


ガシッ!


「えっ――!?」


突然、背後から右手首を強く、ひどく力強く握り込まれた。


ナンパ? スリ? それとも、またヨーロッパの時のようにわたしを狙う刺客!?


極度の怖がりである16歳の持子の精神は一瞬でパニックに陥ったが、北海道で高倉老人から骨の髄まで叩き込まれた『合気武道』の達人としての肉体は、思考よりも遥かに早く、冷徹なまでに正確に反応していた。


(――入り身、転換!)


持子は無意識のうちに相手の力を利用し、握られた腕を円を描くように絡み外した。

そのまま流れるような動作で相手の手首の内側を両手でガッチリと捕らえ、自身の体幹と体重を乗せて下方向へと強烈に極める。


合気武道の基本にして経絡を握りながら攻め落とす技の一つ、『内小手うちごて』だ。


「っ……!」


短い声が漏れ、背後にいた『大きな男』は為す術もなく体勢を崩し、石畳の歩道にドンッ!と片膝をついた。


完全に持子の前にひざまずく形になる。

身長が180センチ近くある大男を、華奢な持子が涼しい顔(内心はパニックだが)でねじ伏せたのだ。


「ああっ!? ご、ごめんなさいっ!」


自分のやってしまったことに数秒遅れて気づいた持子は、ハッとして悲鳴のような声を上げた。


「い、痛くないですか……!? いや、絶対痛いですよね! わたしの合気、容赦ないから……!」


ねじ伏せられた大きな男は、片膝をつき、顔を伏せたままプルプルと小刻みに震えている。


「で、でもでも! いくら何でも、街中で女性の腕をいきなり掴むのは絶対に駄目だと思いますよ! 日本は平和な国だけど、最近は物騒なんだから! わたしじゃなかったら警察呼ばれてますよ!? っていうか、わたしも呼びそうになったし!」


持子は極限の焦りと申し訳なさと、自分の正当性を主張したい気持ちがごちゃ混ぜになり、訳のわからない早口でまくし立てた。


しかし、大男は何も答えない。

ただ、持子の前に跪いたまま、微かに肩を震わせ続けているのだ。



【困惑のクラクションと、涙する巨漢】


「あ、あの……? もしかして、脱臼しちゃいました……? 救急車、呼びますか……?」


持子がオロオロと顔を覗き込もうとした、その時だった。


『プァァァァァァンッ!!』


すぐ横の車道で、けたたましい車のクラクションが鳴り響いた。


ハッとして横を見ると、いつの間にか歩行者用の信号が赤に変わり、車道の車が動き出そうとしていた。

持子と男が揉み合っている場所は、横断歩道のすぐ脇ギリギリだったのだ。


「ひぃっ!? す、すみません! 今どきます!」


慌てた持子は、男をこのまま放置するわけにもいかず、咄嗟に技を切り替えた。


「ご、ごめんなさい! ちょっと痛くないようにしますから、立ってください!」


持子は内小手から、相手の肘をコントロールして強引に体勢を崩しつつ誘導する『外小手そとごて』へとスムーズに移行し、大男の体をテコの原理で無理矢理に立たせた。


身長差があるにも関わらず、持子の完璧な理合いは男の巨体を羽毛のように軽くコントロールしてしまう。

強引に立たされた男の顔が、ふと持子の視界に入った。


(……え?)


男の目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちていた。


精悍で無骨な顔立ちの、大人の男。

それが、まるで迷子になった子供を見つけたかのように、ボロボロと泣きながら震えているのだ。


(えっ!? ど、どうして!? なんで泣いてるの!?)


持子の頭の中はさらに大混乱だ。


(痛かったから!? いや、いくら合気が痛いからって、こんな大きな大人の男の人が泣く!? わたし、そんなに取り返しのつかない骨の折り方しちゃった!?)


パニックになりながらも、持子はクラクションを避けるため、男の腕を引き連れて小走りで安全な場所へと移動した。


少し歩いた先にある小さな公園のベンチ。

持子はそこに男を強引に座らせると、自分も「はぁっ……」と深いため息をついて、少し距離を空けて隣に座った。



【懐かしい匂いと、止まった時間】


「はぁ……びっくりしたぁ……」


胸を押さえて荒い息を整える持子。心臓がバクバクとうるさい。


隣に座る大男は、まだ顔を伏せたまま、大きな肩を震わせて泣いているようだ。


「あの……」


持子は恐る恐る、隣の不審者(?)に向かって口を開いた。


「あなたは、なんな――」


言いかけて、持子の言葉がピタリと止まった。


(……この匂い)


至近距離で嗅いだ、その男の匂い。

それは、ついさっきすれ違った時に感じた、あの匂いだった。


汗と、微かな土の匂い。そして、長年使い込んだ道着や防具から漂うような、武骨で真っ直ぐな匂い。

記憶の底にある、氷点下の札幌の道場で、毎日毎日一緒に泥と汗にまみれた『あいつ』の匂い。


ドクン、と。


持子の心臓が、先ほどまでの恐怖とは全く違う理由で、大きく跳ねた。


持子は、ゆっくりと男の顔を覗き込んだ。


無骨で精悍な顎のライン。鋼のように引き締まった首筋。前髪の隙間から見える、鋭いけれど不器用な瞳。

大人びて、信じられないほど背も高くなって、分厚い筋肉の鎧を纏っているけれど。

その顔の面影を、持子が間違えるはずがなかった。


「……竜?」


今の持子――15歳までの記憶しか持たない彼女にとって、高倉竜とは『3年前にアメリカへ旅立ったきり、一度も会っていない幼馴染』だ。


あの雪の日の別れ際、「次に会う時は、モッチよりもデカくなってるさ。……強くな」と笑ったきり、音信不通だった初恋の相手。


震えていた大男――高倉竜が、ゆっくりと顔を上げた。


彼の瞳には、信じられないものを見るような驚愕と、張り裂けそうなほどの後悔、そして、それを全て塗り潰すほどの強烈な安堵と愛おしさが混ざり合っていた。


地下のダンジョンで、己の愛を捨ててまで『董卓に喰われた持子』を殺そうとした竜。

だが今、目の前にいるのは、彼が愛した、純粋で、少し気弱で、でも合気だけは理不尽に強い、あの頃のままの『モッチ』だった。


竜のひび割れた唇が微かに震え、絞り出すようにその名を呼んだ。


「……モッチ」


二月の冷たい風が、二人の間を吹き抜ける。


ベンチに座る二人の視線が、真っ直ぐに絡み合った。

街の喧騒も、車の音も、すべてが遠くへ遠ざかっていく。


15歳で止まっていた二人の時間が、今、3年の月日を超えて、再び動き出した。


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