【惰眠と空腹、そして梅の花】
【惰眠と空腹、そして梅の花】
持子の穏やかな隠れ家での休暇も、気がつけば半分が過ぎていた。
過酷な死闘から解放された反動か、最近の彼女はすっかり気が緩みきっていた。
「あ〜。あ〜〜……」
ふかふかのベッドの上で、持子はだらしなく手足を伸ばして寝返りを打った。
「惰眠、気持ちいい〜……」
窓から差し込む冬の柔らかな日差しを浴びながら、心ゆくまで二度寝、三度寝を堪能する。
これぞ休暇の醍醐味である。
しかし、幸福な時間はふいに訪れた生理現象によって破られた。
ぐぅぅ〜。
「……お腹すいた〜」
のそのそとベッドから這い出し、下着と部屋着を着てからキッチンへ向かう。
戸棚を開け、冷蔵庫を開け、炊飯器を確認するが、結果は惨敗だった。
「カップ麺も〜、な〜い。お米も〜、な〜い……」
雪が用意してくれた隠れ家とはいえ、食料の備蓄には限界がある。
楓と遊びに出かけた時に、もっと買っておけばよかった。
「コンビニなら、良いよね」
一人で出歩くのは少しドキドキするが、二月の東京の空気は澄んでいて気持ちがいい。
着替えて軽く身だしなみを整え、持子は一人、マンションを出て歩き出した。
コンビニへ向かう道すがら、ふと視界に鮮やかな色が飛び込んできた。
「あ、梅が咲いてる」
淡いピンクと白の花びらが、冷たい風の中で凛と咲き誇っている。
それを見て、持子はなんだか不思議な感覚を覚えた。
(北海道だと、4月末から5月にかけて桜と梅が同時に咲くのに……。東京はもう梅の季節なんだな)
少し気になってiPhoneを取り出し、「近くの梅」で検索してみる。
「向島百花園……近くはないけど、行ってみようかな」
見上げた空は雲一つない快晴。歩いて1時間半ほどの距離だが、足元は履き慣れたスニーカーだ。
お散歩がてらの運動にはちょうどいい。
「よし、出発!」
持子は目的地を変更し、澄んだ冬の空気を胸いっぱいに吸い込んで歩き始めた。
*
1時間ほど歩いた頃だろうか。
適度な運動で胃袋が完全に空っぽになった持子の鼻腔を、暴力的なまでに食欲をそそる匂いがくすぐった。
「んんっ……この匂い……!」
立ち止まって顔を上げると、そこには『札幌ラーメン』と大きく書かれた立派な暖簾が揺れていた。
味噌とニンニク、そしてラードの焼ける香ばしい匂い。
北海道出身の持子にとって、これほど抗いがたい誘惑はない。
「ここに決まりっ!」
開店と同時に入店したため、お客はまだ持子一人だった。
「いらっしゃい!」
威勢のいい大将の声に迎えられ、持子はメニューを見るまでもなく即答した。
「味噌ラーメン、お願いします! あと……トッピングでコーンとバターも!」
地元・北海道にいた頃は、コーンやバターを乗せるなんて「観光客向けだ」と思ってあまりやらなかった。
けれど、無性にあのジャンクで甘じょっぱい味が恋しくなったのだ。
厨房の奥で、大将が手際よく中華鍋を振るう。
カンカンッというお玉の音、味噌ダレが焦げる香ばしい匂い。
その心地よい活気に、持子の気分はどんどん上がっていく。
「お待ちどおさま!」
カウンター越しに出された丼を見て、持子は目を丸くした。
濃厚な味噌スープの上には、たっぷりのコーンと、とろけかけの大きなバター。
……そして。
(あれ? チャーシューは追加してないのに、こんなにいっぱい乗ってる……あれっ?)
不思議に思って顔を上げると、大将とバチリと目が合った。
大将はニカッと笑い、親指を立てた。
「美人さんだから、大将からのサービスだよ!」
「えっ……!」
持子は驚きつつも、ふふっと頬を緩めた。
(確かに、わたしは美人だもんね)
トップモデルとして世界を熱狂させた肉体と美貌。
自意識過剰ではなく、プロとしての誇りを持った今の持子なら、その言葉を素直に受け取ることができる。
「お言葉に甘えて、いただきます!」
両手を合わせ、熱々のスープを一口飲む。
「……んん〜っ!」
濃厚な味噌のコクと、溶け出したバターのまろやかさ。そしてコーンの甘みが口いっぱいに広がる。
(二月の寒い時に食べる味噌ラーメンは、やっぱり正義だね!)
あっという間に麺を啜り、スープまで最後の一滴まで飲み干した。
「ふぅ〜……ご馳走様でした!」
空っぽになった丼を見て、大将が嬉しそうに目を細める。
美味しそうに食べてくれる客を見るのが嬉しいのだろう。
持子も、温かいラーメンと人の優しさに触れて心がぽかぽかしていた。
お会計を済ませて少し談笑していると、次のお客さんが入ってきた。
「それじゃあ、また来ますね!」
持子はパタパタと手を振って、お店を後にした。
*
再び歩き出す。
すれ違う人々が、男女問わずハッとして持子を振り返る。
人目を引いているのは分かっていたが、今の持子はそれほど気にならなかった。
(今更だけど、わたしって本当に美人なんだな〜)
自分の姿を完全にコピーした影持子(六花)が、外出時にいつもサングラスをかけている理由がよく分かる。
これだけ目立てば、魔王の威厳を保つ前にファンやスカウトに囲まれてしまうだろう。
(六花には、朔夜君っていう彼氏がいるんだよね〜……)
ふと、幸せそうに朔夜に抱きしめられていた六花の顔を思い出す。
(美人だからって、必ずしも彼氏ができるわけじゃないんだね〜。わたしの下僕たちだって、誰も男の影がないし……)
まあ、彼女たちの場合は「持子への狂信的な愛」が重すぎて他の男など視界に入っていないだけなのだが。
(でも、リジュさんにはテオっていう、めちゃくちゃ良い彼氏がいたな)
そんなことを考えながら、持子の思考は自然と、海を越えた遠い異国にいる「彼」へと向かった。
(アメリカに行った竜には、もう彼女がいるのかな〜……)
幼馴染であり、合気武道の兄弟弟子である高倉竜。
(金髪で、すっごいグラマーなアメリカ人の彼女と腕組んで歩いてたりして……)
そこまで想像して、持子は慌てて首を横に振った。
(だめだだめだ! これじゃ前に神社で一人で妄想して凹んでた時と一緒だよ!)
でも、気になるものは気になる。
(竜……背、もっと大きくなったかな〜)
休日で賑わう通りに差し掛かり、人混みが少しずつ濃くなっていく。
ぼんやりと考え事をしながら歩いていた持子は、ふいに前方から歩いてきた『大きな男の人』とぶつかりそうになった。
「あっ——」
思考よりも先に、北海道で骨の髄まで叩き込まれた合気武道の『体捌き(入り身)』が発動する。
スッ、と。
一切の無駄なく、流れるような動作で男の巨体をかわし、肩一つ触れることなくすれ違った。
(ふぅ、危なかった)
ぶつからずに済んで安堵し、数歩歩いたところで。
持子の足が、ピタリと止まった。
(……え?)
今、すれ違った瞬間に鼻先を掠めた匂い。
(嗅いだことある匂い……?)
それは、遠い昔、道場で汗を流した日々の記憶を呼び起こすような、懐かしくて、どこか不器用な優しさを伴う香りだった。
「——っ」
持子は弾かれたように振り返った。
しかし、休日の人混みは無情にも視界を遮り、道ゆく人々の背中が波のようにうねっているばかり。
あの大きく、圧倒的な存在感を放っていたはずの背中は、すでに群衆の中に溶け込み、誰だったのかを確認することはできなかった。
「……気のせい、だよね」
持子は小さく呟き、もう一度だけ振り返ってから、再びゆっくりと歩き出した。
冷たい二月の風が、彼女の長い髪を揺らして通り過ぎていった。




