【境界を越える涙と、怪物の微笑み】
【境界を越える涙と、怪物の微笑み】
雪の白魚のような指先が、完全なる消滅の呪印を結び終えようとしていた。
絶対的な死が、物理的な質量を伴って頭上から降り注いでくる。
その刹那。
朔夜をきつく抱きしめていた六花は、ふと顔を上げた。
彼女のアメジストの瞳が、少し離れた場所でガタガタと震えながら立ち尽くす少女――持子の瞳と、真っ直ぐに交差した。
(――ああ)
六花の顔から、死への恐怖も、魔王としての傲岸不遜な仮面も抜け落ちた。
残ったのは、ただ一人の少女としての、ひどく穏やかで、透明な微笑みだった。
六花は、言葉を発する代わりに、その目で持子へと『感謝』を伝えた。
『お前のおかげで、わしはこの世に生を受けることができた。お前と同じ姿だったから、朔夜と出会い、愛し合うことができた。……ありがとう、持子』
極限にまで引き延ばされた時間の中で、六花の脳裏に光の奔流のような『走馬灯』が駆け巡る。
ダミーとして生み出された虚無の日々。
朔夜に『六花』という名を授けられた瞬間の、胸が張り裂けそうなほどの歓喜。
彼の不器用な優しさ、注がれた熱い視線。
そのどれもが、雪の結晶のように短く儚く、しかし永遠にも等しい輝きを持っていた。
(わしは、本当に幸せじゃった……。わしがここで消えても、朔夜はこれからも生きていける。それで、十分だ……)
六花が静かに瞳を閉じ、訪れる『無』を受け入れようとした、その時だった。
「――っ、や、やめてェェェッ!!」
弾かれたように。
恐怖で完全にフリーズしていたはずの持子が、己の限界をぶち破り、雪と、地に伏す二人の間に文字通り『飛び込んだ』のだ。
「持子……!?」
雪の指先が、ピタリと止まる。
持子は、16歳の華奢な両腕を必死に横へと広げ、ボロボロと大粒の涙をこぼしながら、千年の大陰陽師を真っ向から睨みつけていた。
「なまら怖かった……っ、足も震えてる……! でも、ダメだ! 雪さん、やめて!!」
「退きなさい、持子。これは朔夜への教育だと言ったはずよ」
雪の声は依然として冷徹だったが、その絶対的な術の進行は、持子の乱入によって明確に停止していた。
「消さないって……っ、消さないって、約束してくれたじゃない!」
持子は涙声で、必死に食い下がる。
「あの時、私の身代わりになってくれたこの子を、無事に終わっても消さないって……!」
「状況が変わったのよ」
雪は氷のような瞳で、持子の背後に倒れる朔夜を見据えた。
「朔夜は陰陽師として、越えてはならない一線をいくつも越え、数多の禁忌を犯したわ。自分が犯した大罪の重さと、術者としての甘さを骨の髄まで自覚させるためにも……この式神は、ここで完全に消滅させなければならない」
「駄目!!」
持子の叫びが、居間に響き渡る。
ヨーロッパの死闘を乗り越えた彼女の魂の奥底から、偽りない本気の感情が爆発した。
「絶対に駄目! 六花を殺さないで! 私と同じ顔をした子が、あんなに朔夜を愛してるのに……朔夜もあんなにボロボロになって六花を守ろうとしてるのに! これで消しちゃうなんて、そんなの絶対におかしいよ!!」
沈黙が落ちた。
雪の双眸が、持子の涙に濡れた必死な顔を見下ろしている。
持子は一歩も引かず、睨み返す。
六花は息を呑み、朔夜は肺の激痛の中で、ただただ持子の小さな背中を見つめていた。
一瞬の間だった。
時計の針にして、わずか数秒。
しかし、死の淵に立たされた朔夜と六花、そして全てを懸けて立ち塞がった持子にとって、それは永遠にも等しい、ひどく長く、重圧に満ちた時間だった。
やがて。
千年の修羅の顔から、ふっと、ほんの微かにだが、どうしようもない毒気を抜かれたような『呆れ』の色が浮かんだ。
「…………分かったわよ」
雪が、小さくため息を吐きながら呪印を解いた。
その途端、部屋を満たしていた物理的な質量を伴う殺意と霊圧が、嘘のように霧散していく。
「あ……」
持子の膝から力が抜け、その場にへたり込みそうになる。
「全く。みんな、甘ったれて……」
雪はパチン、と指を鳴らした。
『――再構築』
たった一言。
その一言と指の音だけで、凄惨な魔術戦によって内側から破壊され、硝子のようにひび割れていた最高峰の結界が、あっという間に元通りに修復されていく。
さらに、砕け散ったティーカップや窓ガラスの破片すらも時間を逆行するように元の形を取り戻していった。
あまりにも次元の違う大魔術を、息を吐くようにやってのける雪に、六花は戦慄を覚える。
「六花」
「は、はい……っ」
雪の冷たい声に、六花はビクッと肩を揺らした。
「いつまでそこで泣いているつもり? さっさと朔夜を回復させなさい。私の蹴りを受けたんだから、内臓がいくつか潰れているはずよ」
「あっ……! わ、分かった!」
六花は戸惑いながらも、慌てて朔夜の身体に手をかざした。
極黒の魔力でも、反発の光でもない、純粋な治癒のための『光の神術』。
温かな光の粒子が朔夜の身体を包み込み、破壊された神経網と内臓を急速に繋ぎ合わせ、癒やしていく。
「ガハッ……! ゲホッ、はぁっ、はぁっ……!」
酸素が肺に送り込まれ、朔夜が激しく咳き込みながら身を起こす。
激痛はまだ残っているが、なんとか自力で動けるまでには回復していた。
「朔夜……っ、よかった、本当によかった……!」
六花がボロボロ泣きながら、朔夜の首にすがりつく。
朔夜もまた、震える腕で愛する少女の背中を、強く、強く抱きしめ返した。
その光景を見届けるより早く。
「雪さぁぁぁぁんっ!!」
わぁぁぁん、と子供のように大声を上げて泣きながら、持子が雪の胸元に思いきりダイブした。
「ちょっ、持子。鼻水を私のスーツに……」
「ありがとう!! なまら怖い顔して、本当は優しいの知ってるもん! 雪さん、大好きぃぃぃっ!!」
「……はぁ。本当に、調子狂うわね……」
雪はやれやれと首を振りながらも、すがりついて大泣きする持子を無理やり引き剥がすことはしなかった。
その冷徹な美貌には、ほんの僅かだけ、母親のような柔らかい光が宿っていた。




