【千年の修羅と無力な天才】
【千年の修羅と無力な天才】
「あ、あ……」
持子の喉から、意味を成さない掠れた音が漏れた。
目の前で、自身が密かに憧憬を抱いていた無敵の天才陰陽師・朔夜が、胃液と血を吐きながら床に突っ伏している。
ヨーロッパの死闘で神殺しの力を得たはずの私でさえ、今の雪が放ったただの『蹴り』の軌道すら、全く目で追うことができなかった。
次元が違う。あまりにも、違いすぎる。
(私は……なまら強くなったはずなのに……っ。足が、一歩も動かない……!)
16歳の少女の純朴な精神は、千年の修羅が放つ絶対的な冷酷さと暴力の前に完全に砕かれ、ただガタガタと震えながら呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
「……ッ!!」
その凍りついた地獄の空間で、誰よりも早く動いた者がいた。
六花だ。
彼女は先ほどの術式の激突で魔力回路を焼き切られ、絶世の白い肌のあちこちから光の粒子を漏らして崩壊しかけていた。
本来ならば指一本動かすのも億劫なほどの激痛と虚脱感に襲われているはずだった。
しかし、六花は床に蹲る朔夜の前に弾かれたように飛び出すと、その175cmの肢体を大きく広げ、雪の絶対的な霊圧から朔夜を庇うように立ち塞がった。
「朔夜を……っ、朔夜を殺すなァッ!!」
それは、傲岸不遜な『魔王』の威厳などかなぐり捨てた、ただ一人の女としての悲痛な絶叫だった。
黄金色の瞳から大粒の涙を溢れさせながら、六花は雪を真っ向から睨みつける。
自分を消し去る絶対的な力を持つ大陰陽師を前にして、彼女の心にあるのは己の死への恐怖ではなく、ただ愛する男を護りたいという純粋にして強烈な本能だけだった。
「……勘違いしないでちょうだい」
六花の血を吐くような叫びに対し、雪の表情には微塵の感情も動かなかった。
彼女は無惨に倒れ伏す朔夜を、まるで出来の悪い生徒を見下ろすような、ひどく冷たく、しかしどこか呆れたような目で見つめていた。
「私が朔夜を殺すわけがないでしょう。これは、陰陽師としての『教育』よ」
「教育、だと……?」
「ええ。術者が自らの造り出した式神に情を移し、あまつさえ己の命を削ってまで延命させようとする。そんな三流以下の甘さを叩き直すための、ね」
雪の底知れぬ冷徹な声が、居間の空気をさらに数度、物理的に引き下げる。
天才と謳われ、幾多の死線を越えてきた朔夜の全存在を、彼女は『まだ教育が必要な子供』として一蹴したのだ。
「はぁ……」
静寂の中、雪から小さく、ひどく冷酷なため息が漏れた。
それは、ほんの僅かに残っていた彼女の『猶予』が、完全に尽きたことを意味する音だった。
「でも、あんたには消えてもらうわ。これ以上の茶番は、私の貴重な時間の無駄よ」
宣告。
それは神が下す絶対の理のように、一切の反論を許さない死の確定だった。
雪の白い指先が、再び虚空で淀みなく呪印を結び始める。
今度こそ、一切の手加減も、防ぐ猶予も与えない、完全なる消滅の術式。
「……朔夜っ!」
死を悟った六花は、雪に背を向けると、床で苦悶する朔夜の身体にすがりつくように強く、強く抱きしめた。
「わしは……わしは、なまら幸せじゃった……! お前が名前をくれて、愛してくれて……っ!」
(――り、っか……!!)
朔夜は六花の体温と、涙の感触を肌で感じていた。
動け。動け。動け。
天才の頭脳は超高速で回転し、千の術式と万の打開策を弾き出している。
しかし、それを実行するための『肉体』が、完全に機能を停止していた。
雪の前蹴りは、完璧なタイミングで朔夜の鳩尾の神経叢を完全に破壊していた。
横隔膜は麻痺して痙攣を起こし、酸素を一ミリも肺に送り込めない。
内臓が破裂したかのような激痛が中枢神経を焼き切り、指先一本、喉の奥の筋肉一つすら、朔夜の意志を裏切って動こうとはしなかった。
(やめろ……先生、やめてくれ……っ!)
呼吸すらできない窒息の苦しみの中、朔夜の両目から血の涙が滲む。
陰陽師としての全才能を懸けても、愛する少女一人をこの世に繋ぎ止めることができない。己の圧倒的な無力さ。
声にならない悲鳴が喉の奥で血泡となって弾ける。
(六花ァァァァァァァッ!!!)
肉体の檻に閉じ込められた朔夜の絶望が、ただ、心の中だけで狂おしいほどに六花の名前を絶叫し続けていた。




