【千年の怪物と、気高き名前の証明】
【千年の怪物と、気高き名前の証明】
静まり返った居間に、立花雪の絶対零度の声が突き刺さる。
ネイビーのパンツスーツを完璧に着こなした彼女の双眸には、千年の時を生きる修羅としての冷徹な光が宿っていた。
その圧倒的な霊圧を前に、天才陰陽師と謳われる土御門朔夜ですら、背筋を凍らせて冷や汗をにじませる。
だが、朔夜は引かなかった。
背後にいる、絶世の美少女――『六花』を庇うように、さらに一歩前に踏み出す。
「雪先生、お願いです」
朔夜は深く頭を下げ、必死に言葉を絞り出した。
「影持子を……六花を、消さないでください」
(……朔、夜?)
少し離れた場所で、持子はただ呆然と立ち尽くしていた。
ヨーロッパでの死闘を乗り越え、神を殺すほどのカタルシスと力を得たはずの彼女だったが、足が一歩も動かない。
大好きな雪と、大切な朔夜が、自分の身代わりを巡って本気で対立している。
その異常な空気に、息をするのすら恐ろしかった。
ピキリ。
空間そのものが、物理的な質量を伴って凍りついた。
雪のティーカップをソーサーに置く手が、ピタリと止まる。
感情の一切を削ぎ落としていた完璧な美貌に、スッと凄絶な亀裂が走った。
「……六花?」
地を這うような、絶対零度の声音。
「朔夜。お前、この単なる式神に……『名前』を与えたというの?」
部屋の重力が跳ね上がったかのような錯覚。
朔夜は肺から空気が搾り出されるような圧倒的な重圧の中、喉の奥から血の味を感じながらも、決して目を逸らさず、静かに、深く頷いた。
「……はい」
――ドゴォォォォンッ!!
爆発した。
怒気。純粋にして凶悪なる、千年の怒気である。
雪から立ち昇る凄まじい霊圧が、不可視の暴風となって居間を蹂躙する。
テーブルの上のティーカップが微塵に砕け散り、窓ガラスが悲鳴を上げてヒビ割れた。
「愚か者ォッ!!!」
雪の激怒の咆哮が、落雷の如く轟く。
「理由は!? 影持子は役目をもう果たしたのよ! オリジナルである持子がヨーロッパから無事に帰還した今、身代わりである彼女の存在意義は、この瞬間に消滅したはず。それに名前を与え、あまつさえ現世に留めておく実利がどこにあるというの!!」
「実利なんて、ありません!」
朔夜は顔を上げ、叫んだ。
雪の前では徹底して『僕』を演じる優等生の仮面が、その激情によって歪んでいく。
「……情が湧いたんです。彼女をただの使い捨ての式神として割り切ることが、僕にはもう……できない」
「馬鹿げたことを」
雪の口元が、酷薄な三日月の形に歪んだ。
「あんたは陰陽師で、影持子は式神。それ以上でもそれ以下でもないわ。自らが造り出した人形に心を移し、術式の清算すら躊躇うなんて。術者として三流以下、いえ、それ以前の問題よ」
「分かっています……! そんなこと、僕が一番分かっている!!」
朔夜は拳を血が滲むほど強く握りしめ、胸の奥のドロドロとした独占欲と愛を爆発させた。
「彼女の命が儚く溶ける雪の結晶のようなダミーだってことは、僕が誰よりも残酷に知っている! でも、僕の心をここまでめちゃくちゃに掻き乱したのは、世界で一番美しくて残酷なのは、六花なんだ! だから――」
(私の……ダミーが……)
持子の胸が、ズキリと痛んだ。
朔夜が、自分と全く同じ顔をした少女に向かって、血を吐くような思いを叫んでいる。
「――そこまでにせよ、朔夜」
凛とした、しかしどこか儚げな声が、朔夜の言葉を遮った。
背後に控えていたはずの六花が、スッと朔夜の隣へと並び立つ。
175cmの絶世の肢体、アメジストの瞳。
彼女は恐怖にガタガタと震えそうになる膝を精神の軸でねじ伏せ、傲岸不遜な『魔王』の笑顔を顔に貼り付けた。
「雪よ、話を聞くが良い。わしを創り出したのはお前たちだ。だが、わしにはもう、明確な自我がある!」
六花は自らの胸に力強く手を当て、アメジストの瞳を誇り高く、獰猛に輝かせた。
「そして聞け、雪! わしは単なるダミーなどではない!」
彼女の声が、雪の放つ暴風を切り裂いて居間に響き渡る。
「『六花』だ! 朔夜がわしに与えてくれた、この世界でたった一つの、わしだけの名前だ! 雪の結晶のように儚くとも、その一瞬に全ての美しさを咲かせる花! 朔夜の魂と愛が込められた、なまら美しく、気高き名だぞ! わしはこの名を、魂の底から誇りに思っておる!!」
六花は胸を張り、雪の絶対的な霊圧を真っ正面から睨みつけた。
「わしは使い捨ての操り人形で終わるつもりはない。わしは……朔夜を愛しておる! 世界で一番、狂おしいほどに、この命の全てを懸けて愛しておるのだ! それをただの『術式の成果物』として片付けられてたまるか!」
(愛して、おる……?)
持子の頭が真っ白になった。
本来なら感情など持たないはずの式神が、涙を流さんばかりの激情で愛を叫んでいる。
私の身代わりとして作られた存在が、私よりずっと熱く、一人の女として朔夜を愛している。
その事実は、16歳の持子にはあまりにも重すぎた。
消滅への恐怖、そして朔夜を置いていきたくないという一途な乙女の叫びと、己の名への絶対的な誇り。
しかし、千年の怪物の心は、式神の愛の告白ごときで揺らぐものではなかった。
「滑稽ね。式神が自我を語り、名前を誇り、愛を叫ぶなんて」
雪の細い指先が、流れるような動作で呪印を結ぶ。
「解呪」
刹那、居間全体の空間が凄まじい衝撃と共に爆鳴を上げた。
雪から放たれたのは、対象の構成術式を根源から分解し、絶対的な『無』へと還す、最高位の消滅術式。
可視化された純白の呪力の嵐が、牙を剥いて六花へと殺到する。
「わ……! わしは、魔王だぞ……っ!!」
本能的な死の恐怖に叫びながらも、六花は咄嗟に足元から『極黒の魔力』を爆発させた。
空間認識魔術を極限まで展開し、自身の前方に幾重にも重なる漆黒の防壁を構築する。
ドガァァァァァンッ!!!
暗黒と純白の激突。
しかし、その均衡は一瞬にして崩れ去る。
世界の裏社会すら恐怖させた六花の極黒の魔力であったが、千年を生きる大陰陽師の術式の前には、まるで濡れた紙切れ同然だった。
パリパリと悲鳴を上げて漆黒の障壁が引き裂かれ、純白の嵐が六花の身体を侵食し始める。
「がああぁぁっ……あつ、い……体が、消えるぅぅっ……!!」
六花の絶世の肌から光の粒子が溢れ出し、彼女の疑似的な魔力回路が内部から腐食していく。
二人の凄絶な術式の応酬により、この家全体に張り巡らされていた『この世でも最高峰にあたる結界』が、内側からの莫大なエネルギーの奔流に耐えきれず、歪み、捻じれ、空間そのものがバリバリと音を立てて硝子のようにひび割れていった。
「六花ァァァッ!!」
完全に消滅させられる寸前、朔夜の瞳が肉食獣のように獰猛に輝いた。
「急急如律令――(破)!!」
朔夜はコートの内ポケットから、自らの血を吸わせた禁忌の符を数十枚同時に撒き散らした。
空間に展開された符が鮮血の光を放ち、雪の消滅術式の『術式構成の隙間』へと強引に割り込んでいく。
天才陰陽師としての全才能、そして自身の魔力回路の半分を焼き切るほどの負荷をかけ、朔夜は雪が放った絶対的な消滅の術式を、力任せに『強制解除』してみせたのだ。
ドバァァァンッ!!
弾け飛ぶ呪力の残滓。
衝撃波が居間の家具をなぎ倒し、爆風が吹き荒れる。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
六花の前に立ち、口元から一筋の血を流しながら、朔夜は狂おしいほどの愛を込めて背後の少女を護るように両腕を広げていた。
六花は、消滅の直前で術式を解かれ、朔夜のシャツを掴んだまま、恐怖と安堵でガタガタと激しく震えていた。
「あ……あ、あ……」
「無駄な足掻きを」
爆風が晴れぬ中、雪の冷徹な声が響く。
彼女の指先が再び淀みなく舞い、次なる絶死の術式が間髪入れずに展開された。
空間そのものが雪の意のままに殺意を持ち、幾重にも連なる不可視の刃となって二人へ襲い掛かる。
「やらせるかぁっ!」
六花が叫ぶ。
直後、彼女の全身から爆発的に噴き出したのは、先ほどの極黒ではない――眩いばかりの『光の魔力』だった。
「わしの命は、なまら重いぞ……っ!」
六花は展開した光の魔力を二層に分割した。
外殻には、雪の術式を弾くための強固な光の絶対防壁を。
そして内側――自らの『疑似的な魂』と『構成術式』の核に向かって、莫大な光を逆流させる。
それは、現世に己という存在を強引に縫い留める、絶対的な自己確立と術式強化の法だった。
(逃げる……! 今の雪先生と真正面からやり合って、勝てるわけがない!)
朔夜は六花を護りながら、瞬時に退路を計算していた。
狙うは一点のみ。
「急急如律令――破壇!!」
朔夜は残存魔力を振り絞り、この邸宅全体を覆う最高峰の結界の一角に、無理やり突破口となる『穴』を穿つ。
さらに朔夜は、懐から一枚の黒い呪符を引き抜いた。
「出でよ! 『無明の縛鬼』!」
空間が歪み、ドロリとした粘体のような異形の式神が顕現する。
これは朔夜が使役する中でも最強の拘束特化型。
最大の特徴は、この式神には『目』がなく、視覚という概念すら存在しないことだ。
式神からは雪の姿は見えない。
見えないが故に、大陰陽師である雪が放つ視覚からのカウンターや幻術を一切無効化し、対象の『認識の座標』を強制的にずらしながら、ただひたすらに拘束のみを目的として絡みつく。
「小賢しい」
だが、千年の修羅は止まらない。
雪は迫り来る無明の縛鎖を、流れるような身のこなしと最小限の呪力放射で全て捌き切り、その足止めすら意に介さず、六花へと直接その白魚のような手を伸ばした。
「消えなさい」
指先が、六花の光の防御層に触れる。
対象を根源から消去する絶対の解呪。――しかし。
ガギィィィィィンッ……!!
鈍く、重い抵抗。
「ほう……?」
雪の切れ長の目が、微かに見開かれた。
千年の時を生きる大陰陽師が、ほんの僅かだが、明確な『驚き』を見せたのだ。
使い捨ての式神に過ぎないはずの六花が、自身の絶対的な消滅術式に耐え得るほどに、光の魔力を用いて己の存在術式を強固に書き換え、強化し切っていたのである。
(雪が……驚いた……!?)
持子は自分の目を疑った。
あの絶対無敵の雪の術を、自分と同じ姿をした少女が、意地と誇りだけで耐え凌いでいるのだ。
(いける! 先生の術が遅れた!)
朔夜はその一瞬の隙を見逃さなかった。
六花の腕を掴み、こじ開けた結界の穴へと駆け出そうとする。
背後を振り返る。
雪は、結界に開いた大穴など全く意に介していない。直す素振りも、塞ぐ素振りもない。完全に放置だ。
(逃げ切れる――!)
朔夜がそう確信し、万が一の魔法的追撃に備え、極限まで背後への呪力防御を高めた、その刹那。
スッ……。
いつの間にか、朔夜の目の前、文字通り『鼻先』に、ネイビーのパンツスーツ姿の雪が立っていた。
(なっ……縮地――!?)
防御術式を展開する暇など、一瞬たりともなかった。
なぜなら、雪が放ったのは魔術でも陰陽術でもなかったからだ。
ドゴォォォォンッ!!!
「ガ、ハッ…………!?」
朔夜の体が、一瞬宙に浮き、そして激しく「く」の字に折れ曲がった。
完璧な体重移動。
無駄を一切削ぎ落とした、武術の達人のごとき『物理的な前蹴り』。
それが、呪力防御の意識を完全に背後へ向けていた朔夜の鳩尾に、刃のように深々と突き刺さっていた。
「あ、が……っ、カ、ハッ……!」
高度な術式の応酬から一転して放たれた、純粋な暴力。
完全に虚を突かれた朔夜は、内臓が裏返るような激痛に肺の空気を全て吐き出し、胃液を撒き散らしながら、その場に無惨に蹲った。
「朔夜ッ!?」
その狂乱のド真ん中で、ただ一人、持子だけが悲鳴を上げて呆然と立ち尽くしていた。
ヨーロッパで神殺しのカタルシスを経験し、強くなったはずの彼女だった。
なまら凄い修羅場を潜り抜けてきた自負があった。
だが、突然目の前で始まった、大好きな雪と朔夜の命懸けの殺し合い。
激突する次元の違う陰陽術の応酬と、それにすら耐えうる六花の自我と愛。
そして、最高峰の魔術戦の結末として振り下ろされた、雪の冷酷なまでの純粋な暴力。
あまりにも規格外な出来事と、複雑に絡み合った感情の嵐に、16歳の純朴な少女の精神は完全にキャパシティをオーバーしていた。
(私は……私は、どうすればいい……っ!?)
ただただ理解が追いつかないまま、血を吐いて倒れ伏す朔夜と、その傍らで震える六花、そして冷徹に見下ろす雪の姿を、持子は震える瞳で見つめることしかできなかった。




