【影との共存、あるいは少女の決意】
【影との共存、あるいは少女の決意】
エレーヌ・リジュが手配した豪奢なプライベートジェットが、イギリスの重たい空気を切り裂き、ついに東京へと帰還した。
過酷を極めたヨーロッパでの死闘と狂乱の数々。
その余韻と疲労が骨の髄まで沁み込んでいるはずの恋問持子と風間楓であったが、彼女たちを出迎えたのは、普段の張り詰めた空気とは少し違う、異質な静寂だった。
空港のVIPゲートを抜けた先に待っていたのは、日本の大手芸能事務所『スノー』の社長であり、千年以上を生きる大陰陽師・立花雪であった。
黒のハイネックに身を包んだ雪は、言葉少なに二人を黒塗りの高級セダンへと促す。
運転席には、雪自身が座っていた。
「雪さんが……運転?」
後部座席に乗り込んだ持子が、信じられないものを見るような目を向ける。
絶対的なプロデューサーであり、常に数多の部下や裏社会の人間を動かしている彼女が、単独でハンドルを握るなど、前代未聞の事態である。
車内を満たすのは、重く、密度の高い沈黙。
エンジン音が低く腹に響く。
それはまるで、嵐の前の凪のような、ヒリヒリとした緊張感を孕んでいた。
車は都内の喧騒を滑るように抜け、氷川神社の静謐な木立の中へと停車した。
楓の家である。
「楓ちゃん」
持子が声をかける。
TIA(特務機関)に所属する最強の特級エージェントである16歳の少女は、音もなく車のドアを開け、一度だけ振り返った。
その可憐な瞳の奥には、イギリスでアザゼルを両断した時と同じ、揺るぎない覚悟の光が宿っていた。
「持子お姉さん。どんな悪夢が来ようと、私が斬り伏せます。……ゆっくり休んで」
それだけを言い残し、楓は闇夜に溶けるように神社の奥へと消えていった。
絶対的な護衛を失い、車内に残されたのは持子と雪の二人だけ。
再び走り出した車が向かったのは、スノーが所有する要塞のような超高級マンションではなく、氷川神社のすぐ近くにひっそりと佇む、古風な一軒家だった。
一歩足を踏み入れると、古い木と微かな香の匂いが鼻腔をくすぐった。
だが、持子の鋭敏な感覚は、この家全体が幾重にも張り巡らされた高度な呪術的結界によって、外界から完全に切り離されていることを嗅ぎ取っていた。
「ここで少し話しましょう」
雪の冷たく透き通るような声が、静かな室内に響く。
持子は、無言のまま深く頷いた。
丹田に力を込め、決してブレない体幹の軸を作る。
イギリスの地で開花させた、恐怖をねじ伏せる『トップモデルの技術(対精神戦闘術)』だ。
雪がキッチンに立ち、手際よく紅茶とお菓子を用意する。
テーブルに置かれたティーカップからは、芳醇で熱い湯気が立ち昇り、アンティークの皿には美しく焼き上げられた焼き菓子が並べられていた。
「食べながら話しましょう」
雪が椅子に腰を下ろし、静かに口を開きかけた、その瞬間だった。
「雪さん!」
持子の声が、空気を叩き割った。
それは、かつての気弱で怯えてばかりいた16歳の精神状態の彼女からは想像もつかない、鋭く、重みのある声だった。
雪の双眸が、わずかに見開かれる。
「わ、わたしのレプリカ……影武者を消さないで!」
持子の内奥から絞り出されたのは、飾らない本音の叫びだった。
イギリスの深い霧の中で、己の最も醜い過去と向き合い、罪悪感に苛まれながらも立ち上がった彼女の魂の形。
雪の圧倒的な霊圧を前にしても、持子の視線は一切の逃げを許さず、真っ直ぐに雪を射抜いていた。
「わたしは……なまら怖い思いもしたし、逃げ出したくなる時もある。でも、だからって、わたしの代わりに矢面に立ってくれた彼女を、無かったことにはできない!」
持子の言葉を受け、雪は静かにティーカップを置いた。
カチャリ、と硬質な音が室内に響く。
大陰陽師の冷徹な仮面を被った雪は、一切の感情を交えずに、淡々と、しかし決定的な事実を告げた。
「……影持子(六花)を、式神として存続させることは可能よ」
持子の影として雪と朔夜によって創り出された、キメラの魔王。
その存在意義を、雪は残酷なまでの正確さで定義する。
「けれど、彼女が独立して存在し続ければ、あなたが本来体験すべき残り少ない高校生としての青春の輝きや、貴重な時間は二分されてしまう。あなたが背負うべき『痛み』を、彼女に分け与えることになる。……それでもいいの?」
それは、持子の精神を試すかのような、重く、鋭い問いだった。
光も闇も、喜びも苦痛も、すべてが半分になる。
それは一見救いのように思えて、己の人生の手綱を他者に明け渡すことと同義でもある。
だが。
持子の答えに、一片の迷いもなかった。
第六天魔王マーラの極黒のカオス魔力をその身に宿し、精神の防壁によってそれを支配した少女は、力強く、そして確かな温もりを持って頷いた。
「それでもいい」
持子の瞳には、自身の精神世界で「己の肉体に誇りを持て」と叱咤してくれた影持子の姿が焼き付いていた。
「わたし達が、二人で一人だから」
沈黙が降りた。
結界に守られた静謐な空間で、二人の視線が交差する。
数秒のち。
千年の時を生きる大陰陽師の口から、ふっと、小さな溜息が漏れた。
それは、諦めでも呆れでもなかった。
冷酷なプロデューサーの仮面が剥がれ落ち、そこにあったのは、孤児だった持子を救い出し、今日まで慈しんできた『母親』としての顔だった。
「……本当に、強くなったわね」
雪の口元に、これまでに見たこともないような、深く、優しい微笑みが浮かんだ。
その笑顔を見た瞬間、持子の身体からスッと余計な力が抜け、張り詰めていた空気がふわりとほどけていくのだった。




