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【次なるステージへ、そして残る余韻】

【次なるステージへ、そして残る余韻】



アザゼルの霊核が両断され、完全に消滅したその瞬間。


大英博物館全体をすっぽりと覆っていた、分厚くどす黒い呪いの結界が、ガラスが割れるような甲高い音を立てて崩れ去った。


グレート・コートの広大なガラス屋根を覆い隠していた不自然な濃霧が晴れていく。

その向こうから差し込んできたのは、イギリスの冬を告げる、しんしんと舞い降る純白の雪と、雲の隙間から覗く柔らかな昼下がりの光だった。


「……っはぁ、はぁっ……!」


静寂を取り戻した広大な空間に、持子の荒い息遣いが響き渡る。


周囲では、アザゼルに精神を喰われかけて倒れていた大勢の観光客やスタッフたちが、「う、うーん……」「一体、何が……」と、次々に意識を取り戻し、戸惑いの声を上げ始めていた。


振り返った楓の目に映ったのは、危険な力――マーラの魔性による甘い快楽の誘惑に自らの意志でギリギリまで耐え抜き、それを御して堂々と立つ、トップモデルの誇り高き姿だった。



(……ええ。本当に、かっこいいですよ。持子お姉さん)



楓は心底からの安堵と、親友への深い敬意を込めた笑みを浮かべ、右手に握っていた白銀の神剣『生太刀』を光の粒子に変えて消滅させた。

戦闘態勢を完全に解き、張り詰めていた特級エージェントとしての冷気を散らす。


「……やりましたね、持子お姉さん」


楓の優しく、どこか誇らしげな声。


その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた持子の緊張の糸が、プツンと切れた。


「うん……っ」


持子は、脳髄の奥でまだチリチリと燻っている強烈な快感の余韻と、極度の恐怖からの解放感で、膝をガクガクと震わせた。

立っているのもやっとの状態で、今にも石畳の床にへたり込んでしまいそうになる。


それでも彼女は、唇をギュッと噛み締めて必死に足を踏ん張り、力強く頷いた。


「わたし、もう……大丈夫、だよ……。自分で、立てるもん……」


それは、かつて「誰かに依存しなければ生きられない」と怯えていた過去の自分との決別であり、高倉師匠と交わした「強くなる」という誓いの証明でもあった。


記憶を失い、空っぽになったはずの彼女が、今、確かな強さを持ってここに立っている。


「――ええ。あなたは、本当に強い人です。私の自慢の、お姉さんですから」


楓は優しく微笑むと、倒れる前に素早く歩み寄り、震える持子の華奢な身体を正面からしっかりと抱きしめた。


冷え切っていた持子の身体を、楓の温かい体温が包み込む。

甘く危険だった『シャネルのNo.5』の香りはすでに薄れ、いつもの、少し不器用で優しい持子の匂いだけがそこにあった。


「えへへ……楓ちゃんが、わたしを信じてくれたから……だよ」


楓の肩に顔を埋め、持子は安心したようにふにゃりと相好を崩した。


「……怖かったぁ。本当に、もうダメかと思ったよぉ……」

「ごめんなさい。私がもっと早く、あの怪物を斬り捨てていれば」

「ううん。楓ちゃんがいてくれたから、わたし、最後まで頑張れたんだよ。ありがとね、楓ちゃん」


広大な大英博物館の中央。

周囲の観光客たちが突然の停電と集団失神の事態に騒然とし始める中、二人は互いの温もりと生存を確かめ合うように、しばらくの間、静かに抱き合っていた。



(……この温もりを、私は二度と失わない)



楓は持子の背中に腕を回しながら、ガラス屋根の向こうの雪空を見上げた。

イギリスでの不測の事態は、なんとか乗り越えた。


だが、持子の魔力を狙う者たちは、これからも絶えることなく彼女の前に立ち塞がるだろう。



(誰が来ようと、関係ありません。私と持子お姉さんのバディなら、必ず切り抜けられる)



「……さて。持子お姉さん。警察や厄介な魔術師協会が来る前に、ここからズラかりましょうか」

「えっ、ズラかるって……!? だ、だよね! わたし達、目立っちゃうもんね!」

「ホテルに戻ったら、とびきり甘くて温かいミルクティーを淹れますよ」

「ありがとう。楓ちゃん!」


笑顔の持子の手を引き、楓は軽やかに歩き出す。


雪降るロンドンでの死闘を越え、二人の絆は、かつてないほど強固なものとなっていた。

光と影、二つの顔を持つトップモデルと、彼女を護る最強のエージェントの物語は、次なるステージへと確かに続いていく。



* * *



大英博物館での死闘から数時間後。


ロンドンの中心部にそびえ立つ五つ星ホテルのプレジデンシャル・スイートには、外界の凍てつく寒さを完全に遮断した、ひだまりのような暖かさと穏やかな時間が戻っていた。


「はい、持子お姉さん。お約束の、とびきり甘くて温かいミルクティーです」

「わぁい、ありがとぉ楓ちゃん! なまら美味しそう……!」


高級感あふれるふかふかのソファに深々と沈み込んでいた持子は、楓が淹れてくれた湯気の立つティーカップを両手で受け取ると、幸せそうに目を細めた。


一口飲むと、冷え切っていた身体の芯からジンワリと温かさが広がっていく。


「はぁ〜……生き返るぅ……。やっぱり、楓ちゃんの淹れてくれるお茶が世界一だよぉ」

「ふふっ、大げさですよ。ですが、お口に合ったのなら何よりです」


楓も自分のカップを手に持ち、向かいのソファに腰を下ろして優しく微笑んだ。

窓の外では、すっかり日が落ちたロンドンの街に、雪と名物の霧が混ざり合いながら静かに降り注いでいる。


つい先ほどまで、あんな恐ろしい化け物と命がけの死闘を繰り広げていたことが嘘のように、二人は他愛のない会話に花を咲かせた。


大英博物館で倒れた人たちが目を覚ました時の大パニックっぷりや、こっそり裏口から抜け出してきた時のスリルを思い出し、持子が身振り手振りで語り、楓がそれに相槌を打ってクスクスと笑い合う。


そこにあるのは、どこにでもいる仲の良い普通の少女たちの、平和で尊い日常の風景だった。


やがて、ティーカップが空になる頃。

楓はスッと表情を引き締め、立ち上がった。


「さて。私は少し部屋を外しますね、持子お姉さん」

「えっ? どこか行くの?」


「ええ。結界が解けたとはいえ、現地の魔術師協会や警察が色々と嗅ぎ回っているはずです。厄介事に巻き込まれないよう情報操作の『後片付け』をするのと……日本で待つ『スノー』の皆への、定期報告を済ませてこなければなりません」


特級エージェントとしての顔に戻った楓は、スーツの襟を正しながら言及した。


「そっか……。楓ちゃんは休む暇もないね。ごめんね、わたしがもっとしっかりしてれば……」


「何を言っているんですか。持子お姉さんは今日、世界で一番立派で格好よかったですよ。疲れたでしょうから、先にお風呂に入って、ゆっくり休んでいてください」


楓は持子の頭を優しく撫でると、安心させるように微笑み、スイートルームの重厚な扉を静かに閉めて出て行った。



一人きりになった広すぎる部屋。

静寂が訪れた瞬間、持子の心には先ほどまでの激闘と、脳を焼いたあの『感覚』が波のように押し寄せてきた。


ふらつく足取りで洗面台へと向かう。

蛇口を捻り、溜まった冷たい水で何度も何度も顔を洗った。


「ぷはっ……!」


タオルで顔を拭きながら、鏡に映る自分を見つめる。

そこにいるのは、頬を赤らめ、肩で息をする、どこにでもいる十六歳の少女だ。


けれど、持子は知っている。

その内側に、世界を揺るがすほどの魔性が棲んでいることを。


「……びっくりしたぁ。まさか、あんな力がわたしの中にあったなんて」


指先が微かに震える。


あの時、アザゼルの精神をハックし、すべてを自分の思い通りに屈服させた全能感。

脳が泥のように甘く溶けるような快楽。


思い出すだけで、身体の奥底がちりちりと熱を帯びるのがわかった。


「……ダメダメっ! あんなの、絶対にもう使わないんだからっ!」


思わず自分に言い聞かせるように叫ぶ。

けれど、すぐに思い直した。


この旅を通して、断片的ではあるけれど、かつての自分――『魔王・董卓』としての記憶が戻ってきている。

世界がこの力を欲しがり、あるいは恐怖し、それが抑止力となっていたことも、バカな自分なりになんとなく理解できていた。


「使わないんじゃない。……使いこなさなきゃいけないんだ」


鏡の中の自分に、言い聞かせる。


さっきだって、楓ちゃんがいなければ、わたしは間違いなくあの力に溺れて、自分を見失っていた。

高倉師匠は言っていた。「強くなければ生きていけない」と。


師匠と交わしたあの誓いを守るためにも、そして何より、自分を信じて背中を預けてくれた楓ちゃんのためにも、わたしはこの力に振り回される「器」で終わるわけにはいかない。


「力を支配して、自分のものにする。溺れないように、わたしが『主』になるんだ」


そして、鏡を見つめる持子の脳裏に、もう一つの厄介な記憶がよぎった。


「……あの子たちのこと。あ、下僕しもべのみんなのこと……放置は、できないよね」


かつての魔王持子が結んだ、魂のパスと主従契約。


彼女たちは今も、持子を求め、渇望している。

自分は別に百合ゆりじゃないけれど、彼女たちは魂レベルで自分を求めているのだ。


「百合はできないけど……でも、このマーラの力が完全に使いこなせれば。魔力の譲渡と一緒に、『快楽』を与えることはできる、んだよね……?」


彼女たちの渇きを癒やし、充足感を与える方法。

自分の魔力を通じて、直接彼女たちの脳に甘い悦びを流し込む。


そこまで考えて、持子は猛烈に顔が熱くなるのを感じた。


「わ、わたし、何を考えてるのっ! 相手をそんな気持ちにさせて満足させるなんて、なまら恥ずかしいんだけどっ! 恥ずかしすぎて死んじゃうっ!」


パシパシと自分の頬を叩き、身悶えする。

自立を誓い、高潔なモデルとして歩もうとする意志。


けれど同時に、かつて魔王として君臨し、下僕たちに絶対的な快楽と魔力を与えていた自分も、確かにここにいる。


「……ふぅ。……でも、それがわたしの責任なら」


持子はもう一度、鏡を真っ直ぐに見据えた。


自立と引き換えに手にしてしまった、『快楽という名の危険な力』。

それと共存し、制御していく綱渡りのような日々は、まだ始まったばかりなのだ。


ふと、夜の窓ガラスに映った持子の瞳。

彼女自身も気づかない一瞬の間、その黄金の輝きが、ゾッとするほど妖しく、そして愉悦に満ちた色に染まった。



(……気持ち、よかったな……)



自分の中に潜む魔性の囁き。

ロンドンの冷たい霧が街を包み込むように、その甘い毒は、持子の魂の奥底に静かに、しかし確実に根を下ろしていた。


少女の決意と、魔王の悦楽。


二つの心を引き連れて、恋問持子の物語は、さらなる深淵へと足を踏み出していく。


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