【トップモデルの対精神戦闘術と「甘すぎる代償」】
【トップモデルの対精神戦闘術と「甘すぎる代償」】
「……ふぅっ」
持子が、震える唇から薄く息を吐き出した瞬間。
凍てつくような大英博物館のグレート・コート。
アザゼルの重く冷たい恐怖の瘴気と、数多の古代遺物から吸い上げたおぞましい呪いが渦巻いていたその空間が――。
一瞬にして、甘く狂おしい『桜色の魔力』に塗り替えられた。
だが、以前イタリアで起きたような無意識の暴走とは全く違う。
持子は、内側から爆発的に溢れ出そうとするマーラの魔性を、ただの気合や感情に任せるのではなく、自身が血の滲むような努力で培ってきた『トップモデルの技術』によって、完全な支配下に置いていたのだ。
肩甲骨を寄せ、胸を凛と開く。骨盤を真っ直ぐに立てる。
丹田(お腹の下)に深く意識を落とし、頭のてっぺんから見えない糸でピンと吊られているように、背筋を美しく伸ばす。
その洗練を極めた【姿勢と歩法】は、暗く冷たい大英博物館の石の床を、彼女のためだけに用意された華やかなランウェイ(ステージ)へと劇的に変貌させた。
カメラのレンズを射抜くように、圧倒的な存在感でアザゼルの顔のない顔を真っ直ぐに見据える黄金の瞳。
その【視線制御】によって、マーラの魅了の魔力が鋭い矢となって、分厚い呪いの防壁をすり抜け、敵の精神の核へと深々と突き刺さる。
そして、絶妙なタイミングで薄い桜色の唇に浮かべた、優雅で気高い【微笑み】。
「……さあ、見なさい」
凛とした声が、広大な館内に響き渡る。
それは、暴力を一切伴わない、持子が行き着いた究極の「対精神戦闘術」だった。
持子の存在そのものが発する神々しいまでの光と圧倒的な美、そして「生命力の肯定」の前に、アザゼルの放つ『孤独と恐怖』の思想は、まるで灼熱の太陽に照らされた朝霧のように、無残に飲み込まれ、霧散していく。
『ば、かな……! 恐怖が、喰えない……! 圧倒的な、美……! 生命の輝き……! 古代の呪いすら凌駕する光……! 我の、我の存在が、否定される……っ!』
巨大化していたアザゼルが苦悶の声を上げ、大英博物館のガラス屋根に叩きつけられるように、黒い翼をバタバタと無様に振り乱した。
その精神的な繋がりの中で、持子はふと、アザゼルの本質的な感情に触れた。
(……なんだ。この化け物も……怖いんだね)
大層な呪いをかき集めて図体を大きく見せているが、その中身は空っぽだ。
一人でいるのが怖くて、孤独に耐えられなくて、誰かの恐怖や過去の遺物にすがりつかないと自分が消えてしまいそうで、必死に強がっているだけの、哀れで幼い存在。
それは、かつて孤児院で一人ぼっちで震えていた、昔の自分と全く同じだった。
「……あなたも、なまら怖かったんだね……一人ぼっちが」
持子の黄金の瞳に、ほんの少しの切実な理解と、慈愛の光が宿る。
だが、次の瞬間だった。
「っ……あ……♡」
持子の脳髄を、痺れるような強烈な快感が、暴力的なまでに襲った。
マーラの力を、人間の意志の力でコントロールすることの代償。
それは、他者の精神を圧倒し、完璧に支配することによって得られる「脳を甘く溶かすような全能感と、際限なく愛される悦び」だった。
(ああ……すごく、気持ちいい……。全部、どうでもよくなっちゃう……)
思考が泥のように甘く溶け始める。
このまま自我を手放し、愛と快楽の海に沈んでしまえば、どんなに幸せだろうか。
もう怖い思いをして戦わなくていい。苦しい思いをして努力もしなくていい。
ただそこに存在するだけで、すべてを支配し、すべてから愛される。
ここは、底なしの快楽の沼だ。
持子の膝からカクンと力が抜けそうになり、気高く保っていた黄金の瞳が、とろんとうつろに潤みかける。
甘い『シャネルのNo.5』の香りが、危険なほどに濃密に立ち込めた。
「持子お姉さん!!」
その時、背後から楓の鋭い、悲痛な声が響いた。
ハッと我に返る持子。
振り返ると、そこには息を切らし、両親を失ったトラウマからくる恐怖で顔を真っ青にしながらも、生太刀を固く握りしめ、ボロボロになりながら自分を守ろうとしている親友の姿があった。
(……ダメだ。わたしは、強くないと生きていけないって、自分で自分の足で立つって……高倉師匠に誓ったんだ! 楓ちゃんに、これ以上無理はさせられない!)
持子は奥歯が鳴るほど強く歯を食いしばり、唇から一筋の血が滲むほど強く噛み締めた。
口の中に広がる鉄の味と鋭い痛みが、甘い快楽を打ち消す。
押し寄せる魔性の誘惑をギリギリのところでねじ伏せ、持子は再び、トップモデルとしての完璧な姿勢を大英博物館の中央で取り戻した。




