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【鏡写しの対峙と、手綱を握る者】

【鏡写しの対峙と、手綱を握る者】



『……脆い。実に脆い魂だ。極上の魔力という器に反して、中身はただの臆病な小娘とはな』


大英博物館の展示室を破壊しながら膨張したアザゼルの本体が、楓への攻撃を後回しにし、すべての瘴気と悪意を持子一人へと集中させた。


のっぺりとした顔のない闇の奥底から、持子の魂を直接射抜くような悍ましい視線が放たれる。

アザゼルは、強靭な精神を持つ特級エージェントの楓を削るよりも、背後で震えている「最も精神が脆く、極上の魔力を持つ」持子を直接喰らった方が早いと判断し、容赦のない精神干渉を仕掛けてきたのだ。


『人間は一人では生きられない。恐怖に怯え、常に誰かの背中に隠れ、縋るだけだ。……お前もそうだ。己の力に無自覚なまま、誰かに守られなければ立っていることすらできない、孤独で脆弱な小娘よ』


「うぅ……っ!」


直接脳髄に響くアザゼルの呪詛のような思念が、持子の胸の奥深く、固く蓋をしていた古い傷跡を鋭く抉った。

持子の脳裏に、見たくもない過去の記憶がフラッシュバックする。


暗く冷たい孤児院の廊下。

その圧倒的な美貌ゆえに「気味が悪い」と迫害され続けた日々。


「なによ、あんたばっかり大人ぶって!」


同年代の子供たちの嫉妬に満ちた細い指先が、持子の白磁のような頬や腕の肉に容赦なく食い込む。


「あはははっ! 泥まみれだ!」


すれ違いざまに髪を強く引かれ、泥団子をぶつけられ、氷点下の外に締め出された夜。



(……消えてしまいたい。誰か、助けて……)



持子の脳裏に、一瞬だけ幻影が浮かんだ。

それは、かつて前世で自分の全てを預けていた、圧倒的な覇気を持つ魔王『董卓』の広く頼もしい背中。

そして、孤児院の暗闇から自分を引っ張り出してくれた恩人であり、持子にとっての絶対的な「光」にして「推し」、そして「母」のような存在であるスノーの社長『立花雪』の優しい背中だった。


(あそこに隠れてしまえば、どれほど楽だろうか。目を閉じて、耳を塞いで、誰かが助けてくれるのを待っていればいい。雪さんが、楓ちゃんが……いつもみたいに、わたしを抱きしめて守ってくれる……。今までずっと、そうやって生きてきたじゃないの)


『そうだ。お前は弱い。一生、何者かに怯え、縋り付いて生きるのだ。そのまま絶望し、我が至高の器となれ……!』


アザゼルの嘲笑が響き、黒い霧の触手が持子の華奢な身体に絡みつこうとした、その時。


「……持子……お姉さん……っ、逃げ……て……!」


前線で盾となっている楓から、苦痛に満ちた呻き声が漏れた。


両親を理不尽に殺された最悪のトラウマをアザゼルに抉られ、精神を激しく摩耗させながらも、楓は持子を守るために必死に生太刀を構え続けている。

今にも倒れそうなその背中を見た瞬間。


持子の記憶の奥底から、鮮明に蘇る顔があった。


それは、埃と汗の匂いが染み付いた、古い自宅を改修した合気武道の道場。

厳しくも温かい眼差しで自分を見下ろす、合気武道の師匠・高倉老人の顔だった。


5歳の頃。

孤児院でのいじめに絶望し、真冬の創成川に身を投げようとした自分を拾い上げてくれた大恩人。

彼は持子に合気武道の厳しさを教え込みながら、何度も何度も言い聞かせてくれた。



『強くなければ、生きられない』



(……そうだ)


持子のガクガクと震えていた膝が、ピタリと止まった。


(わたしは、高倉お爺ちゃんのあの言葉があったから、孤児院でのいじめを乗り越えられた。泣くのをやめて、前を向いて歩き出せたんだ)


(わたしは……ただ守られるだけの、弱い女の子じゃない!)


二年間の記憶と魔力を失い、ただの16歳の女子高生に戻ってしまった今の持子。

魔王としての傲岸不遜な自信も、敵を圧倒する戦いの記憶もない。


それでも、高倉老人から教わった「心の強さ」の根源と、理不尽な悪意には決して屈しない正義感だけは、彼女の魂に深く、消えない炎として刻み込まれていた。


「……違う」


持子は、震える両足にギュッと力を込め、自らの意志で、ボロボロになりながら自分を庇い続ける楓の背中から一歩、前へと踏み出した。


「わたしは……もう、誰の背中にも隠れないっ!」


持子の黄金の瞳が、暗闇の中で鮮烈な決意の光を放つ。

気弱でビビリな16歳の少女が、今、自分自身の意志で絶望を振り払ったのだ。


「わたしは自分で立つ。自分の足で、自分の意志で立つんだ。雪さんや楓ちゃんに守られるだけじゃなくて……今度は、わたしが楓ちゃんを守る! わたしの心は、もう誰にも、あなたなんかに絶対に渡さない!」


持子は両目を強く閉じ、己の身体の最も深い場所、魂の深淵へと真っ直ぐに意識を沈み込ませた。


そこにあるのは、知っている。

かつてクリスマスの夜に暴走し、周囲のすべての生命力を快楽と共に吸い尽くそうとした最悪の神格――第六天魔王『マーラ』の危険な極黒のカオス魔力。

七星宝剣によって封じられているはずのその泥沼のような力が、持子の感情の高ぶりに呼応して、ドロドロと渦巻いて眠っているのを。


人を狂わせ、己の精神すら飲み込まれかねない、絶対的な愛欲と支配の力。

少しでも気を抜けば、16歳の純粋な持子の自我など一瞬で消し飛んでしまう。


(怖い……。なまら怖いよ……)


(でも、わたしが楓ちゃんを守るためには、今、これを使うしかない……っ!)


持子は、恐怖で震える自らの心に強烈な鞭を打ち、マーラの力の淵源たる暗闇へと迷いなく手を伸ばした。


そして、その悍ましい極黒の魔力の手綱を、両手で力強く、千切れるほどに握りしめた。



「――貸しなさいっ、あなたの力!!」



持子の叫びと共に、封印の奥底から、かつてないほど濃密で圧倒的な『極黒のカオス魔力』が大英博物館の空間へと爆発的に噴き上がった。


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