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【特級エージェントの死闘と揺らぐ心】

【特級エージェントの死闘と揺らぐ心】



「――戦術換装。生太刀いくたち、再顕現」


楓の冷徹な声が、凍てつく闇に響いた。


先ほどまで数多の分体を広範囲に消し飛ばしていた白銀の長弓『生弓いくゆみ』が光の粒子となって霧散し、代わって彼女の右手に、再び抜き身の神剣が握りしめられる。


距離を置いて掃討する段階は終わった。

古代の怨念を取り込み、巨大化したアザゼルの本体が明確な殺意を持って自分たちを、そして背後の持子を真っ直ぐに狙っている以上、零距離での迎撃と絶対の守護に特化した『太刀』こそが最適解だと、楓の戦術脳が弾き出したのだ。


ゴゴゴゴゴ……ッ!!


博物館の床が不気味に鳴動する。

アザゼルの足元から伸びた黒い瘴気の触手は、今この瞬間も大英博物館の各展示室から途方もない力を強引に吸い上げ続けていた。


古代エジプト展示室に眠る数千年前のミイラたちが放つ「死の呪い」。

メソポタミアの遺物に残る「血塗られた儀式の記憶」。

世界中から略奪され、この場所に集められた数多の古代の魔具や遺物に宿る『負の魔力』と『怨念』。


それらがどす黒い奔流となってアザゼルの不完全な肉体に注ぎ込まれ、彼自身の凶悪な魔力として還元されていく。



『……オオォォォォォォォッ!!』



遺物の力を喰らい、悍ましいまでの魔力を纏ったアザゼルの本体から、無数の分体が一斉に分離し、弾丸のように楓たちへと殺到した。


「シィッ!」


楓の身体が、物理法則を無視した神速で爆ぜる。

床を蹴る音すら置き去りにする、風間家秘伝の歩法『無足』。


その踏み込みから放たれた生太刀の白銀の閃光が、襲い来るアザゼルの分体を袈裟懸けに両断する。

音もなく、異形の天使は黒い霧となって霧散した。


だが、その光景を見つめる持子の瞳には、安堵の色はなかった。


「……楓ちゃん! すごい、なまら強い……! でも、大丈夫……?」


持子は震える声で、親友の背中に問いかける。

『シャネルのNo.5』の香りが、恐怖で乱れた呼吸と共に切なく漂った。



『……無駄だ。我は、古き者どもの怨念を喰らい、無限の力を得た……!』



斬り捨てたはずの黒い霧が、古代遺物から供給される魔力によって空中で瞬時に蠢き、再び集まって三体のより凶悪な分体となって顕現する。


今のアザゼルは、この博物館全体を覆う結界と古代遺物の呪いそのものを己の身体・魔力として同化させている状態だ。

物理的な刃で幾ら斬ろうとも、根源たる魔力供給を断たない限りは無尽蔵に再生を繰り返す。


「チッ……不死身、あるいはこの空間と遺物を媒介とした無限の群体ですか……!」


楓は鋭く舌打ちをし、再び刃を振るう。


十体、二十体。

湧き出す分体を紙切れのように切り捨てていくが、真の脅威は、彼女の「内側」を致命的に蝕み始めていた。



(くっ……!? なんだ、このまとわりつくような不快感は……!)



刃が霧を裂くたび、宙を舞う黒い羽が肌に触れるたび。

楓の脳内には、遺物の呪いとアザゼルの精神汚染が混ざり合った、強制的な「恐怖」の感情が流し込まれていく。


アザゼルの本質は、物理的な破壊ではない。

人間の深層心理にある『最も触れられたくない部分』を、泥を塗った手で弄り回すようなおぞましい精神攻撃だ。



『……お前は孤独だ。誰も信じず、暗闇を彷徨う哀れな魂……』



「……舐めないでください。私は、孤独なんかじゃありません」


アザゼルの思念を、楓は冷徹に一蹴する。


彼女は孤独ではない。

洋助という頼れる兄がいて、助平という破天荒だが深い愛情を持つ祖父がいて、温かい家族の愛に包まれて育ってきた。

彼女の心には確固たる光がある。アザゼルの浅はかな「孤独への恐怖」など、彼女には全く通用しない。


だが――顔のない堕天使は、その程度の反撃を織り込み済みだった。



『……ならば、これはどうだ? あの時、お前の“すべて”が理不尽に壊された、あの絶対的な絶望は……!』



「っ……!!」


瞬間。

楓の脳裏に、絶対に思い出したくない、鍵をかけて封印していたはずの『最悪の記憶』が、鮮明な映像としてフラッシュバックした。


幼い頃。自分の両親が、ある者によって理不尽に、そして惨たらしく殺害された光景。

血の海。動かなくなった両親の冷たい手。


その真実は、祖父である助平と、風間家の深い事情を知る極一部の者しか知らず、絶対に他言してはならない最大の禁忌として封じられている。


楓自身も、その真相を自らの口で語ることはできない。

だが、だからこそ――『大切な家族を、抗いようのない理不尽な暴力によって永遠に失う』という、血を吐くような喪失感と絶望の恐怖は、楓の魂に消えない呪いとして絶対的に刻み込まれていたのだ。



『……あの穏やかな日常が、再び壊れる恐怖』

『今度はお前の手で護るべき持子を失い、再びあの日と同じ絶望を味わう恐怖』



「はぁっ……はぁっ……!」


肉体的な疲労は皆無のはずだった。


しかし、特級エージェントとしての強靭な精神の壁を、古代の呪いで強化されたアザゼルの思念が冷たい水のように浸透し、彼女の心をゴリゴリと削り取っていく。


ようやく手に入れた温かい居場所、大好きな持子との時間。

それが両親の死と同じように無惨に崩れ去る光景が、網膜に直接焼き付けられる。


両親を失った『父母を失う絶対的な恐怖』が、今の持子を失う恐怖へと直結し、楓の心を激しく揺さぶった。


「楓ちゃん……? どうしたの、息が上がってるよ……!?」


背後で蹲る持子の脳裏に、強烈な不安が芽生え始めた。


いつもどんな時でも自分を完璧に護ってくれる、頼もしい親友。

その真っ直ぐな背中が、今は驚くほど脆く、今にも倒れてしまいそうに見えた。


「私から……絶対に、離れないでください、持子お姉さん……っ!」


楓は血が滲むほど唇を噛み締め、両親を失ったトラウマから来る震えを必死に気力で押さえ込みながら剣を振るう。

しかし、その太刀筋からは徐々に鋭さが失われ、精神の摩耗が肉体の動きを確実に鈍らせていた。


その様子を、顔のない堕天使アザゼルは歓喜の思念を漏らしながら見つめていた。


楓が苦しめば苦しむほど、その恐怖に連鎖して、背後で怯える持子の封印の隙間から漏れ出す『極黒のカオス魔力』の香りが、どこまでも甘く、色濃くなっていくからだ。



『……そうだ。もっと恐れろ。両親を失ったあの日のように絶望しろ! お前たちの絶望と、この古代の魔力こそが、我が完全へと至る至高の糧となる……!』



大英博物館の静寂を切り裂くように、アザゼルの狂喜の咆哮が、凍てつく闇の底から響き渡った。


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