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【欧州地獄と不完全な堕天使】

【欧州地獄と不完全な堕天使】



1月11日。

イギリスの空は重く鉛色に沈み、しんしんと冷たい雪が降り始めていた。


だが、その凍てつくような空の冷たさも、ロンドン郊外の地下深くに潜む者たちの狂熱を冷ますことはできなかった。


冷たく湿った石造りの地下聖堂。

何百年も光の届かないその最下層に、狂気に満ちたしわがれ声の詠唱が反響していた。


ここは欧州裏社会のさらに深く、歴史の闇に葬り去られたはずの秘密組織『黒き聖堂騎士団』の残党が隠れ住む場所。


彼らは今、禁忌中の禁忌である堕天使「アザゼル」の召喚儀式を強行していた。


祭壇の主導を握る男、エドワード・キングスレイは、自身の肩を震わせながら歪んだ笑みを浮かべていた。


かつてフランスのパリで経験した悪夢が、エドワードの脳裏から離れない。

あの時、自身が率いていた部隊は、圧倒的な異能の力を持つエティエンヌの勢力によって蹂躙され、肉体はボロ雑巾のように引き裂かれた。


絶望の中で彼は、あらかじめ用意していた緊急脱出用の隠蔽魔術を起動した。

命からがら母国イギリスへと逃げ延びたのだ。


パリの夜空の下で受けた屈辱と、エティエンヌに対する煮えたぎるような怨念。

その狂信的な暗殺者の執念だけが、国境を越えてこのイギリスの地へと持ち越されたのである。



「エティエンヌ……! 忌まわしきフランスの支配者め! 我ら騎士団を滅ぼしたその報い、必ずや血で贖わせてやる!」



エドワードが率いる十数人の術者たちは、血走った目で憎悪を煮えたぎらせていた。


フランスを完全に掌握し、今やヨーロッパ全土に絶大な影響力を持つ怪物、エティエンヌ。

彼に歯向かったがゆえに、騎士団は多大な犠牲を払い、歴史の表舞台から完全に叩き落とされたのだ。


こんな儀式、最初から成功するはずがない。

仮に成功したところで、強大な堕天使を制御できるわけがない。


そんなことはエドワード自身、頭のどこかでは分かっていた。

それでも、彼はエティエンヌに一矢報いたかったのだ。


このイギリス全土を生贄に捧げて巨大な魔力を生み出し、ドーバー海峡を越えてフランス全土まで殺戮の嵐を巻き起こす――。

そんな馬鹿げた、狂気に満ちた破滅の引き金を、エドワードは自ら引いた。



「おお……来たる、来たるぞ! 我らが悲願、エティエンヌに死を齎す黒き翼が!」



術者たちは自らの生命力を削り、目から血の涙を流しながらも歓喜の声を上げる。


だが、彼らは致命的な過ちを犯していた。

圧倒的な実力不足、そして準備不足。


彼らが召喚の対価として捧げた魂は、アザゼルという高位の精神生命体を現世に定着させ、あわよくば使役しようなどという目論見に対して、あまりにも脆弱で矮小すぎたのだ。



『……足りない』



虚空から響いたその声は、空気を震わせる物理的な音波ではなく、直接脳髄を鷲掴みにするような悍ましい「思念」だった。

堕天使との交渉の余地など、最初から一ミリたりとも存在しなかったのだ。



「え……? あ、ああ、ああああああああっ!?」



歓喜は一瞬にして、この世の終わりを告げる絶望の絶叫へと変わった。


床に描かれた魔法陣から、どす黒い泥のような瘴気がボコボコと湧き出し、術者たちの足元から這い上がっていく。

それは彼らの「精神」と「記憶」、そして心の奥底にある「最も恐れるもの」を問答無用で貪り喰らい始めた。


「やめ、やめてくれ! 私の、私の恐怖を喰うなああああっ!」

「ひぎぃぃぃっ! 暗い、孤独だ……誰か、誰か助けてくれ……!」



数分後、地下聖堂には不気味な静寂が戻った。


エドワードを含む術者たちは外傷こそ一つもないものの、瞳孔が開いたまま泡を吹いて倒伏し、完全に精神を破壊された廃人となっていた。

エティエンヌへの復讐劇は、敵を一人も殺すことなく、自滅という形で呆気なく幕を閉じた。


その中央で、どす黒い瘴気がゆっくりと人の形を成していく。


背中には、油を塗ったようにぬらぬらと光る黒い翼。

だが、その顔には目も鼻も口もなく、ただのっぺりとした底なしの闇が広がっているだけだった。


不完全なる堕天使、アザゼルの誕生である。


しかし、奇跡的に顕現を果たしたものの、アザゼルの足元はすでに揺らいでいた。

本来ならば、術者たちの矮小な魂だけでは圧倒的な魔力不足であり、現世に身体を維持できず、このまま霧散して消滅するはずだったのだ。


アザゼルの根底には、一つの歪んだ思想がある。



『人間は恐怖なしでは生きられない。誰かにすがり、怯えながら生きるのが人間の本質だ』



それは裏を返せば、「他者の恐怖と魔力に依存しなければ己の存在すら保てない」という、アザゼル自身の哀れで決定的な弱さの証明でもあった。

今この瞬間も、不完全な器は端からボロボロと崩れかけている。


だが――悪運は、堕天使に味方した。



(……極上の魔力が、ある)



顔のない堕天使が、顔を上げる。


すぐ近く。

このイギリスの地のどこかに、自分と恐ろしいほど相性の良い、特異な魔力を放つ存在がいる。



(強い光……極上の恐怖を抱えながら、それを必死に隠して強がる魂…………)



消滅しかける肉体を繋ぎ止めるため、アザゼルは分厚い雲に覆われた空へと黒い翼を広げた。


雪が舞い散る凍てつく空を、顔のない堕天使は己の生存と極上の糧を求めて、ロンドンの方角を向く。


魔力を持つ少女・持子の元へと、音もなく飛び立っていった。


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