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【霧の都の夜と、最弱なわたしの誓い】

持子編

【霧の都の夜と、最弱なわたしの誓い】



ロンドンの夜は、どこまでも深く、そして冷たい。


テムズ川から這い上がってきた濃密な霧が、由緒ある超高級ホテルの窓ガラスを白く塗りつぶしている。


現在、恋問持子は、護衛であり大親友でもある風間楓と一緒に、そのホテルの豪奢なメインダイニングで遅めのディナーを楽しんでいた。


「んん〜っ! わたし、イギリスのご飯ってあんまり美味しくないって噂で聞いてたけど……このローストビーフ、なまら美味しい!」


持子は、目の前に運ばれてきた分厚いお肉を一口頬張り、思わず顔を綻ばせた。


外側は香ばしく焼き上げられ、内側は美しいルビー色をした完璧なミディアムレア。

そこに、肉汁の旨味が凝縮された濃厚なグレイビーソースと、ツンと鼻に抜けるホースラディッシュ(西洋わさび)の辛味が絶妙に絡み合う。


付け合わせのヨークシャープディングも、外はサクサク、中はもっちりとしていて、ソースをたっぷりと吸い込んで最高だった。


「ふふ、お気に召したようで何よりです。昔はともかく、現在のロンドンの高級ホテルのガストロノミーは世界最高峰のレベルにありますからね」


持子の向かいの席で、楓が優雅な手つきでナイフとフォークを操りながら微笑む。


今日の楓は、いつもの黒いパンツスーツではなく、ホテルのドレスコードに合わせたシックなネイビーのイブニングドレスを身に纏っている。

凛とした美しさと、十六歳とは思えない洗練された立ち振る舞いは、まるでどこかの国の王女様のようだった。


それに比べて、持子はといえば。

スタイリストが事前に用意してくれた可愛らしいワンピースを着てはいるものの、中身は記憶と魔力を失ったただのポンコツ女子高生だ。

フォークを持つ手も、なんだか少しぎこちなくなってしまう。


「でも、楓ちゃんはいつもすごいね。どんな場所でも堂々としてて、かっこいいよ。……わたしなんて、人が多いところだとすぐビクビクしちゃうのに」


「そんなことはありませんよ。持子お姉さんは、そのままで十分に魅力的です」


楓は、持子のグラスに注がれたミネラルウォーターの残量に目を配りながら、優しく首を振った。


「それに、私の役割は持子お姉さんをあらゆる脅威からお護りすること。TIAの特級エージェントとして、そして何より、あなたを慕う一人の妹(義妹)として、この命に代えてもあなたに指一本触れさせはしません」


静かだけれど、鋼のように揺るぎない意志が込められた言葉。


その眼差しには、一切の迷いがない。

持子にとっては頼もしくて、温かくて、そして少しだけ申し訳なくなるものだった。


「……ありがとう、楓ちゃん。なまら心強いよ」


持子は照れ隠しにふわりと笑い、残りのヨークシャープディングを口に運んだ。


パリでの恐ろしい事件撮影を乗り越え、こうしてイギリスの地で温かい食事をとれるのも、全部彼女や、日本で待っている大好きな雪たちのおかげなのだ。



* * *



美味しいディナーと、甘いイングリッシュ・トライフル(カスタードとフルーツのデザート)を堪能した二人は、ホテルの最上階にあるスイートルームへと戻ってきた。


「持子お姉さん、少しお待ちを。部屋の安全確認を行います」


部屋のドアを開けるなり、楓の空気が一変した。


ドレス姿のままでありながら、彼女の瞳は鋭い捕食者のそれへと変わり、音もなく部屋の隅々、クローゼットの中、バスルーム、そして窓の施錠状態までを瞬時にチェックしていく。


護衛対象と同室で寝泊まりするということは、彼女にとって「二十四時間、常に気が抜けない任務」であることを意味している。


「……異常ありません。どうぞ、お入りください」


「楓ちゃん、いつもごめんね。ありがとう」


持子が部屋に入ると、そこは中世の貴族のお城かと思うほど豪華な空間だった。


足が沈み込むほど分厚い絨毯、マホガニーの重厚なアンティーク家具。

そして部屋の奥には、二人がゆったりと寝転がれる巨大なキングサイズの天蓋付きベッドが鎮座している。


本来なら護衛の楓はソファやエキストラベッドで寝ると言い張りそうなところだけれど、「なまら広いから一緒に寝よう!」と持子が強引に引っ張って、このベッドをシェアすることになっていた。


バスルームで順番にシャワーを浴び、ホテルのふかふかなバスローブに着替えた二人は、ベッドの上でハーブティーを飲みながら、しばらく他愛のないおしゃべりを楽しんだ。


「イギリスの紅茶は、やっぱり香りが違うね」


「ええ。水質が硬水であることが、茶葉の成分を上手く引き出しているのでしょう」


楓は、持子の後ろに座り、お風呂上がりの彼女の長い髪を専用のブラシで丁寧に梳かしてくれている。

一定のリズムで髪を梳かれる感触が、心地よくて持子の眠気を誘う。


「……楓ちゃんがいてくれて、本当によかった。わたし、一人だったら絶対、怖くてホテルから一歩も出られなかったよ」


「私は、持子お姉さんのお側にいられるだけで幸せです。……さあ、そろそろお休みになられた方が良いでしょう」


楓が優しく持子の肩をポンポンと叩く。

部屋の照明を落とすと、テムズ川から立ち上る白い霧が、窓の向こうでぼんやりと街灯の光を反射していた。


持子と楓は、広すぎるベッドの左右に分かれて潜り込んだ。


「おやすみ、楓ちゃん」


「おやすみなさいませ、持子お姉さん。良い夢を」


楓の規則正しい寝息が聞こえ始める。護衛としての浅い眠りなのだろう。

持子も、ふかふかの枕に顔を埋め、目を閉じた。


安全で、温かくて、大好きな親友がすぐ隣にいる。

これ以上ないほど安心できる環境のはずだった。


――だが、運命は残酷だ。


持子の魂の奥底に封印されていた『パンドラの箱』は、この霧の都の霊的な空気に当てられ、静かに、そして強制的にこじ開けられようとしていた。



* * *



舞台は現代の令和。

高校二年生になろうかという、春休みの出来事。


気がつくと、持子は喧騒から少し離れた、都内の撮影スタジオにいた。

無機質なLEDライトに照らされた控え室で、背後に立つ事務所社長の立花雪と二人きりで帰り支度をしている。


「持子さん、今日も一日お疲れ様。もっと上を目指して、これからも一緒に頑張りましょうね」


雪が書類を片付けながら、優しく励ましてくれる。

その温かい言葉に、持子は顔をカッと赤く染め、わざとらしくそっぽを向いた。


「……ふんっ、言われなくても分かってるわ! 勘違いしないでよね、わたしはただ、雪さんの事務所が潰れて困らないようにやってあげてるだけなんだから。もっとわたしに感謝しなさいよね!」


孤児院育ちで気弱だった持子にとって、雪は彼女を暗闇から救い出してくれた絶対的な「推し」であり「母」のような存在だ。

本当は嬉しくてたまらないのに、照れ隠しでついツンツンした態度をとってしまう。


「はいはい、ありがとう持子さん。さあ、今日はデビュー一周年のお祝いよ。美味しいイタリアンへ行きましょう」


「な、なまら最高……っ!」


思わず地元の言葉が漏れそうになり、持子は慌てて口元を押さえた。


「べ、別に行きたかったわけじゃないけど! 雪さんがそこまで言うなら、付き合ってあげてもいいわよ!」


ぶっきらぼうに愛用のバッグを掴み、メイクの崩れを確認しようと、鏡へ顔を近づけた。


その時だった。


――ピシッ。


鏡の表面に、見えない亀裂が走ったような錯覚。


持子の視界が、ぐにゃりと不自然に歪んだ。

LEDライトの白い光が唐突に消え失せ、控え室の風景が、どす黒く泥濘む真っ暗な精神世界へと反転する。


「……えっ? なに、ここ……」


持子は愕然と周囲を見回した。


そこは、持子自身の魂の最深部。

そして、暗闇の底から這い上がってきたのは、どこまでも粘着質で、甘く、ピンク色に発光する禍々しい毒霧だった。


『――我が、美しき器よ』


霧の中から現れたのは、持子と全く同じ顔、同じプロポーションを持った異形の存在。


第六天魔王、マーラ。


すべての欲を司り、魂を愛欲で溶かし尽くす究極の魔。


『我と一つになり、愛欲の海で永遠に微睡むのだ……お前のその身体、余すところなく凌辱し、快楽の底へ堕としてやろう』


「こわ、い……! やだ、来ないでっ!」


マーラから放たれる、圧倒的な愛欲の魔力。

目が合うだけで理性がドロドロに溶け出し、自分が自分ではなくなっていくような強烈な快感と嫌悪感が、精神をメチャクチャに犯していく。


「エッチな行為は結婚してから」と固く誓っている持子にとって、それは死の恐怖を遥かに超える、魂への冒涜だった。


(このままじゃ、わたし……わたしが、消えちゃうっ……! 誰か、助けて……っ!)


極限の恐怖と絶望に耐えきれず、持子は悲鳴を上げて魂のさらに奥底へと逃げ込んだ。

真っ暗な深淵に分厚い殻を作って引きこもり、外界との繋がりを自ら断ち切るために。


そして――。

その身代わりの盾として、魂の底で千八百年の間眠りについていた『前世の亡霊』を、無意識に表層へと突き飛ばしたのだ。


持子は、自分で作った分厚い心の殻の中から、その光景をはっきりと見ていた。


ピンク色の毒霧が彼女の精神を完全に飲み込もうとした瞬間。



――ドグゥゥゥゥゥゥゥゥゥンッ!!!!



持子の精神世界を根底から揺るがすほどの、暴力的で圧倒的な『極黒の覇気』が火山のように噴き上がった。


甘く蕩けるようなマーラの魔力を、一切の容赦のない絶対的な殺意と暴力が真っ向から粉砕する。


魂の底から引きずり出されたその存在は、傲岸不遜なエゴと、すべてを蹂躙する暴君の魂。


かつての魔王、董卓の自我だった。


董卓は、マーラが放つ愛欲の津波を、ただの一瞥と極黒の魔力だけでいとも容易くねじ伏せた。

凄まじい衝撃と共に、マーラのピンク色の魔力は粉々に砕け散った。


そしてマーラの残滓は、持子が隠れ潜んでいる深淵よりも、さらに深く、暗く、底知れない無明の最深層へと、一直線に叩き落とされていった。


暴君の圧倒的な力によって、究極の魔すらも、彼女の手の届かない遥か底へと封殺されたのだ。


「……まおう、ちゃん……」


持子は、暗闇の中からその頼もしい背中を見つめていた。


けれど、マーラを叩き落とし、精神世界を完全に制圧した董卓の自我が、そのまま表層へ向かい――持子の肉体の主導権を完全に握った、まさにその瞬間だった。


(……え?)


持子の意識から、「外界」の景色が急速に色褪せていった。


鏡に映っていたはずの自分自身の顔も、控え室のLEDライトの光も、背後にいた大好きな雪の気配も。

まるで、テレビの電源コードを無理やり引き抜かれたように、プツンと音がして、すべての視覚と聴覚が完全にブラックアウトしたのだ。


彼が表層を支配したことで、持子は肉体の感覚から完全に切り離された。


暗く、静かな、魂の底の底。


マーラから護られた安全な場所で、彼女は外界の光を一切失い、一人ぼっちで眠りについた。



* * *



「……っ、はあっ、はぁっ……!」


ロンドンの由緒ある超高級ホテル。

天蓋付きのキングサイズベッドの上で、持子は大きく息を吸い込んで跳ね起きた。


全身が、ぐっしょりと冷たい汗に濡れている。

極限の恐怖と、それを上回るほどの甘く、おぞましい感覚が、まだ魂の髄にへばりついている気がして、持子は自分自身の肩をギュッと強く抱きしめた。


「持子お姉さん!? いかがなさいましたか!」


持子が跳ね起きた瞬間、隣で寝ていたはずの楓が、バネ仕掛けのように跳び起きた。


暗闇の中でも彼女の目は完全に覚醒しており、右手は枕の下に隠していたであろう護身用の特殊警棒(あるいは神話級の宝具を顕現させるための構え)をしっかりと握りしめている。

瞬時に部屋の隅々へ鋭い視線を巡らせ、敵の襲撃でないことを確認すると、すぐに持子の元へと駆け寄ってきた。


「楓、ちゃん……」


「ひどい汗です。悪夢でも、見られたのですね。……大丈夫ですよ、私がついています」


楓はベッドサイドのランプを点け、持子の背中を優しく、一定のリズムでさすってくれた。

彼女の手のひらから伝わる温もりが、持子が今、安全な現実の世界にいることを教えてくれる。


「わたし……、思い出した……」


震える両手で自分の顔を覆う。


暗闇の精神世界での出来事。

董卓がマーラを粉砕し、はるか深層へと叩き落としたあの瞬間の記憶が、今の持子の脳裏に寸分の狂いもなく蘇っていた。


魔王・董卓が、持子の身体を乗っ取ったのではない。

董卓が、持子の自我を無理やり深層へ封じ込めたわけでもない。


持子自身が、恐怖に耐えきれず、助けを求めて、すべての主導権を董卓に『投げ渡した』のだ。


彼を身代わりのスケープゴートとして使い、自分は安全な心の奥底へ逃げ込んだ。


そして彼は、自分が盾にされたという事実すら知らないまま、マーラを持子より深い深層へと叩き落とし、結果的に彼女を護り抜いてくれた。

その代償として、持子は外界との繋がりを失い、深い眠りについていたのだ。


「わたしが、弱かったから……。わたしが、魔王ちゃんを身代わりに、犠牲にしたんだ……っ」


激しい罪悪感が、胸を締め付ける。


事実は、残酷なまでに頭で理解できる。

自分が身代わりにしたこと。自分の弱さがすべての元凶であること。


けれど、今の持子がもう一度マーラと対峙したとして、抵抗できるだろうか。


――無理だ。


本能がそう告げている。

あの愛欲の魔力には、今の持子では絶対に勝てない。


「なまら……怖いよぉ……っ」


持子は、ベッドのシーツを頭から被り、膝を抱えて小さく丸まった。


恐怖に震える脳裏に、かつて持子を厳しく鍛えてくれた合気武道の師匠、高倉老人のしわがれた声が蘇る。


『強くなくては生きていけない。』


板張りの道場の冷たい床。汗の匂い。お爺ちゃんの厳しい眼差し。

お爺ちゃんの言う通りだ。


持子は弱かった。だから、魔王ちゃんを盾にした。


「……でも」


持子は、暗闇の中で、ギュッと両拳を握りしめた。


涙で視界はぼやけているけれど、自分自身に対する逃げ場のない真実を、もう二度と手放しはしない。


自分が、魔王ちゃんを犠牲にした。

その事実からは、絶対に逃げちゃダメなんだ。


「……ごめんね、楓ちゃん。もう大丈夫だよ。ちょっと、怖い夢を見ちゃっただけだから」


「……はい。無理はなさらないでくださいね」


心配そうな楓に無理やり笑顔を作り、持子はベッドからゆっくりと足をおろす。


冷たい絨毯の上に立ち、窓辺へと歩み寄って、分厚いベルベットのカーテンを少しだけ開けた。


ロンドンの夜空は、相変わらず深い霧に包まれていて、星一つ見えない。

けれど、霧の向こう側には、確かに夜明けが近づいている気配があった。


「ごめんね、魔王ちゃん。……わたし、まだ全然弱くて、どうしようもないポンコツだけど……」


冷たい窓ガラスに額を押し当て、ロンドンの街並みを見下ろしながら、持子はそっと呟いた。


「いつか……絶対に、強くなるから。マーラを深い底に叩き落としてくれた魔王ちゃんに頼らなくても、自分の心は自分で守れるようになるから。……だから、それまでは、もう少しだけ見守っててね」


霧の都のホテルの一室。


過去の真実と己の罪を受け止め、それでも前を向こうとする持子の小さな誓いが、冷たい夜の空気に静かに溶けていった。


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