【アフタヌーンティーと封印された記憶】
持子編
【アフタヌーンティーと封印された記憶】
一月十日のロンドンは、灰色の空から降りてくる身を切るような冷気と、テムズ川から這い上がってくる湿った霧が混ざり合い、街全体をぼんやりとした幻想的なベールで包み込んでいた。
「なまら寒いよ、楓ちゃん! パリも寒かったけど、ロンドンはなんだか……空気が重たくて、芯から冷える感じがするね」
持子は思わず身震いをして、ダッフルコートの襟を立てた。
吐き出す息は真っ白に染まり、すぐに冷たい空気の中に溶けていく。
パリでの、あの恐ろしいカタコンベでの撮影という「地獄」をなんとか乗り越え、ローマから持子たちは次の目的地であるイギリスへと降り立っていた。
今日の持子の服装は、完全に「防寒と歩きやすさ」を重視した、年相応の女の子らしいコーディネートだ。
すっぽりと体を包み込む、キャメルカラーの厚手なダッフルコート。
首元には、冷たい風を防ぐために赤いタータンチェックのマフラーをぐるぐるとボリューミーに巻きつけている。
コートの下には、オフホワイトのざっくりと編まれた温かいアランニットのセーターを着込み、ボトムスは厚手のウール生地で作られたネイビーのプリーツスカート。
足元は冷えないようにデニールの高い真っ黒なタイツに、歩きやすいダークブラウンの編み上げショートブーツを合わせている。
記憶を失う前の「トップモデル」としての洗練されたオーラは微塵もないけれど、今の等身大の持子には、このくらい温かくて安心できる服装が一番落ち着くのだ。
「イギリス特有の湿った寒さですね。ですが、この霧こそが『霧の都』の正装と言えるでしょう」
隣を歩く風間楓は、いつもの黒いパンツスーツに、上質なカシミヤのロングコートを完璧に着こなし、寒さなど微塵も感じさせない隙のない美しさで歩を進めている。
でも、今日の彼女はいつもと少しだけ雰囲気が違っていた。
「……持子お姉さん、見てください! あちらのショーウィンドウ、『不思議の国のアリス』の初版本をモチーフにしたアンティークのディスプレイですよ。細部まで精巧に作られていて……なんて素晴らしい造形なんでしょう」
大英博物館近くの、石畳が続く裏路地で見つけた小さなアンティークショップ。
その前で足を止めた楓の黒曜石のような瞳が、キラキラと純粋な少女のような輝きを放っている。
普段はTIAの特級エージェントとして冷徹に任務をこなし、持子の護衛として常に周囲を警戒している彼女も、ここイギリスの深い歴史や文学を前にすると、十六歳の女の子らしい好奇心が隠しきれないみたいだ。
「楓ちゃん、なまらテンション高いね! えへへ、そんなに嬉しそうにしてる楓ちゃんが見られて、私もすっごく嬉しいな」
持子は少しだけ誇らしい気持ちになって、彼女の横顔を見つめた。
けれど、ふと視線を前に戻すと、そこには見知らぬ異国の街並みと、足早に行き交う背の高い人々、そして言葉の通じない喧騒が広がっている。
(……っ。やっぱり、ちょっと怖いかも)
カメラの前に立ち、表現者としてスイッチが入れば、最近は少しだけ「王」としての覇気を出せるようになってきた。
でも、ひとたび撮影という「非日常」から離れ、こうして「日常」に戻れば、持子はただの、記憶をなくした気弱な女子高生だ。
見知らぬ環境のプレッシャーに、どうしても心がすくんでしまう。
持子は無意識のうちに、隣を歩く楓のロングコートの袖を、ぎゅっと掴んでしまった。
「持子お姉さん?」
「あ、えっと……ごめんね。人が多くて、はぐれちゃったら怖いなって思って……」
持子が照れ隠しに小さく笑うと、楓は少しだけ眉を下げて微笑み、持子の手を優しく、だけど力強く握り返してくれた。
「大丈夫ですよ。私がしっかりエスコートいたします。……少し体が冷えてきましたね。あそこのティールームで、暖を取りましょう」
楓に導かれて入ったのは、歴史を感じさせる赤レンガ造りのこぢんまりとした、いかにもイギリスらしいティールームだった。
カラン、とドアベルが鳴り、温かな空気に包まれる。
アンティークの重厚な木製テーブルに案内されると、すぐに芳醇な茶葉の香りと、甘い焼き菓子の匂いが漂ってきた。
「わぁ……! すごいよ楓ちゃん、お菓子がタワーみたいになってる!」
運ばれてきた銀色の三段ケーキスタンドを見て、持子は思わず声を上げた。
下段には、薄切りのきゅうりやスモークサーモンが挟まれた、一口サイズの美しいサンドイッチ。
中段には、ほんのり温かい焼き立ての大きなスコーンと、小鉢にたっぷりと盛られた濃厚なクロテッドクリーム、そして宝石のように真っ赤なストロベリージャム。
上段には、ヴィクトリア女王が愛したという、スポンジにジャムを挟んだ素朴で可愛らしいヴィクトリア・スポンジケーキや、小さなフルーツタルトが綺麗に並んでいる。
「本場の『アフタヌーンティー』ですね。まずは温かいお茶をどうぞ。アールグレイです」
楓が優雅な手つきで、縁に金彩があしらわれた繊細なティーカップに紅茶を注いでくれる。
ベルガモットの華やかで上品な香りが湯気と共に立ち上り、外の空気で冷え切った鼻先をくすぐった。
両手でカップを包み込むようにして一口飲むと、渋みのないまろやかな温かさが、体の芯までじんわりと染み渡っていく。
「ん〜っ、なまら美味しい! このスコーンも、外はサクサクなのに中はふんわりしてて……それにこのクロテッドクリーム、バターみたいに濃厚なのに口の中でスッと溶けちゃう!」
「ふふ、お気に召したようで何よりです。持子お姉さんは、本当にいつも美味しそうに食べますね」
持子の口元についたスコーンの欠片を、楓がハンカチで優しく拭ってくれながら、目を細めて微笑む。
異国の地での、本当にささやかで、温かくて、美味しい日常のひととき。
ずっとこんな風に、大好きな友達と平和に笑い合っていられたらいいのにと、持子は心からそう思った。
けれど――。
一時間後、身も心もすっかり温まり、満足感に包まれてティールームの外に出た瞬間だった。
スゥ……と、街の角から先ほどよりもずっと濃い、乳白色の霧が流れ込んできた。
歴史ある石造りの建物が音もなく霧に飲まれ、ガス灯のようなオレンジ色の街灯がぼんやりと歪んで見える。
イギリス特有の、美しくも重苦しく、どこか陰鬱さを孕んだ風景。
その情景が、持子の中に厳重に封印されている「何か」を不意に刺激した。
(あれ……。わたし、この霧……知ってる……?)
唐突に、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
脳の奥底に、ざらりとしたノイズが走る。
息が不自然に荒くなり、視界の端がチカチカと点滅する。
理由はまったくわからない。
ただ、この湿った霧の匂いと、頬を撫でる冷たい空気が、得体の知れない強烈な「恐怖」と「絶望」を呼び覚まそうとしている。
胸の奥から湧き上がってくるのは、誰かに心をこじ開けられ、自分という存在がドロドロに溶かされていくような、悍ましい感覚。
「持子お姉さん、顔色が悪いですよ。……大丈夫ですか?」
楓の心配そうな声でハッと我に返るけれど、体の震えが止まらない。
持子は怯えたように周囲の霧を見回し、咄嗟に楓の背中に隠れるように身を縮め、彼女のコートを強く、強く握りしめてしまった。
これから始まるのは、美しき霧の都を舞台にした、持子の再起の物語。
けれどその足元には、かつての持子が置き去りにした「最悪の記憶」が、すぐそこまで口を開けて待っていた。
――ヒュォォォォォォォォォン……。
テムズ川の方角から、濃密で冷たい『霧』が、まるで意思を持っている巨大な生き物のように音もなく流れ込んできた。
先ほどまで見えていたロンドンの歴史的なレンガ造りの街並みが、真っ白なモヤに包まれ、視界が急速に奪われていく。
「……霧、ですね。ロンドン名物とはいえ、少し急すぎます。霊的な気配は……今のところありませんが」
楓が鋭い視線で周囲を警戒し、いつでも神話級の宝具を顕現できるよう体内の神力を練り上げる。
その、イギリス特有の重く冷たい霧を肌で感じた瞬間。
ズキィィィィィィッ!!!
「あ、ぁぁっ……!?」
持子の脳天を、巨大なハンマーで直接殴りつけられたかのような強烈な痛みが貫いた。
「持子お姉さんッ!?」
膝の力が完全に抜け、石畳の上にガクンと崩れ落ちそうになる持子を、楓が慌てて抱き止める。
しかし、持子の耳にはもう、大好きな親友の声すら届いていなかった。
(な、なに……この、霧……。知ってる……わたし、このイギリスの霧の冷たさを、知ってる……っ!)
ノイズが走る。
ザーッ、ジジジジッ……。
脳裏にフラッシュバックするのは、現代の観光地としてのロンドンではない。
古い図書館の埃っぽい匂い。美しくも冷たいコッツウォルズの庭園。
そして、自分を取り囲む、圧倒的な力と美貌を持つ『異形の者たち』の姿。
「こわ、い……。やだ……来ないで……っ」
ガクガク、ブルブルと、持子の身体が痙攣したように激しく震え出す。
記憶の奥底に七星宝剣の力で堅く封印されていたはずの、かつてこのイギリスの地で経験した『最悪の悪夢』の扉が、霧の冷気と土地の記憶によって、無理矢理にこじ開けられようとしていた。
【 霧の中のフラッシュバック――甘き精神侵食 】
グニャリ、と。
持子の意識の中で、周囲の風景が完全にねじ曲がる。
「…っ、はあっ……!」
冷たい汗が背中を伝い、心臓が早鐘のように鳴り響いている。
ひどくリアルで、魂の髄まで焼き尽くされるような恐ろしい夢だった。
いや、違う。これはただの夢じゃない。
かつて『魔王の持子』がイギリスで経験した、紛れもない過去の追体験だ。
コーンウォール地方の、波が荒れ狂うティンタジェル城跡。
荒々しくも美しいあの断崖絶壁の光景が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。
あの時、持子の心……正確には、彼女の中の魂は、完全に甘い罠に落ちていた。
イギリスのトップモデル、アーサー。
その正体である堕天使アスタロトの、暴力的なまでの美貌と甘い言葉、そして背中合わせの密着に、持子の精神はメロメロにされていたのだ。
魔王としての強固な防壁なんて欠片もなかった。ただの、恋に飢えた可憐な小娘に成り下がっていた。
その心の決定的な隙間を、彼女は決して見逃さなかった。
親友の顔をして近づいてきたシャーロット……大公爵グレモリーが、無防備な持子の背中に細い指先で触れた瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
強制的に引きずり込まれた精神世界。
一面のお花畑のように甘く染まっていた持子の心は、グレモリーが地獄から直接引き連れてきた数千の軍団に、容赦なく蹂躙された。
禍々しい漆黒の鎖で空中に磔にされ、魂の髄まで侵食する地獄の猛毒と業火に焼かれる激痛。
『貴女の極上の肉体と強力な下僕たちは、この大悪魔グレモリーがすべて有効活用して差し上げますわ!』
傲慢に嗤うグレモリーの声が、今も耳の奥で反響している。
魂が引き裂かれるような絶望と苦痛の中で、持子はただ、惨めに泣き叫ぶことしかできなかった。
でも……その持子の悲痛な叫びが、彼を呼んだのだ。
精神世界のさらに奥底、光すら届かない漆黒の深淵から、世界を滅ぼすほどの凄まじい『怒り』と『殺意』が爆発した。
『――誰が、わしの女に触れることを許した?』
響き渡ったその野太い覇者の声と共に、極黒の闇が精神世界を一瞬にして飲み込んだ。
空間を砕き、圧倒的なカオス魔力の暴風を纏って現れたのは、黄金の瞳に絶対的な暴虐を宿した、極東の覇王・董卓。
……もう一人の『魔王の持子』だった。
彼はただ一歩踏み出し、『消えろ、羽虫』と冷酷に一瞥しただけで、数千もの地獄の軍団を塵ひとつ残さず粉砕してしまったのだ。
理不尽なまでの暴力。底知れぬ闇の魔力。
だけど、あの絶体絶命の絶望の中で見たその背中は……信じられないくらい、恐ろしくて、頼もしかった。
「……持子お姉さん、震えていますよ。大丈夫ですか?」
ふわりと、現実の温かい体温が持子を包み込んだ。
ハッとして横を見ると、すぐ傍にいた風間楓が、心配そうに眉を下げて持子を軽く抱きしめてくれていた。
彼女の細くても力強い腕の感触と、どこか安心する匂いが、持子が今、安全な現実の世界にいることを確かに教えてくれる。
「……ごめんね、楓。ちょっと、昔の嫌な夢を見ちゃって」
持子は小さく息を吐き出し、楓の背中にそっと腕を回して、その温もりを確かめるように目を閉じた。
あいつ……董卓は、傲慢で凶暴で、本当にどうしようもないバケモノだ。
でも、あの絶対的な恐怖の中で、悪魔の牙から持子の脆い魂を護ってくれたのは、間違いなくあの暴君だったのだ。
「大丈夫です。私がついていますから。……持子お姉さんに近づく悪い夢なんて、私が全部切り裂いてみせます」
「ふふっ……心強いな、楓ちゃんは」
胸の奥深く、あの時の地獄の業火の幻影が残した鈍い痛みの隣で、ほんの少しだけ、温かい火が灯っているような感覚がした。
持子は心の中で、自分の中に眠るもう一人の『魔王』へとそっと呟き、楓の腕の中で静かに現実の光の中へと意識を戻していった。




