【盤上の勝者と、最悪の箱】
【盤上の勝者と、最悪の箱】
極限まで研ぎ澄まされた高倉竜の殺意が、一直線に六花(影持子)の心臓へと肉薄する。
死の冷たさが肌を粟立たせ、六花は静かに目を閉じた。
(これでいい……わしは、役目を果たしたのだ)
愛する創造主、土御門朔夜の記憶に「六花」という名が永遠に刻まれるなら、この命など安いものだ。
そして、異国の空の下にいる本物の「妹(オリジナル持子)」が、この武神の凶刃から逃れられるのであれば。
「チェックメイトだ、魔王!」
だが、その死の静寂を打ち破るように、後方から響き渡ったのは、米国・国家超常事態対策局『エクリプス』の司令官、ヴィンセント・オーウェンの勝ち誇った声だった。
五十代前半の渋いイケオジである彼は、仕立ての良い高級スーツを一切乱すことなく、盤上のすべてを支配した王のように冷徹な笑みを浮かべていた。
オーウェンにとって、この極東の島国で起きている闘争など、チェス盤の上の児戯に過ぎない。
彼の目的はただ一つ。
交通事故に見せかけて殺害され、地獄へ堕ちてしまった最愛の娘「ルチア」の魂を救い出すこと。
そのために悪魔バエルと契約を交わし、日本に『地獄の門』を開くことだけが、彼の行動原理だった。
「世界は秤だ。どこかを救えば、どこかが沈む。ならば“救える側”を選ぶのが、知性だ」
そのマキアヴェリズムに基づき、彼は日本を悪魔を封じ込める『蠱毒の壺』として冷酷に切り捨てる決断を下していたのだ。
そして今、門を開くための絶対条件である「天(時)、地(場)、人(鍵)」が完璧に揃った。
オーウェンは、事前に持ち込んでいた聖遺物『七星宝刀』の封印を、遠隔操作の術式によってついに解放した。
かつて三国志の時代、董卓を暗殺するための「連環の計」に用いられたこの宝剣。
だが、その内部には、過去に封じ込められた『董卓の魂』、欲望を司る魔王『マーラの意思』、そして地獄を満たすほどの『大量の魔力』が圧縮して封じ込められていた。
六花(魔王)が竜の凶刃によって殺害される絶望、あるいは呪いによって愛に屈し純潔を散らすこと。
その極限の感情の爆発をトリガーとして、宝刀から董卓の魂とマーラの意思、そして膨大な魔力を一気に解放する。
これら複数の要因が完全に重なり合うことで、東京の霊脈は完全に裏返り、強固な現世の理を破壊して『地獄の門』が開く。
そして、大悪魔バエルとその配下の大量の悪魔たちが、完全なる姿でこの現世へと顕現するはずだったのだ。
(さあ、絶望の中で死に絶えろ! その瞬間、この東京の霊脈は裏返り、地獄の門が開く!)
オーウェンの脳内で、勝利のファンファーレが鳴り響く。
だが――。
宝刀の封印が解かれた瞬間、そこから噴出したのは、オーウェンや大悪魔バエルが予期していたような、董卓の魂やマーラの呪わしい魔力ではなかった。
『ギョロロロロロロォォォォォォォォッ!!!』
空間の底が抜け落ちたかのような、鼓膜を破るほどの悍ましい絶叫。
それは、無数の赤子が泣き叫ぶ声を合成し、さらに呪詛で煮詰めたかのような、この世のものとは思えない冒涜的な産声だった。
「な、なんだこれは……ッ!?」
常に知的で紳士的な余裕を崩さなかったオーウェンの顔から、初めて血の気が引いた。
砕け散った七星宝刀の中から、どろりとした漆黒の泥のようなものが溢れ出し、瞬く間に巨大で異形な肉塊へと膨れ上がったのだ。
それこそが、日本が誇る大陰陽師であり、スノーの社長である立花雪が、事前に宝刀の内部へと巧妙に仕込んでおいた『最悪の式神魔物』だった。
オーウェンの企みなど、雪の知略の前ではとっくに看破されていたのだ。
「神造キメラ」である影持子を生み出し、この盤面そのものを支配していたのは、他でもない日本側であった。
「グガァァァァァッ!!」
産声を上げた式神魔物は、眼前にいるはずの六花や、その下僕たちには一切目もくれなかった。魔物のヘイトは、完全に「異国の魔力」へと固定されていたのだ。
異形の怪物は、背後に密集して陣形を組んでいたエクリプス部隊の精鋭たちと、バエルの手先として召喚されていた低級悪魔たちの群れへと、凄まじい速度で襲い掛かった。
強酸性の粘液を撒き散らし、無数の触手で武装した兵士たちを串刺しにし、悪魔の四肢を無造作に引きちぎる。
「ヒィィッ!?」
「撃て! 撃てェッ!! 効かない、化け物だ!!」
統率の取れていたエクリプス部隊が、瞬く間に阿鼻叫喚の地獄絵図へと叩き落とされる。
「今ですわ! 全員、退避ィッ!!」
その大混乱の只中、本多鮎の影の中に潜伏していた吸血鬼の元女王、ルージュ(ヴィクトリア)の凛とした叫び声が戦場に響き渡った。
三百年の長きを生き、高い空間把握能力と索敵魔法を持つ彼女は、この戦場における唯一の常識人として、完璧なタイミングでナビゲートを果たした。
六花が死を覚悟して両腕を広げ、傲岸不遜な魔王として立ち尽くしていたあの場所。
竜の純粋な殺意を真っ向から受け止め、敵の意識をただ一点に集中させたあのポイントは――偶然ではない。
そこは、第二下僕である花園美羽が、風魔裏隠衆の暗殺術と現代兵器の知識を駆使して仕掛けた、巨大な『C4爆薬地帯』のど真ん中だったのだ。
「持子様! 失礼いたしますわ!」
「私の永遠の伴侶! お命、お護りします!」
「我が神っ! さあ、わたくしたちと共に!」
後方に吹き飛ばされていたはずの鮎、エティエンヌ、アスタルテが、限界を超えた速度で地を蹴り、六花のもとへ殺到する。
さらに、別の戦線で待機していた合気武道部の面々も合流し、死を覚悟して目を閉じていた六花を強引に抱え上げ、まるでラグビーボールを運ぶかのように一丸となって出口の方角へと全力で跳躍した。
「起爆ぇぇぇっ!!」
六花たちが爆破の有効範囲から完全に離脱したのと同時。
スレンダーな身体を翻し、暗闇の中で狂気めいた笑みを浮かべた美羽が、手に持っていた起爆スイッチを躊躇なく押し込んだ。
ズドドドドドォォォォンッ!!!
地下霊脈の広大な空間が、爆発の閃光によって真昼のように白く染まった。
美羽が念入りに計算し尽くした連鎖爆発は、単なる殺傷目的ではない。
ダンジョンの構造そのものを破壊するための、完璧な指向性を持った発破作業だった。
轟音と共に分厚い岩壁が次々と吹き飛び、数十トンもの巨大な瓦礫の雨が降り注ぐ。
「……っ!?」
あまりにも想定外の大爆発と、背後に出現した最悪の魔物の放つ瘴気に、さしもの高倉竜も大きく体勢を崩した。
極限まで練り上げられていた武神の『気』が乱れ、六花の心臓を正確無比に貫くはずだった愛槍の軌道が、ほんの数ミリ、大きく逸れたのだ。
その数ミリのズレが、六花の命を拾い上げた。
槍の切っ先は虚空を切り裂き、その直後、竜の足元すらも爆発の衝撃で大きく陥没していく。
『――ア、アアアアァァァァァァァッッッ!!!』
その瞬間。
ひび割れ、崩壊していく空間の奥底から、鼓膜を引き裂くような、この世の終わりのような悲痛な絶叫が響き渡った。
それは、この盤面を裏から操り、現世への完全顕現を確信していた大悪魔バエルの、絶望に満ちた嘆きだった。
六花の殺害失敗。
解放されるはずだった董卓の魂とマーラの意思の不在。
そして、地獄の門を開くための膨大な魔力の、最悪の式神魔物による簒奪。
幾重にも張り巡らされた地獄の門を開くための複数の要因は、ここにおいて完全に、そして無惨に粉砕されたのだ。
『我ガ……我ガ悲願ガァァァァッ!! キサマラ、人間ゴトキガァァァァッ!!』
血を吐くような断末魔めいたバエルの叫びは、虚空の彼方へと吸い込まれるように消え去っていく。
悪魔はすでに、この完全に破綻した盤面から強制的に手を引かざるを得なくなっていた。
「て、撤収だ! 退路を確保しろ!」
降り注ぐ瓦礫と、悲鳴を上げて殺されていく部下たちの惨状を前に、ついにオーウェンの仮面が剥がれ落ちた。
彼は顔を歪ませ、必死に退却を命じる。
しかし、すでに唯一の脱出ルートは、美羽の仕掛けた爆薬によって完全に崩落し、何重もの巨大な岩盤によって塞がれていた。
「ダメです司令官! 出口が完全に塞がれました!」
「通信も妨害されています!」
周囲は完全に、最悪の式神魔物と、エクリプスの兵士たちが入り乱れて殺し合う、文字通りの『蠱毒の壺』と化していた。
オーウェンが日本をそうしようと企んでいた呪いの壺に、彼自身が閉じ込められてしまったのだ。
「そんな……馬鹿な……。私の、ルチアを救うための完璧な盤面が……っ」
膝から崩れ落ちそうになるオーウェン。
彼が頼みとしていた悪魔バエルからの介入も、もはや完全に途絶えていた。
一方、凄まじい爆風に背中を叩かれながら、仲間たちに抱えられて撤収していく六花は、唖然として自身の身体を見下ろした。
(……わし、生きてる?)
心臓を貫かれる直前だった。
死の恐怖で小鹿のように震え上がり、大好きな朔夜に泣きつきそうになっていた自分の身体には、かすり傷ひとつついていない。
限界まで張り詰めていた虚勢の糸がプツンと切れ、年相応の少女のような戸惑いが胸を満たす。
「当然ですわ! わたくしたちが、持子様を死なせるわけがありませんのよ!」
「そうですぅ! 持子様は、私の可愛い所有物なんですからっ!」
鮎や美羽たちが、煤だらけの顔で嬉しそうに笑っている。
彼女たちは最初から、六花が「偽物のダミー」であることを完璧に見抜いていた。
それでも、彼女の必死な思いを認め、本物の魔王を護るのと同じだけの熱量で、命懸けで六花という一人の仲間を救い出したのだ。
六花はそっと振り返った。
崩落していく瓦礫と、舞い上がる土煙の向こう側。
完全に閉じられようとしている地獄の底で、竜の姿が見えた。
(竜……っ)
彼は、六花を追うことを諦めていた。
SSSクラスの戦闘力を持つ彼ならば、瓦礫の雨を掻い潜り、六花たちに追いつくことも不可能ではなかったはずだ。
しかし、彼はそれを選ばなかった。
愛槍を構え直し、無骨で精悍な顔立ちに悲壮な決意を滲ませながら、彼は式神魔物に蹂躙されるエクリプスの部下たちの前へと立ちはだかっていたのだ。
「……退けェッ!!」
武神の咆哮が響く。
彼は不器用で、真っ直ぐすぎる男だった。
たとえ相手が魔王であれ、護るべきものを護るという信念だけは決して曲げない。
今、彼の目の前で死にかけているのは、自分を慕い、共に戦ってきた部下たちだ。
彼らを見捨ててまで、己の愛や因縁を優先できるような男ではなかったのだ。
その広く、傷だらけの背中が、瓦礫の向こう側へと消えていく。
(……ありがとう、竜。お前のその不器用な優しさに、オリジナルは救われていたのだな)
六花は心の中で、静かにその武神へと別れを告げた。
大陰陽師・立花雪の冷徹なまでに残酷な罠。
美羽の緻密に計算された爆薬の仕掛け。
そして、六花の死を覚悟した決死の誘導とヘイト集め。
すべてが完璧に噛み合ったこの瞬間、盤上の勝者気取りだったオーウェンとエクリプスの計画は根底から完全に粉砕され、自らが開いた地獄の底へと、絶望と共に沈んでいったのである。




