【地底の坩堝、そして深淵の防衛線】
【地底の坩堝、そして深淵の防衛線】
東京ダンジョンへの突入から、すでに七十二時間が経過していた。
永遠にも等しい3日目。
太陽の光などとうの昔に忘れ去られた地下の最奥、通称『深層』。
かつては人類未踏の領域とされていたその場所は今、ひび割れた岩肌と脈打つような紫色の瘴気に覆われ、濃密な血と硝煙、そして硫黄の悪臭が入り混じる地獄の入り口と化していた。
「地獄の門」へと続く、巨大なドーム状の薄暗い大空洞。
見上げるほど高い天井からは巨大な鍾乳石が牙のように垂れ下がり、足元には名も知れぬ魔獣たちの骸が累々と転がっている。
しかし、今の彼らに周囲の凄惨な景色に気を留める余裕など一ミクロンも存在しなかった。
なぜならこの大空洞は今、人類の命運と個人の執念、そして異界の悪意が複雑に絡み合う、四つ巴の激戦が巻き起こる混沌の坩堝と化していたからだ。
耳を劈く銃撃音、空間を歪める魔力の爆発音、そして肉を裂き骨を砕く鈍い音が、休むことなく反響し続けている。
その広大な戦場の右翼において、ひとつの狂気にも似た叫び声が、銃撃の嵐を切り裂いて響き渡った。
「死ね死ね死ねぇっ! 私と持子様の間を邪魔するなァッ!!」
血走った瞳を限界まで見開き、喉から血が滲むほどの絶叫を上げるのは、花園美羽だった。
彼女の華奢な身体の周囲を、文字通り雨あられのような銃弾が掠め飛んでいく。
岩の破片が散弾のように頬を切り裂き、一筋の血が流れるが、彼女は瞬き一つしない。
ただただ、その眼光は前方に展開する漆黒の部隊へと向けられていた。
「まったく……エクリプスの精鋭部隊、なんてしぶとさですの!」
美羽と背中合わせで戦うのは、優雅な真紅のゴシックドレスに身を包んだ吸血鬼の元女王、ルージュだ。
彼女は忌々しげに舌打ちをしながら、迫り来る銃弾の壁を自身の魔力で編み上げた防壁で弾き返していた。
二人の前に立ちはだかるのは、アメリカ国家超常事態対策局『エクリプス』の重武装エリート部隊。
彼らは遠距離からの濃密な銃撃網で美羽たちの動きを制限しつつ、特殊な呪符が刻まれた手榴弾を次々と投擲してきた。
鼓膜を破壊せんばかりの爆音と共に炸裂したのは、強烈な閃光と同時に魔力的な波長を狂わせる「閃光弾」、そして視界だけでなく術者の霊覚や魔力感知能力をも同時に塞ぐ「魔術抵抗煙幕」である。
白く濁った高濃度の煙幕が、あっという間に右翼の空間を覆い尽くした。
「……小賢しい目眩ましですわね。ですが、わたくしの目は誤魔化せませんわよ」
ルージュの紅い瞳が、怪しい光を放ち始める。
彼女の固有能力である索敵魔法(魔眼)と、数世紀の戦闘経験で培われた空間把握能力の前には、いかなる最新鋭の煙幕も通用しなかった。
『美羽! 右斜め前方、煙幕の奥から重装甲が三名! 左の死角からも回り込んできますわ!』
『了解ですっ! ルージュは左の三人をお願い! 私は右を潰します!』
脳内に響くルージュの冷徹な指示に対し、美羽は狂戦士のような笑みを浮かべたまま鋭い念話を飛ばし返した。
美羽は躊躇うことなく、弾を撃ち尽くしたアサルトライフルをその場に放り捨てた。
金属が岩肌にぶつかる音が響くより早く、彼女の身体がブレる。
風間楓直伝の気配を絶つ絶技、『無足の歩法』。
一瞬にして煙幕を切り裂き、重装甲兵の懐へと潜り込んだ美羽の両手には、すでに二振りの刃が握られていた。
「持子様に近づく虫ケラは……細切れにしてやるッ!!」
神速の二刀流が、暗闇の中で七色の残軌を描いて閃く。
残酷なまでに正確に装甲の隙間へと吸い込まれ、血飛沫とともに重装甲の巨体が崩れ落ちた。
「わたくしもやりますわよ!」
ルージュもまた、指先から滴る鮮血を無数の『血の茨』へと変え、左から回り込んできた兵士たちの魔術兵装を次々と絡め取り、叩き落としていく。
二人の連携は阿吽の呼吸。完璧な攻防一体の陣形を敷いていた。
だが、それでもエクリプスの精鋭の波は途切れることなく、息詰まる攻防が延々と続いていた。
一方、純粋な「暴力」と「物理法則の破綻」が支配しているのが左翼の戦線だった。
ここを死守しているのは、『合気武道部』の面々である。
「合気武道部、全員陣形を崩すな! 千手先輩、森先輩、門! 正面から来る剛腕悪魔の突進を受け流してください! 南原は死角のカバーと敵の軌道計算を!」
「南原、了解です! 物理法則の破綻した動きは私がすでに計算済みです!」
一年生部員の佐藤陽翔が的確な指示を飛ばし、南原紗良がホログラムの術式で悪魔たちの軌道を瞬時に予測する。
彼らの前方に立ち塞がるのは、大悪魔バエルによって召喚されたソロモン王の悪魔三体と、配下の低級悪魔の群れだ。
身長五メートルを超える剛腕悪魔が、ダンプカーなど比較にならない質量と速度で突進してくる。
だが、合気武道部の盾となる三人は、その絶望的な暴力に対し一歩も退かなかった。
「行くぞ、三年生の意地を見せろ、千手!」
「言われなくても分かってるわよ、盛夫! 門くん、遅れんじゃないわよ!」
「ッス! 先輩方の背中、しっかり付いて行きます!」
森、千手、そして門。
強固な前衛陣は、迫り来る剛腕に対し流れるような動きで半身になり、合気武道の極意である『力の受け流し』を放った。
悪魔の拳は空を切り、自らの勢い余って地面へと激突する。
そして、体勢を崩した悪魔たちに、死神の追撃が襲い掛かる。
「阿部さん、私たちの番だよッ!」
「ええ、玲央ちゃん。確実に討ち取る……!」
高橋玲央と阿部凛花の二人が、漆黒の魔力を立ち昇らせながら前線へと躍り出た。
高橋の華奢な体が回転した瞬間、悪魔の巨体が宙に浮き上がり、脳天から岩盤へと情け容赦なく叩きつけられる。
完全なる『投げ殺し』。
さらに真横では、凛花の黒い魔力を纏った鋭い『縦拳』が、悪魔の強靭な胸部を軽々と貫通し絶命させた。
「――不浄なる者よ、塵と化しなさい。滅!」
後方に控える聖女、葉室鶴子の極大な『光の神術』が戦場を薙ぎ払い、低級悪魔たちをサラサラの灰へと変えていく。
三年生と一年生が見事に連携した合気武道部の鉄壁にして苛烈な暴力が、この左翼の戦線を完全に押し上げていた。
前線で死闘を繰り広げる面々を後方陣地から支えていたのは、傲岸不遜な「魔王の仮面」を被った影持子(六花)であった。
彼女の足元からは漆黒の闇が泉のように湧き出し、そこから無数の『闇の手』が亡者のように伸びる。
闇の手はエクリプス兵士の足首を掴んで体勢を崩させ、跳躍しようとした悪魔を地面へと引き摺り下ろす。
彼女は戦場全体を俯瞰し、完璧なサポートに徹していた。
彼らの血を吐くような努力と完璧な連携により、この大空洞における包囲網はなんとか持ち堪えているように見えた。
――しかし。
右翼の銃火も、左翼の神術と武の極致も、後方の闇も。
それらすべてが霞んでしまうほどの圧倒的な異常事態が、突突として戦場の中心で起きた。
ズズズズズズ……ッ!
大空洞全体が、まるで巨大な生物の胃袋の中にいるかのように激しく振動し始める。
光と闇が渦を巻き、空間そのものが悲鳴を上げてひび割れた。
「そこをどけェッ!!」
大空洞の入り口から、重装甲のエクリプス部隊を掻き分けるようにして、空気を切り裂くような凄まじい気迫と共に「一人の男」が飛び出してきた。
米国プロメテウス財団のエージェントであり、SSSクラスの戦闘力を持つ武神――高倉竜だ。
彼の手には、身の丈を優に超える長大な愛槍が握られている。
六花は先程から続く恐怖を押し殺しながら魔王の仮面を被り続けていた。
竜の悲痛なる咆哮が大空洞に響き渡る。
それを合図とするかのように、中央の戦線は戦術や連携といった次元を遥かに超越した、絶望的な質量の暴力が激突する混沌の渦へと呑み込まれていったのである。




