【認知と欺瞞の狂宴――大陰陽師の絶対盤面】
六花編
【認知と欺瞞の狂宴――大陰陽師の絶対盤面】
深夜の東京。
本来ならばネオンが静かに瞬くはずの帝都の夜は、悍ましい異変に包まれていた。
「雪社長! 新宿駅周辺にて集団幻覚を伴う霊障が発生! さらに浅草の雷門付近で低級悪魔の群れが出現、お台場でも特級の怨霊反応が確認されましたわぁっ!」
芸能事務所『スノー』本社、社長室。
薄暗い室内を明々と照らす巨大なメインモニターの前で、プラチナブロンドの髪を振り乱しながら、元大悪魔にして現在のスノー最下層奴隷・シャーロットが悲鳴を上げていた。
彼女の紫の瞳は恐怖で涙ぐみ、キーボードを叩く指先はカタカタと震えている。
「警察の特殊呪歌対策課、および自衛隊の『極暑』が展開を開始! TIAの各クランも迎撃に向かっていますわ! ど、どうしましょう、東京が火の海ですわぁっ!」
パニックに陥るシャーロットの背後。
高級な革張りのソファに深く腰掛けるスノーの社長、立花雪は、大理石のデスクに置かれたアールグレイのティーカップを優雅な手つきで持ち上げた。
ネイビーのパンツスーツを完璧に着こなす彼女の表情には、焦りも苛立ちも見当たらない。
「うるさいわね、シャーロット。少し静かにしなさい」
雪が冷たく一瞥しただけで、シャーロットは即座に完璧な土下座の姿勢へと移行した。
「雪社長。各組織が対応に追われていますが、敵の狙いが散漫すぎます。これは明らかな陽動ですね」
雪の傍らに立つ天才陰陽師、土御門朔夜が、手元のタブレットをスワイプしながら静かに報告した。
銀髪の儚げな美少年という外見に反し、彼の眼差しは極めて鋭い。
雪は紅茶を一口啜り、モニターに映し出される阿鼻叫喚の東京の夜景を、酷薄な眼差しで見下ろした。
「ええ。東京全域が少しばかり燃えた程度で、私が出る理由にはならないわ。本命が来るまで、一切動く必要はない」
彼女は正義の味方ではない。
持子という一人の少女を護るためだけに暗躍する怪物。持子の平穏を脅かさない限り、他で何人が血を流そうが、雪の心を動かすには至らないのだ。
* * *
一方、六本木の地下深くに構築された米国・国家超常事態対策局『エクリプス』極秘指揮所。
ブルーの照明に照らされた司令官席で、ヴィンセント・オーウェンはクリスタルグラスの赤ワインを揺らしながら、薄く笑っていた。
「やはり、彼女が執着するのは恋問持子のみ、か」
手元のコンソールには、広域霊圧ログと数百の式神の反応分布図がリアルタイムで表示されている。
東京が火の海になっても、スノー本社に一切の動きがない。それは彼の予測通りであり、かつ極めて論理的な結論だった。
「彼女は合理的だ。盤面全体を護ろうとする愚か者ではない。……だが、どれほど冷徹な怪物であろうと、感情の逆鱗が存在する以上、必ず誘導できる」
オーウェンはチェス盤の駒を進めるような冷酷な目で、次なる悪辣な一手を弾き出す。
ターゲットが動かないのなら、動かざるを得ない場所を突く。
盤面を支配する司令官として、彼は最も論理的で残酷な座標を口にした。
「ターゲットを変更する。……座標、私立聖ミカエル学園周辺」
* * *
「雪社長! 次の座標は……ターゲットの通っていた高校周辺ですの!?」
スノー本社の社長室。
悲鳴を上げたシャーロットの操作で、メインモニターの映像が切り替わる。
映し出されたのは、持子が合気武道部の仲間たちと汗を流し、バカ騒ぎを繰り広げていた『聖ミカエル学園』周辺の映像だった。
アスファルトを突き破って地獄の瘴気が噴出し、持子の思い出の場所である学び舎を、悍ましい百鬼夜行の群れが黒く汚染していく。
パキッ。
静寂に包まれた社長室で、微かな、しかし恐ろしい音が響いた。
雪が握っていた高級なティーカップに、ヒビが入った音だった。
「……雪先生」
朔夜が息を呑む。
先ほどまで東京が火の海になっても動じなかった雪の瞳が、今はっきりと揺れていた。
「……私の自慢のモデルの、大切な思い出の場所を。あの子の青春の聖域を、泥靴で踏みにじるなんて……いい度胸ね」
雪の声は氷のように冷たかったが、その奥にはマグマのような殺意が煮えたぎっていた。
持子が仲間たちと笑い合った場所を汚すことだけは、大陰陽師の逆鱗に触れる最悪の愚行だった。
「……朔夜。行きなさい。一匹残らず、塵一つ残さず、消し飛ばしてきなさい」
「はいっ! 喜んで副マネージャーとして粉骨砕身させていただきます!!」
朔夜は即座に直角のお辞儀をキメ、黒いコートを翻して社長室を飛び出した。
敵の悪辣な挑発に乗り、スノーの最強の防衛力の一つである天才陰陽師が、ついに本社から剥がされたのだ。
その様子を背後で見ていたシャーロットは、自らの能力である『過去・現在・未来の透視』を極限まで引き絞った。
紫の瞳に、無数の事象と可能性の糸が流れ込む。
(……視えますわ! 朔夜が離れた今、手薄になった本社の防衛に不安を抱いた雪社長は、地下に安置された本物の『七星宝刀』を、急遽別の拠点へ移送するつもりですの!)
シャーロットはガタガタと震えながら、脳内で暗号化念話を構築し、オーウェンへと通信を飛ばす。
『オ、オーウェン司令官……! 未来が、視えましたわ! スノーは宝刀を移送します!』
『……ご苦労だったな、シャーロット。君の透視能力は、実に役に立つ』
通信が切れる。
エクリプス極秘指揮所で、オーウェンは勝利を確信したように薄く笑った。
「やはりな。無敵の怪物も、娘の聖域を侵されれば激怒し、戦力を分散させる。防衛の要を失い、焦って外へ出す。……合理的な彼女が、怒りというノイズのせいで致命的な凡策に走った」
オーウェンの推論は、シャーロットの未来視という確固たる裏付けを得て、完璧な論理のピースとして組み上がった。
* * *
深夜の首都高速都心環状線。
呪符の刻まれた分厚い特殊合金で覆われた三台の霊的装甲車が、猛スピードで疾走していた。
上空には、青白い燐光を放つ数千羽もの『鴉』――土御門朔夜が使役する防衛用護衛式神の群れが、絶対的な防御陣形を敷きながら旋回している。
中央の指揮車両。
揺れる車内で、朔夜はインカムを押さえながら鋭い指示を飛ばしていた。
「第三陣、結界の出力を落とすな! 悪霊の群れが来るぞ、物理装甲に頼らず霊的防壁で弾き返せ!」
声には切羽詰まった焦燥が滲んでいる。
スノー本社から引き剥がされ、敵の襲撃に怯えながら『七星宝刀』を移送する、悲壮な護衛隊長の姿がそこにあった。
その時だった。
高速道路の上空数百メートル。夜の闇が、まるで巨大な硝子が叩き割られたかのように、パキンッ! と派手な音を立てて砕け散った。
「……チッ、きやがったか!」
朔夜が舌打ちをして天を仰ぐ。
割れた空間の亀裂から、どす黒い瘴気が滝のように降り注ぐ。
オーウェンが国家予算と己の地位すべてを投げ打って強行した、強引な空間跳躍。
そこから現れたのは、悪魔王バエルの命を受けて顕現したソロモン72柱の下位悪魔の軍勢だった。
『グルルルゥゥゥッ!! 喰い破れ! その鋼の殻ごと、鍵を奪い取れ!』
悪魔の暴風が装甲車列へと殺到する。
それと同時に、スノー本社の社長室。
立花雪の目の前にあるメインモニターが激しいノイズと共にジャックされ、オーウェンの姿が映し出された。
彼はワイングラスを手に取り、モニター越しの雪に向かって、勝者の余裕に満ちた顔を向けていた。
『夜分遅くに失礼するよ、大陰陽師殿』
「……オーウェン。何の用かしら」
雪は腕を組み、氷のように冷たい視線で画面越しの男を睨みつけた。
その表情には、自らの「絶対の聖域」を侵され、焦燥に駆られた者特有の抑えきれない怒りが張り付いている。
『簡単なチェスだよ。最強の要塞を攻略する方法は一つだ。――守るべきものを、城の外へ出させることだよ』
オーウェンがそう宣言した瞬間。
画面の端に映し出された高速道路の映像の中で、悪魔の爪が装甲車のルーフを紙切れのように引き剥がした。
「っ……! 結界が、破られ――ッ!」
朔夜の悲痛な叫びと共に、数千の護衛式神が一瞬にして塵と化す。
複数の悪魔たちが群がり、装甲車の中から、幾重もの厳重な封印符が巻かれた『七星宝刀』を掴み取った。
「……っ!!」
モニターの前で、雪はギリッと奥歯を噛み締めるような表情を作り、拳を震わせた。
『チェックメイトだ、立花社長』
オーウェンは、底知れぬ冷酷さと、娘を救うための狂気を孕んだ瞳で微笑んだ。
『君は娘への愛情ゆえに、完璧な合理性を失った。私の盤外戦術の前に、君の怒りはあまりにも隙が大きすぎた。……せいぜい、指をくわえて絶望の幕開けを見ているがいい』
プツッ。
オーウェンの通信が一方的に切断され、高速道路上空の空間の亀裂も、悪魔の軍勢と共に跡形もなく消え去った。
風が吹き抜ける高速道路には、破壊された装甲車と、任務に失敗し膝をつく朔夜の姿だけが残された。
大陰陽師の敗北。
誰もが、エクリプスの完全勝利を確信する、緊迫の強奪劇。
「…………」
数秒の静寂。
スノー本社の社長室。
「あ、ああ……終わりましたわ……七星宝刀が、奪われて……っ!」
絶望に顔を覆い、ガタガタと震えるシャーロットの背後で。
ふっ、と。
立花雪の口元が、三日月の形に釣り上がった。
『……雪先生。聞こえますか。……一応、命令通りには動きましたが……』
インカムから、先ほどまでの悲痛な声とは打って変わった、しかしどこか疲労の滲む朔夜の声が響く。
「ええ、ご苦労様、朔夜」
『……あれが“予定通り”だと言うなら、悪趣味すぎますよ。悪魔どもの猛攻、完全に殺しに来てました。絶妙なタイミングで結界を破られたフリをするなんて、綱渡りにも程がある。一歩間違えれば、俺ごと消し飛んでましたよ』
朔夜は破壊された装甲車の上で立ち上がり、夜風に銀髪を揺らしながら、口元の血を乱暴に拭った。天才陰陽師である彼でさえ、雪の敷いた盤面の上ではギリギリの死闘を強いられていたのだ。
雪は、大理石のデスクの上の冷めた紅茶を、極上の美酒のように優雅に啜った。
彼らが空間を割ってまで奪い去ったあの刀は、本物の七星宝刀ではない。
強大な霊力波長だけを精巧に偽装し、莫大な魔力を吸い上げさせることで内包した『最悪の式神魔物』を羽化させるための、時限式の孵卵器(ダミーの刀)に過ぎない。
奪われた瞬間から、それは彼らにとっての勝利の鍵ではなく、内部崩壊へのカウントダウンでしかなかった。
『……ですが、雪先生。司令官ほどの男が、あのダミーの異常性に気づかなかったと?』
「ええ。彼はあれが本物だと、微塵の疑いもなく確信しているわ」
「バエルの目を欺くための演技ではなく、ですか? あの男が、罠に気付かなかったと?」
「彼は無能だから騙されたんじゃない。優秀すぎるからこそ、私が用意した『完璧な論理』に絡め取られたのよ」
大陰陽師は、決して敵将の知略を貶めることはしなかった。
オーウェンは感情に流される愚か者ではない。だからこそ、奪う前にすべてのデータを極限まで精査したはずだ。
「あのダミーには、本物の七星宝刀から抽出した霊力波長を完全に定着させ、封印術式も数百年前の呪法を寸分違わず再現してあるわ。そして何より、あなたという最高戦力を護衛につけた。……三流なら疑う余地も、超一流の彼にとっては『これが本物であるという完全な証明』になってしまったのよ」
優秀な盤面指揮官は、客観的で完璧なデータを出されれば出されるほど、自らの推論の正しさを信じ込んでしまう。
彼は「完璧に確認した」からこそ、雪の用意した絶対的な欺瞞の底へと沈んだのだ。
『……なるほど。相手の優秀さすらも、盤面の駒として利用したと。……相変わらず、底意地が悪い』
朔夜が、少しだけ戦慄を交えたような声で呟く。
勝敗の条件は「七星宝刀を護り切るか」でも「ダミーを掴ませて出し抜くか」でもなかった。
そもそも、その偽物の刀を奪わせたことすら、二次的な事実にすぎないのだ。
「本物の七星宝刀は、もはや移送すら不要な状態にあるわ。……あちらの準備は、とうに終わっているのだから」
雪の真の狙いは、物理的な宝刀の防衛にはなかった。
防衛成功も、奪取成功も、今の彼らにとっては勝敗の基準にはなり得ない。
「……ただ、予定通り……とはいかないかもしれないわね」
雪は、モニターの端に表示された微細な空間歪曲のログを指で弾いた。
「あの男、ダミーを奪って退却するついでに、ちゃっかり『別の座標の封印核』を一つ、空間の亀裂に巻き込んで持ち去っていったわ。……万が一の事態や、バエルに対抗するための、彼なりの強かな保険でしょうね」
『……つまり、完全な盤面支配とはいかなかったわけですか』
「お互い様、というわけね。盤上の勝者はまだ決まっていないわ」
雪は紅茶のカップを静かに置き、モニターの奥――遥か遠くで進行しているであろう、別の盤面へと視線を向けた。
「それに……ただ一つだけ、まだ動いていない駒がある」
シャーロットが視た未来視の糸の向こう側。
完璧な計算で構築されたはずの盤面に、未だ収束しきれない不確定要素が残されている。
決着したかに見えた知略戦は、まだ誰一人として勝者を生んではいない。
大陰陽師と冷徹なる司令官、そして悪魔の王。
互いが互いの思惑を飲み込み合う巨大なチェス盤の上で、本当の戦いは、今まさに静かな産声を上げたばかりだった。




