【影の魔王、深淵を喰らう】
六花編
【影の魔王、深淵を喰らう】
2日目の東京ダンジョン深層。未知の瘴気が立ち込める「地獄の門」の周辺は、もはや人間が足を踏み入れるべき領域ではなかった。
絶え間なく湧き出す悪魔と巨大な魔物の大群が、地鳴りのような咆哮を上げて陣を構える合気武道部の面々へと迫り来る。
その絶望的な物量を前に、部員たちが陣形を立て直そうと息を呑んだその時だった。
「――持子様。明日の決戦に向けた『仕込み』、すべて完了いたしました」
音もなく、影の中から三つの人影が本隊へと帰還した。
隠密行動に特化した最強の暗殺者・花園美羽。霊体化を解き、グラマラスな姿を現した豊穣の女神アスタルテ。そして、美羽のサポートを終えて優雅にゴシックドレスの裾を払う吸血鬼の元女王ルージュである。
「ご主人様。周囲の悪魔どもは、わたくしの魔法で深い眠りにつかせてから、泥棒猫……いえ、美羽が完璧に爆薬を設置いたしましたわ」
「ええ。アナログな雷管も起爆装置も、すべて死角に隠蔽済みです。明日のエクリプスとの決戦、いつでも最高の花火を打ち上げられますよ、持子様♡」
「全く、人使いの荒いことですわ。ですが、これで舞台は整いましたのよ」
三人の帰還報告を受け、影持子――天才陰陽師・土御門朔夜によって創り出されたキメラの式神『六花』は、満足げに頷き、そしてスッと最前線へ歩み出た。
「大義である、美羽、アスタルテ、ルージュ。……さて、明日の大一番の前に、準備運動といこうではないか。下がっておれ、貴様ら」
生後間もない式神である彼女の胸の内には、常に「偽物であることの焦り」と「役目を終えれば消滅する恐怖」がドロドロと渦巻いている。だが、表向きはあくまで傲岸不遜な「極黒の魔王」としての張り子の虚勢を完璧に保ち、彼女は深く、深く深呼吸をした。
「フハハハ! 良い覚悟だ! 貴様らごときが、この天下の魔王を満足させられるとでも思っておるのか!」
『ゴォォォォォォォォォォォォォッ!!』
その瞬間、影持子の体から圧倒的な『極黒の魔力』が爆発的に膨れ上がった。
彼女の脳内に、空間認識の魔術が展開される。ダンジョンの入り組んだ地形、魔物の一匹一匹の配置、脈打つ心臓の鼓動、重心の傾き、そして魔力の流れに至るまで、戦場のすべてが彼女の掌の上で完璧に、残酷なほどクリアに理解できた。
影持子の狙いは、単なる目の前の敵の殲滅だけではなかった。空間認識によってダンジョン全体の構造を把握した彼女は、あえて魔物たちの退路を塞ぐように、かつ特定の方向へ逃げ道を残すように黒い霧の手を配置していく。
圧倒的な恐怖と死の重圧を与え、パニックに陥った悪魔や魔物たちを、明日決戦の舞台となるさらに深層の『地獄の門』付近へと意図的に追い込み、誘導していくのだ。美羽たちが先ほど仕掛けた爆薬の密集地帯へと手駒を押し込み、明日のエクリプスや高倉竜との戦局を盤面ごと支配・攪乱するための、極めて冷徹な魔王の采配であった。
「……消え失せよ」
逃げ遅れた者、そして影持子に牙を剥く愚かな者たちの足元に広がる濃密な影から、どす黒い霧で形作られた無数の『巨大な手』が放射状に伸びた。
それは、ただの物理的な質量攻撃ではない。空間認識によって完全にロックオンされた全ての敵に向かって、一切の無駄なく、まるで明確な殺意と意思を持つ蛇のように正確に殺到する。
「ギ、ギャァァァァッ!?」
「ゴァァァ……ッ!!」
『メキメキメキッ!』
『グチャァァァァァッ!!』
魔物の群れが黒い手に掴まれた瞬間、ダンジョンに響き渡ったのは、凄惨で生々しい『咀嚼音』だった。
極黒の魔力は、悪魔の鋼鉄よりも硬い鱗や装甲を濡れた紙切れのように引き裂き、その肉と骨を無慈悲に握り潰す。断末魔の悲鳴すら途中でへし折られ、黒い霧は魔物たちの絶望、恐怖、そして命の源たる魔力そのものを、ズルズルと音を立てて啜り上げた。
視界を覆い尽くすほどの魔物の大群が、まるで目に見えない巨大な怪物に丸呑みされるかのように、一瞬にして文字通り『喰い尽くされて』いく。
「――っ、あ……あぁ……!」
影持子の体が、ビクリと大きく震えた。
数え切れないほどの悪魔から搾取した莫大な魔力が、濁流となって彼女の擬似的な魔力回路へと流れ込んでくるのだ。
(あ、あぁ……ッ、あつ、い……! 体が、焼けるように熱い……ッ!)
それは、強烈な『魔力酔い』だった。
致死量の純粋な暴力とエネルギーが体内を駆け巡り、影持子の自我を大きく揺さぶる。今まで常に感じていた、自分がいつか消えてしまう式神だという不安感や、自分がただの偽物であるという恐れが、その暴力的で純度の高いエネルギーに強引に押し流されていく。
代わりに満ちてきたのは、背筋が凍るほどの『高揚感』と、自分が世界の頂点に立つ絶対的な存在なのだという、甘く危険な『全能感』だった。
(力が、あふれてくる……! これが、魔王の力……! わしは、やれる。わしはただの式神ではない、わしは……魔王だ……!)
ズズズズズ……と、影持子の周囲の空間が、彼女から溢れ出す濃密な魔力によって歪んでいく。
『シーン…………』
先程まで怒号と咆哮が飛び交っていたダンジョンの深層に、耳鳴りがするほどの静寂が落ちた。
合気武道部の面々は、誰一人として言葉を発することができなかった。ただ、己の膝がガクガクと震え、全身から冷や汗が滝のように噴き出していることだけを自覚していた。
「な……なん、だ……あれは……」
いつもはどんな絶望的な戦況でも広い視野を保つ遊撃手の佐藤陽翔が、元野球部のピッチャーとしての冷静な指揮官の顔を完全に喪失し、顔面を蒼白にしていた。
「持子先輩……? いや、本当に、あれは……俺たちの知ってる持子先輩なのか……?」
「ははっ……嘘でしょ。あの数の一群を、一瞬で……!」
主将の千手美貴は、体脂肪率5%以下のバキバキの肉体を硬直させながらも、戦闘狂としての本能が警鐘を鳴らし続けていた。
「規格外だとは思ってたけど……違う、あれは武術とか、そういう次元じゃない。完全に、人外の化け物だよ……!」
「……ああ。俺たちの出番など、最初からなかったということか」
寡黙でストイックな森盛夫が鋭い手刀を下ろし、呆然と呟く。
硬派で無口な門蒼真も、「……凄まじい気迫だ。いや、気迫というより……あれは、純粋な『死』そのものだ」と息を呑み、丸太のような太い腕を震わせた。
「完璧な蹂躙ですわ……。全く無駄のない、圧倒的な暴力の美学……!」
高橋玲央が眼鏡の奥の瞳を戦慄に揺らしながらもその完璧な型に圧倒され、冷静な頭脳派である南原紗良は、「物理法則も質量保存の法則も完全に無視しています……! あんなデタラメな出力、私の計算式では絶対に弾き出せません。……ですが、味方で本当に良かった」と極寒のツンデレを忘れてへたり込んだ。
阿部凛花に至っては、「ああっ! 凄いです、神の御業ですっ! 持子先輩のあのおぞましい手で、私もぐちゃぐちゃにされたいですぅぅっ!」と長身をくねらせて頬を染め、変態的な歓喜に身悶えしていた。
部員たちが本物の畏怖と恐怖に支配される中、すぐ後ろに控えていた直属の『下僕』たち――本多鮎、花園美羽、エティエンヌ、アスタルテ、そしてルージュは、震える瞳で影持子の背中を見つめていた。
彼女たちは、目の前にいるのが本物の持子ではなく、土御門朔夜が創り出したキメラのダミーであることを知っている。だが、今しがた見せた空間認識と魔力の超精密な同時操作、一部の敵を的確に追い込み残りを蹂躙する底なしの捕食能力は、彼女たちの想像をはるかに超えていた。
(この子……魔力の精密なコントロールと、広域殲滅の純粋な戦闘力においては……もしかして、本物の持子様と同等か、それ以上かもしれませんわ……!)
早大生としてのインテリ頭脳を持つ鮎が戦慄する。
(圧倒的な魔力量……これなら、わたくしのバフ魔法すら不要かもしれませんわ……)
元大悪魔であるアスタルテもその神威に息を呑む。
美羽やエティエンヌ、そしてルージュもまた、圧倒的な力を見せつけた偽りの主に対して深い畏怖と、抗いがたい魅力を感じていた。
「あぁっ、持子様っ! 素晴らしい蹂躙ですわ!」
鮎が耐えきれず、狂信者のトーンで影持子にすり寄る。
「どうか、その極上の魔力を! いつものように、この忠犬を理不尽に踏みつけて、たっぷりと注ぎ込んでくださいませ!」
「私にも! 私の奥深くまで、あなたのその熱い闇でめちゃくちゃに作り替えてくださいっ!」
エティエンヌも絶世の金髪美女へと女体化した巨乳を揺らしながら、恍惚とした表情で懇願する。
「ずるいですぅ! 私にも、持子様のドSな魔力をぉぉっ!」
「我が神……っ、わたくしも、わたくしも満たしてくださぁいっ!」
美羽とアスタルテも、顔を真っ赤にして影持子に群がった。
普段の影持子であれば、極度の敏感体質ゆえに彼女たちから「魔力回路の構築」という名目で過激なスキンシップやエロティックな蹂躙を受け、冷や汗をかき、キャパオーバーで甘い悲鳴を上げながら強要されるがままに魔力を渡していた。
しかし、今の彼女は違った。莫大な魔力を喰らい、魔力酔いによる万能感に包まれている影持子には、もうその必要はなかったのだ。
「――ふん。欲しがりな犬どもめ。良かろう」
影持子は傲然と微笑むと、持子直属の四人の下僕に向かって、ただ静かに両腕を広げた。
「え……?」
「持子様……?」
戸惑う鮎、美羽、エティエンヌ、アスタルテ。影持子はそのまま、四人をまとめて自らの腕の中へと引き寄せ、深く、力強く、そして優しく『ハグ』をした。
「っ……!?」
『ドクンッ!!』
肌が触れ合った瞬間、エロティックな儀式など一切介さずとも、影持子の体内から溢れんばかりの純度の高い魔力が、ハグという極めて純粋な行為だけで四人の魔力回路へと爆発的に流れ込んだ。
それは、偽物でありながらも、紛れもない『王の慈愛』だった。
「あ、あぁぁっ……持子、様ぁ……っ」
「なんて、温かくて……圧倒的な……っ」
「あぁんっ、体の中が、熱い魔力で……っ」
「神様ぁ……っ、好きぃ……っ」
あまりにもスムーズで、極上の快感を伴う魔力の譲渡に、四人は毒気を抜かれたように蕩けた声を漏らし、影持子の腕の中でビクビクと体を震わせる。
一方、鮎の使い魔であるルージュはハグの輪には加わらなかったものの、マスターである鮎の影を通じて、彼女経由でその莫大で極上な魔力をたっぷりと摂取し、「ああっ……最高級のヴィンテージワインのようですわ……」と陶酔のため息を漏らしていた。
だがその時、影持子は腕の中にいる四人の耳元に顔を寄せ、周囲の部員たちに絶対に聞こえないほどの『小声』で、必死に囁いた。
「……よいか、よく聞け。ここには合気武道部の部員たち、わしの同志たちがいるのだ。あやつらは、まだ純真な学生たちなのだぞ! その学生たちの前で、キスとかエッチなこととか見せるのは絶対にダメなのだ!」
その年相応の、必死で常識的な囁きに、鮎、美羽、エティエンヌ、アスタルテの四人は肩をビクンと揺らした。
不満がないと言ったら嘘になる。もっと激しく、淫靡に蹂してほしかったのが本音だ。しかし、昨晩、常識人枠であるルージュや、スノーの絶対的社長である立花雪から送られてきた「説教動画」で散々分からされていた彼女たちは、しぶしぶコクリと頷いた。
「よろしい」
影持子は魔王の威厳を取り戻し、満足げに笑うと、ポンポンと優しく四人の頭を撫でた。
「よく励んだな。明日も頼むぞ」
その無邪気で、どこか誇らしげな、まるで妹が背伸びをして姉たちを労っているかのような柔らかい笑顔。
それを見た瞬間、鮎、美羽、エティエンヌ、アスタルテ、そして少し離れた影から見ていたルージュの五人の胸が、不覚にも『トクン』と大きく鳴った。
(……あれ?)
(なんだか……)
(すごく……)
(……可愛い、かも……?)
本物の傲岸不遜な魔王・持子にはない、どこか庇護欲をそそる愛らしい魅力。強がっているけれど、その奥にある純粋な優しさ。
五人は思わず顔を見合わせ、自分たちが「強引に攻め落とせる最高の玩具」として扱っていた偽物の少女に対し、柄にもなく顔を真っ赤にしてときめいてしまっていた。




