【聖都の誤審 〜神は悪魔を見抜けなかった〜
【聖都の誤審 〜神は悪魔を見抜けなかった〜】
「なまら最高……っ! 楓ちゃん、見て、この景色! まさに『世界の中心』という感じだねっ!」
恋問持子は、サン・ピエトロ広場の真ん中で自撮り棒を掲げ、思いっきりピースサインを作った。
今日の持子は、雪のプロデュースによる「潜入用ギャル変装」をしている。黒髪ロングのツインテールに、普段の持子であれば決して身につけないような身体に密着したミニスカートと網タイツ、そしてレザージャケット。自分でも「これでは盛りすぎではないだろうか」と顔が赤くなるほど派手な服装であったが、イタリアの眩しい太陽の下では、不思議とこの程度の服装が調和しているように感じられた。
一方で、隣を歩く楓は極めて際立っていた。
大きなサングラス、隙のない高級ブランド品。かつての『魔王持子』を完璧に再現したその姿で楓が石畳を歩くたび、賑やかであった観光客の波が、まるでモーゼの十戒のように左右へと分かれていくのである。
特別な行動をしているわけではないにもかかわらず、そこに立っているだけで周囲を圧倒するような気高い覇気が漂っていた。
「持子お姉さん、あまりはしゃぎすぎて転倒しないでくださいね。……この場所は、少し石畳の凹凸が激しいですから」
楓はサングラスを少しだけ下げて、いつもの柔らかな微笑みを持子に向けた。けれど、その背筋は微塵も揺るがず、周囲への警戒を片時も解いていない。持子はそんな楓の頼もしさに甘えきって、再びスマートフォンの画面に夢中になった。
――だが、能天気な持子は全く気づいていなかった。
持子がこの広場に足を踏み入れた瞬間から。
大聖堂の頂で、数百年休むことなく時を刻んできた鐘が、不規則なリズムで低く鳴り始めたことに。
広場を埋め尽くしていた無数の白鳩が、何かに怯えるように一斉に空へ逃げ去ったことに。
そして、ヴァチカンの地下深く、封印庫に眠る無数の聖遺物たちが、かつてない異常な共鳴音を立てて軋んでいることに。
聖都そのものが、持子という『神話のバグ』の到来に震え上がっていたのである。
* * *
ヴァチカン内部、異端審問局・特別監視室。
そこは、静謐な聖都の裏側に隠された、冷徹な電脳の要塞であった。
『警告。エリアBにて特A級指定存在の生体反応を感知』
『照合率……九十九・九五パーセント……九十九・九六パーセント……一致率、なおも上昇中』
無機質な機械音声が雑音混じりに響き渡り、室内の照明が警告の赤色に染まる。
オペレーターが端末を閉じようとしても、無数の赤い警告画面が勝手に増殖し、メインモニターの中央を歩く「ギャル姿の少女(持子)」を執拗に追跡し続けていた。
「人工知能の神託は絶対だ! 対象は【愛欲の女神M】と完全に一致している! 即刻、全聖堂騎士を出撃させ、神の御名においてあの魔女を処刑せよ!!」
怒号を上げたのは、歴戦の聖堂騎士団長、レオンであった。彼の目は血走り、システムが弾き出す数字だけを絶対の真理として見つめている。
「お待ちください、レオン団長……!」
その横で、震える手で十字を切っていたのは、霊的な感知能力に秀でた修道女のクララであった。彼女の目からは、とめどなく大粒の涙が溢れ落ちている。
「あの子に……あの少女に、剣を向けてはなりません……! 理由は分かりません、ですが私の魂が叫んでいるのです。あの子を敵に回せば、世界が終わってしまうと……!」
「黙れ修道女! 貴様は本当の地獄を知らないから、そのような甘いことが言えるのだ!」
レオンの怒声には、単なる狂信だけではない、血を吐くような悲痛な響きがあった。
かつて、彼は大規模な悪魔災害の最前線にいた。その時、現れた悪魔は「無力で可憐な少女」の姿をしていた。哀れな姿に騎士団が“迷い”、慈悲という名の“善意”を見せたその判断を保留した一瞬の躊躇いが――彼の部下たちと、何千という無辜の民の命を無残に散らしたのである。
「悪魔は常に我々の『良心』と『迷い』に寄生する! あの時、私が迷わなければ……ッ! 私は惨劇の灰の中で神に誓ったのだ、二度と迷わんと!」
レオンは腰の剣の柄を強く握りしめ、血を流すような声で叫んだ。
「疑わしきは殺せ! たとえそれが無実の少女であろうと、システムが黒と告げるなら斬る! 万の命を救うため、一人の無実の血を浴びるというのなら、私は喜んで地獄へ落ちてやる! それが、血塗られた剣を握る者の正義だ!」
「――よさぬか、レオン。気負いすぎるな」
抜刀しかけたレオンを制したのは、監視室の最奥から響いた、深く、しかし岩のように重い声であった。
異端審問局の最古参、老枢機卿アウグストである。
彼は深く刻まれた皺の奥にある鋭い眼光で、モニターに映る二人の少女――ギャル姿の持子と、セレブ姿の楓をじっと見つめていた。
「悪魔というものはな、頭に角を生やしてやって来るわけではない。“善人の顔”をして、最も無垢な姿で我々の前に現れるのだ」
アウグストの視線が、ギャル姿の持子に釘付けになる。彼の長年の経験が、警鐘を鳴らしていた。
(……いや、まさかな。生体認証がこれほどまでに一致しながら、あの少女からは一片の魔力も感じられん。むしろ……)
老枢機卿の視線が、横を歩くセレブ姿の楓へと移る。
「ターゲットBより、観測不能なレベルの高密度な神力を感知! 測定限界を突破しています!」
オペレーターの悲鳴を聞き、アウグストは小さく息を吐いた。
「人工知能も神託も、時に狂う。……マッテオよ。お前が直接行き、自らの目で『真実』を見極めてこい」
その言葉に、若き異端審問官マッテオ神父が静かに立ち上がった。
(レオン団長の正義は、痛いほど分かる)
マッテオは自らの胸の十字架を握った。レオンが「迷って見殺しにした」過去を持つなら、マッテオは「疑って無実の者を殺した」過去を持つ。二人の正義は真っ向から相反していた。
「はっ。……必ずや、神の御心に従い、真実を見極めてみせましょう」
マッテオはレオンと一瞬だけ視線を交わし、部屋を出て行った。
* * *
「ふぇぇん……ママ……」
広場を歩いていた時、持子の足元で小さな男の子が転んで泣き出してしまった。
「あっ、大丈夫?」
持子は慌ててしゃがみ込み、膝の砂を払ってあげた。
「痛かったね。でも、もう平気だよ!」
持子が満面の笑みで頭を撫でてあげると、男の子はピタリと泣き止み、手に握りしめていた小さな白い花を、恥ずかしそうに持子に差し出した。
「ありがとう! なまら嬉しい!」
持子が花を受け取って笑うと、男の子は母親の元へと走っていった。
その光景を、少し離れた柱の陰から、マッテオ神父がじっと見つめていた。
(あのように慈愛に満ちた瞳で子供に接する少女が、世界を滅ぼす魔王であるはずがない……)
彼の胸の内に、「彼女は無害である」という思い込みが強くかかり始めていた。
持子はもらった白い花を指先でくるくると回しながら、ふと、目の前にそびえ立つ巨大なサン・ピエトロ大聖堂を見上げた。
「……でも、ここ不思議だね、楓」
「どうされましたか、持子お姉さん?」
「すっごく綺麗で、人がたくさんいて賑やかなのに……なんだか、どこか寂しい」
胸の奥が、チクリと痛んだ。失われた記憶の底から、何か重くて暗い感情が這い上がってくるような感覚。
「昔、わたし……ここに来たこと、あったっけ……?」
持子の黄金色の瞳から、一瞬だけ、現在の能天気な女子高生ではない、はるか昔の『極黒の魔王』としての虚無の光が漏れ出した。
「持子お姉さん。ジェラートでも食べに行きましょう」
楓が持子の肩を優しく抱き寄せ、その不気味な気配をスッと掻き消した。
「うん! わたし、ピスタチオがいい!」
記憶の残滓は一瞬で霧散し、持子は再び普通のギャルに戻った。
「あの、失礼。少し人探しをしておりまして。……この写真の人物に見覚えはありませんか?」
そこへ、マッテオ神父が声をかけてきた。
彼の懐にある端末は、この瞬間も『九十九・九七パーセント一致』という警告を赤く点滅させ続けている。
差し出されたのは、かつての持子の写真――夜の闇を統治するような、極限まで布地のない衣装を着た『愛欲の女神M』の姿であった。
「な、なまらエッチな服……!! でも、この人すっごく綺麗! 雰囲気が……あ、隣の楓にそっくりですね!」
持子は全くの無自覚で、本物の魔王の服装をしている楓を指差した。
マッテオ神父の視線が、楓へと移動する。
その瞬間。楓がサングラスを指でスッと押し上げ、彼を静かに見据えた。
――世界から、不意に『色』と『音』が消失した。
「……ッ、あ……!?」
マッテオの視界が、完全なモノクロームに染まる。
単なる威圧ではない。それは、人類の理解限界に触れる存在からの『認識破壊』であった。楓の内部に眠る特級エージェントとしての強大な力が、マッテオの脳から「音」という概念そのものを強制的に奪い去ったのである。
自分が息をしている音すら聞こえない。圧倒的な死の淵に立たされた恐怖。
(なんだ、この重圧は……! この瞳の奥にある輝き、これこそが……神の教えすら届かない、真なる怪物の輝きではないのか……!?)
マッテオの理性が崩壊しかけた寸前。
「神父さん! この建物、なまらすごいですね! 神様のおうちという感じがして、感動しました!」
持子の声が、凍りついた世界を粉々に砕いて日常に戻した。色も音も、一瞬で元通りになる。
「あれ……? なんか今、一瞬フワッてしました? 立ちくらみかなぁ」
不思議そうに首を傾げる持子を見て、マッテオは激しい混乱に陥った。
(肉体が本人であるはずの、このギャルの少女は……あまりにも空っぽだ。本当に恐ろしいのは、あの見た目も力も本物である『護衛』の方だ!)
その時、マッテオの制止を無視し、レオン団長の「疑わしきは殺せ」という命令を受けた過激派の聖堂騎士たちが、路地裏から二人へ奇襲を仕掛けた。
「持子お姉さん、あちらのジェラート屋に並んでいてください」
楓が極上の笑顔で、持子を死角へと向かわせる。
持子が「ピスタチオは外せないけれど、チョコレートも捨てがたい……! どうしよう!」と、ジェラートのショーケースの前で人生最大の決断に魂を賭けている十数秒の間。
マッテオは、路地裏で繰り広げられた「観測不能な制圧」を目撃した。
騎士たちが剣を抜こうとした瞬間。マッテオが瞬きをした、ただそれだけで『結果』がそこに現れた。
巨漢の騎士たちが、一滴の血も流さず、静かに石畳に沈んでいく。
楓は、わずかに乱れた呼吸を小さく吐き出し、額に浮かんだ一粒の汗をハンカチで拭うと、再び完璧なセレブの笑顔を作った。
(……超人ではあるが、あくまで人間としての『技術』の極致。あんなにも命を懸けて戦う者が、己の身を挺してまで守ろうとしている相手が、悪であるはずがない……!)
「楓ちゃーん! 結局、トリプルにしちゃった!」
両手に巨大なジェラートを持った持子が、夕日の光に包まれて戻ってくる。
サン・ピエトロ大聖堂を背にした持子の姿を、柔らかな光がすっぽりと包み込み、まるで神からの後光のように輝かせた。
同時に、マッテオの胸元の十字架が、じんわりと確かな温かさを放つ。
(……ああ。データなど関係ない。この温もりこそが真実なのだ)
マッテオは、かつて無実の者を罰した自らのトラウマを乗り越えるかのように、一つの答えにすがりついた。
(この少女は、魔王から目を逸らさせるための精巧な『囮』だ。そして、あの強き少女が身を呈して守っているのは、魔王ではなく、この光に愛された純真な魂なのだ)
神が導いたのではない。マッテオという人間が、自らの善意で、神を都合よく解釈した瞬間であった。
「……神父さん?」
ジェラートを舐めながら不思議そうにする持子に、マッテオは深く一礼した。
「失礼しました。……あなたの旅が、神の光と共にありますように」
* * *
マッテオ神父は監視室に戻り、レオン団長と老枢機卿の前で宣言した。
「生体認証のエラーです。対象は【愛欲の女神M】に似せられた単なる替え玉であり、脅威度はゼロ。監視を解除しました」
「なんだと……!? 己の目を過信し、システムを疑うか、マッテオ!」
レオン団長が激昂するが、マッテオは静かに首を振った。
「私は、自らの魂に従い『真実』を見極めました。あの少女は、無実です」
マッテオは、自らの良心に従い「無実の少女」を救ったという安堵感に包まれていた。老枢機卿アウグストも、目を閉じて深く息を吐き、これ以上の追及を諦めた。
――だが。
彼らが全員立ち去り、誰もいなくなった暗い監視室。
閉じられたはずのメインモニターが、不気味な雑音と共に再び点灯する。
『照合率更新。九十九・九八パーセント……九十九・九九パーセント……』
真っ赤な警告画面が、無数に増殖していく。
機械音声が、雑音にまみれて絶叫するように警告を繰り返す。
『百・〇〇パーセント一致。対象は真なる【愛欲の女神M】。世界級災害の到来を警告――』
マッテオが「無害な偽物」と断じた少女こそが、正真正銘、本物の魔王持子であり。
彼が「本物の力を隠している」と恐れた少女こそが、その魔王を守るために仕組まれた、ただの人間(最強の暗殺者)であるという事実に。
レオンの冷酷な決断も、マッテオの優しい善意も、すべてが見当違いの方向へ導かれていたという事実に。
そして、人工知能が狂ったように叫び続けていた数字こそが、神話存在の前に神が唯一示していた、冷酷なまでの真実であったということに。
誰も気づかないまま。
情報社会のシステムだけが真実を叫び続ける無人の聖都で、人間の善意と正義が生み出した史上最悪の誤審は、静かに完了したのである。




