【カタコンベの悪夢と、吸血鬼の甘い罠】
【カタコンベの悪夢と、吸血鬼の甘い罠】
パリの静寂と、少女の懊悩(日常と絶望の狭間で)
花の都、パリ。
セーヌ川の穏やかな水面が、雲間から顔を出した蒼白い月光を反射して、揺らめく光の帯を作り出している。遠くにはエッフェル塔が夜空に向かって黄金色の燐光を放ち、この世界で最もロマンチックで美しい都市の威容を誇っていた。
しかし、その街の喧騒から完全に隔絶された超高級ホテルの最上階――プレジデンシャル・スイートの寝室は、まるで時が止まったかのような、重く、そして冷たい静謐に支配されていた。
「…………っ」
暗闇の中、分厚く最高級の羽毛布団に身を包んだ恋問持子は、小さく喉の奥で震えるような息を吐き出した。
現在、持子は十八歳。私立聖ミカエル学園に通う、高校三年生である。少しばかり運動神経が良く、合気武道の心得がある程度の、どこにでもいるような等身大の女子高生であるはずであった。
しかし、今の持子は、ふかふかのキングサイズベッドの中で、まるで嵐に怯える小動物のようにひたすらに身を縮めている。泣き腫らした目元が、火傷をしたように熱く、そして痛かった。
先ほどまで、持子はこの豪奢なプレジデンシャル・スイートの絨毯の上で、この世の終わりのような絶叫を上げ、滝のような涙を流してパニックを起こしていたのである。
原因は、思い出すだけでも全身の血が沸騰し、そのまま蒸発してしまいたくなるほどの、致命的な羞恥と絶望であった。
――持子の、愛欲と魅了の魔力を纏った『発情写真』が、世界中に流出したのである。
「……っ、うぅ……」
思い出すだけで、シーツを握りしめる手にギリッと力がこもる。
持子は孤児院で育ち、昔から「性的行為は結婚してから」という、鉄壁とも言える固い貞操観念を抱いて生きてきた。性的なアピールや、過激な露出などはもってのほかである。それなのに、あろうことか、持子自身の――あまりにも淫靡で、蕩けるような表情を浮かべた写真が、国境を越え、言語を越え、何億という人々の目に晒されてしまったのだ。
「わたしのお嫁入り前が……。なまら恥ずかしい……。穴があったら入りたい。いや、地球の裏側まで埋まりたい」
先ほどの羞恥のあまり絨毯を叩いて泣き叫んだ自分の姿が蘇る。
大袈裟でも何でもなく、十八歳の純朴な少女にとって、精神が完全に崩壊しかねないほどの致死量のショックであった。世界中が持子のその姿を見て歓喜し、活力を取り戻しているらしいが、そんなことは今の持子には何の慰めにもならない。ただ恐ろしくて、恥ずかしくて、自分の身体が自分のものでなくなってしまったかのような強烈な乖離感に苛まれていた。
極度のパニックからガス欠を起こすようにぐったりと崩れ落ちた持子を、優しく抱きしめてくれたのは、大親友の風間楓であった。
「大丈夫ですよ、持子お姉さん。私がすべて、綺麗に片付けますから……。だから、今は何も考えずに休んでください」
その言葉と、背中をトントンと一定のリズムで撫でてくれる温もりに包まれ、持子は一度は深い眠りに落ちたはずであった。
(あのまま、朝までぐっすり眠れたらよかったのに……)
隣のベッドスペースに視線を向けると、そこには持子を安心させるために戻ってきてくれた楓が、穏やかな寝息を立てていた。同年代の可憐な少女に見えるが、彼女の『TIA』が誇る特級エージェントである。
持子が眠っている間、楓はきっとリビングで大人たち――大好きな社長の立花雪や、世界的コングロマリットの最高経営責任者であるエレーヌ・リジュたちと、持子の処遇を巡る恐ろしい戦略会議をしていたのだろう。
「……ごめんね、楓ちゃん。わたしなんかのために、いつも無理させて……」
誰にも聞こえないほどの小さな声で呟き、自分の両手を見つめる。
華奢で、白くて、何の力もない少女の手。けれど、最近になって周囲の大人たちから聞かされた事実は、持子の常識を根底から覆すものであった。この身体の奥底には、厳重に封印された『董卓の魂』と、最悪の神格である『第六天魔王マーラ』の自我が眠っているのだという。
かつて自分が「極黒の魔王」として世界中を股にかけるトップモデルであり、恐怖と暴力で他者を平伏させていたなんて、記憶喪失の持子には全く実感が湧かない。
現に、持子を狂信的に崇め、隙あらば重すぎる愛を向けてくる下僕の面々――インテリの鮎、忍者の美羽、元悪魔のアスタルテやシャーロット、そして吸血鬼のエティエンヌ――からの同性愛的なアプローチには、毎日「性的行為はダメです!」と全力で拒絶しているくらいなのである。
(わたしは、ただの「恋問持子」でいたいのに……)
昼間、エレーヌの招待でこなした花の都での過酷な撮影スケジュール。周囲のスタッフが持子に向ける視線は、まるで『神』や『救世主』を崇めるような異常な熱を帯びていた。
みんなが期待している「魔王」としての持子と、本当の空っぽで気弱な持子。その果てしないギャップが、いつか持子を真っ二つに引き裂いてしまうのではないかと、恐怖で足がすくむ。
「……早く、寝なきゃ……。明日の撮影に、響いてしまう……」
声に出さないよう口パクで自分に言い聞かせるが、パリに来てからというもの、どうにも胸の奥がざわざわして落ち着かない。まるで、見知らぬ土地のはずなのに、かつてここで何か『恐ろしいこと』を体験したことがあるかのような錯覚。
微睡みの淵に立たされた意識が、ふっと重力を失った。
ドクン、ドクン、と心臓の鼓動が不自然なほど大きく耳元で鳴り始める。まるで、プレジデンシャル・スイートの豪華なベッドが、底なしの沼に変わってしまったかのように、持子の身体が沈み込んでいく。
「……え……?」
瞼が鉛のように重く、開かない。抵抗する間もなく、持子の精神は深い闇の底へと引きずり込まれていく。
高級ホテルの洗練されたアロマの香りが、突如として、鉄錆のような濃い血の匂いと、何百年も澱んだままの腐敗臭へと切り替わった。
――ピチャリ。
重く冷たい水音が、鼓膜を直接揺らす。
それが、封印されているはずの『極黒の魔王』の記憶が開く、終わらない恐怖の悪夢の始まりだとは、この時の持子は知る由もなかった。
カタコンベの記憶(這い寄る死臭と、暴君の自我)
「……っ、あ……」
気がつくと、持子は暗く底冷えする地下の迷宮に立っていた。肌を突き刺すような凍てつく冷気。微かな松明の灯りが照らし出すのは、壁の至る所に人間の頭蓋骨や大腿骨が狂気的な幾何学模様のように積み上げられた、見渡す限りの骸骨であった。
そこは、パリの地下深くに広がる広大な地下墓所――カタコンベであった。
何より恐ろしいのは、この空間そのものが、言葉では言い表せないほど巨大で禍々しい『死の気配』と『魔力の残滓』で満たされていることであった。肺に酸素が入ってこない圧倒的な恐怖に、全身の産毛が総毛立つ。
(ひぃっ! 怖い、怖いよ……。楓ちゃん、雪さん……助けて……! 身体が、動かない……!?)
悲鳴を上げようとしたが、声帯はピクリとも震えない。指先一つ、瞬き一つすら、現在の持子の意志ではコントロールできなかった。持子の意識は自分自身の肉体の中にあるはずなのに、まるで特等席の観客のように『視覚と聴覚』だけを共有させられ、身体の主導権は完全に別の『何者か』に握られていた。
『……くだらん。薄汚い死臭が鼻をつくわ』
(えっ……!? なにこの声!? わたしの声だけど、すごく低くて、偉そう!? しかも死臭って、ここ墓地なんだから当たり前じゃないですか!)
現在の持子の困惑を置き去りにするように、持子の口が勝手に動き、傲岸不遜な言葉を紡ぎ出す。同時に、その『何者か』の思考が、脳内に濁流のように直接流れ込んできた。傲慢、残虐、そして他者を見下す絶対的な王としての自意識。
それが、かつてこの肉体を支配していた『過去の持子』――すなわち、魔王・董卓の自我なのだと、封印された記憶の欠片が本能的に理解させた。
(いやだ、いやだいやだ! わたしはこんな怖い人じゃない! 誰か、この体から出して……! わたしはホラー映画は薄目で見ないとダメなタイプなんです……!)
純朴な女子高生である持子の悲痛な叫びは、強固な魔王の自我の前に掻き消されていく。ホラー映画の主人公視点を仮想現実で強制体験させられているような絶望感の中、持子は逃げ場のない密室で震えるしかなかった。
ルージュ編(血塗られた蹂躙と、貞操観念の崩壊)
「持子様、右の暗がりから蝙蝠の群れです! 左からは下級吸血鬼が十体ほど来ます!」
暗闇の奥から聞き慣れた声が響き、視線が勝手に下へ向く。そこにはピンク色の華やかな髪を揺らした美女――現在の持子が「第一下僕」として恐れている早大生のインテリタレント、本多鮎が控えていた。
『ふん。雑魚どもが鬱陶しいわ。鮎、片付けろ』
(えええ!? 過去のわたし、大好きな鮎先輩に向かってなんて偉そうな口の利き方してるの!? というか、なんで吸血鬼がいるの!? ここパリですよね!?)
赤い目を光らせた巨大な吸血蝙蝠と下級吸血鬼たちが襲いかかってくる。絶体絶命のピンチに内側の持子は気を失いそうになるが、鮎は全く動じなかった。
「はいっ、持子様! そのお言葉、至上の悦びですわ!」
彼女の背中からどす黒い『闇の魔力の手』が無数に生え出し、蝙蝠を握り潰し、吸血鬼たちの首を刎ね飛ばしていく。
血飛沫が舞い、肉の裂ける音が響き渡る中、鮎は狂戦士のように笑った。
「はいっ、持子様! 暗闇に佇みながら敵を睥睨するお姿も大変美しいです! いただきまーす!」
バキィッ! カシャカシャカシャッ!
(あ、鮎さん!? 吸血鬼がいっぱい死んでるのに、なんで超高級一眼レフカメラでわたしの写真撮ってるの!? 血みどろのホラー空間でグラビア撮影しないで!)
内心の困惑が追いつかない中、過去の持子の肉体は血の海を悠然と歩き、地下広場の最奥へと進む。そこには、無数の白骨で飾られた玉座に腰掛ける一人のフランス人形のような美少女がいた。三百年の時を生きる吸血鬼の元女王、ルージュであった。
「ふふふ……よくぞここまで来ましたわね、極東の小娘。わたくしの『魅了の魔眼』で、這いつくばらせてあげますわ!」
ルージュが強烈な魔力を放つが、究極のサディスティック・マゾヒストである鮎には一ミリも効いていなかった。
『……ふむ。近くで見ると、見惚れるほどの絶世の美女ではないか』
過去の持子は、威圧感を極黒の魔力の覇気だけで完全に押し返し、ルージュを玉座から床へと力ずくで平伏させた。
(ちょ、ちょっと過去のわたし!? なにしてるの!? しかも見惚れるほどの絶世の美女って、ただのオヤジ目線じゃないですか!)
『おい鮎。貴様、カメラを置いてこっちへ来い。こいつはお前の『下僕』にするのだ』
過去の肉体は、地に伏して震えるルージュの顎を指先で持ち上げ、その細い首筋に顔を近づけた。
『魔力を帯びた者を屈服させるには、物理的な暴力だけでは足りん。指先に己の魔力を極限まで集中させ、相手の急所に流し込むようにして『魔力的な快感』を与えるのだ。……ほれ、こうだ』
現在の持子の意志を完全に無視して、過去の持子は自らの指先に濃密な闇の魔力を纏わせ、ルージュの胸の豊かな膨らみや、ドレスの布越しの太ももを、ねっとりと暴力的なまでに力強く揉みしだき始めた。
「あ、あん……!! ひゃああっ……! な、なにを……っ!」
ルージュの口から、甘く蕩けた悲鳴が漏れる。
(ストォォォップ!! なんで初対面の女の子の胸揉んでるの!? セクハラです! 性的行為は結婚してからって決めてるのに! わたしの貞操観念が崩壊しちゃう!)
純情な魂の叫びをよそに、魔力的な快感に屈服したルージュは服従を誓うのだった。ホラーから一転して繰り広げられた女性同士の破廉恥な蹂躙劇に、持子の精神は完全にオーバーヒートしていた。
圧倒的脅威と、引き裂かれる日常
唐突に、視界がぐにゃりと歪んだ。
夢特有の不条理な強制移行。肺を満たしていた鉄錆と腐敗の臭いが、ふっと潮風の爽やかな香りと、極上の海鮮料理の匂いへとすり替わる。足元にあったはずの硬く冷たい骨の感触は、いつの間にかふかふかの絨毯へと変化していた。
次に意識が鮮明になった時、持子は暗い地下墓所ではなく、明るく豪奢な部屋の中にいた。
(……え? ここは……南仏のホテル?)
窓の外には紺碧の地中海。ここはコート・ダジュールにある最高級リゾートホテルである。目の前には鮎と、そして――。
「まったく、あんたたちはいつも騒がしいわね。明日の撮影に響くから、早く食べなさい」
持子を暗闇から救い出してくれた絶対的な恩人であり、大好きな存在である社長の立花雪であった。
(あ、雪さんだ……よかった、いつもの日常に戻ったんだ……)
安らぎに泣きそうになったのも束の間、バルコニーの窓ガラスが凍りつくような音を立てた。
先ほどの死臭とは違う、圧倒的で絶対的な『死と夜の気配』。そこに立っていたのは、漆黒のロングコートを纏った、二メートル近い長身の男であった。
(ひぃっ! だ、誰!? なまら怖い……。……え? うそ、すごくイケメン……!)
氷のように冷酷で美しいその男こそ、純血の『真祖の吸血鬼』、エティエンヌ・ド・ロシュフォール=ノクティスの本来の姿であった。
(あんな冷たい目で見下ろされたら、なんかドキドキしちゃう……! って、ちがーう!! なにときめいてるのわたし!)
必死に自分にツッコミを入れていると、エティエンヌが雪を見つめた。
「……っ」
雪の瞳から光が失われ、彼女は操り人形のようにエティエンヌの元へと歩み寄り、彼に肩を抱き寄せられた。
(雪!? だめ、行かないで! 目を覚まして!)
『雪ッ!! 貴様ァッ!! その薄汚い手で、雪に触れるなぁァァッ!!』
過去の魔王としての持子が凄まじい怒りを爆発させるが、雪を人質に取られている以上動けない。内側に閉じ込められている現在の持子も、絶望と恐怖で心が張り裂けそうになっていた。
「極東の魔王よ、お前には私から『王らしい決闘』を申し込もう。この女の命が惜しくば、私の城へ来い」
エティエンヌの足元に転移魔法の陣が展開され、強烈な閃光が部屋全体を白く包み込む。
(いやぁぁぁっ! 雪さんを返してェェェッ!!)
終わらない悪夢の底へ
視界が真っ白に染まり、持子の意識は転移魔法の閃光の中へと吸い込まれていった。
ホテルで目覚めるはずであった。だが――。
(……え? なに、これ……?)
閃光が収まっても、足元には何もなく、持子は果てのない深い闇の中を底なし沼に沈んでいくように落下していた。
(えっ、待って! まだ夢終わらないの!? パリの次はどこ!? もうやめてぇぇっ!)
声は音にならず、過去の記憶の扉は容易には閉じてくれない。真祖の吸血鬼との死闘。目覚めを許されないまま、持子の意識は次の悪夢のステージへと深く引きずり込まれていくのであった。
【南仏の死闘と、終わらない悪夢からの帰還】
悪魔城戦の開幕(強敵との対峙)
果てのない闇を落下していく感覚が途切れた瞬間、視界に広がったのは眩いほどの太陽が降り注ぐ南仏の光景であった。
そこは、世界的ブランドの新作撮影現場。記憶喪失の現在の持子は英語などさっぱり理解できないが、過去の持子はモデルたちの微細なタッチから要求を完璧に読み取り、現場を完全に支配していた。
(過去のわたし、なまら凄い……! これがトップモデルの貫禄……!)
だがその栄光は夜の闇に切り裂かれる。エティエンヌが雪を拉致し、過去の持子は魔力を抑え込んだまま彼の悪魔城へと転移した。
城内に足を踏み入れた瞬間、数百の悪魔たちが怒涛のごとく襲いかかってくる。過去の肉体は極黒の魔力と合気武道の技を駆使し、敵を次々と蹴散らしていく。
(ひぃぃぃっ! 腕が飛んでる! 怖い怖い怖い……っ! でも、合気武道ってこんなに凄いんだ……!)
強敵との連戦で満身創痍となりながらも最上階の玉座の間にたどり着くと、エティエンヌが『魔殺しの聖剣』を振り上げた。
過去の持子は合気武道の奥義『四方投げ』でエティエンヌを大理石の床に叩きつけ、彼の落とした聖剣を素手で握りしめた。ジュゥゥゥッ! という肉の焼ける音が響く。
(痛い痛い痛い……っ! 右手が焼け爛れてる! なんでそんな物騒なもの素手で握るの!?)
現在の持子の絶叫を無視し、過去の持子は激痛に顔を歪めながらも聖剣をエティエンヌの心臓に深く突き立てた。しかし、殺戮を思いとどまりホテルへと生還した。
(よかった、雪さんも無事で、わたしも生きてる……。もうこれで終わりだよね……?)
ホッとしたのも束の間、場面は容赦なく切り替わり、ここからが持子の精神を根底から破壊する真の地獄の始まりであった。
狂気のプロポーズと、究極の性癖の壁
撮影三日目の夜。なんと、圧倒的な器を見せつけられて完敗したエティエンヌは、究極のドMに目覚め、百本の深紅の薔薇を抱えてスイートルームに現れ求婚してきたのである。
『……貴様、わしの至福の時間を邪魔する気か』
(ああっ、ダメ! そのケーキ、すごく高くて美味しいやつ! バラの花びらがクリームに落ちた……!)
激怒した過去の持子は、プロポーズの言葉を聞くこともなく強烈な裏拳を顔面に叩き込んだ。
翌日の夜、全身包帯巻きのミイラ男状態になったエティエンヌが再び愛を囁いてくる。
『よく聞け。わしのこの肉体は絶世の美女だが、魂の根源は「雄」だ。男に抱かれる趣味など微塵もない。男である時点で、貴様は完全にアウトだ』
(そうだ、すっかり忘れてたけど、わたしの魂って元はおっさんなんだよね!? なんか色々と悲しすぎるカミングアウト!)
男である時点で無理だと完全に拒絶されたエティエンヌは絶望の淵で固まったが、彼の瞳の奥に恐るべき狂気の閃きが宿るのを、持子は逃さなかった。
バカンス最終夜の過ちと、BLトラウマの爆発
撮影を終えたバカンス最終日の深夜。ホテルの寝室でくつろぐ過去の持子の前に、蠱惑的な香りを纏った一人の『絶世の金髪美女』が現れた。
『ほう……これは極上の女だな。ふはははっ! 良いだろう、こっちへ来い!』
(ストォォォォップ!! 完全にエロ親父の顔になってる! 知らない人をホイホイベッドに入れちゃダメ!)
美女は怪しげな液体が入った小瓶を取り出し、過去の持子の口元へと含ませた。
薬の力により、なんと持子の絶世の美少女の肉体に、前世の『雄の象徴』が一晩限りで完全復活を果たしてしまったのである!
(ええええええええ……。嘘でしょ、わたし女の子だよ!? いやぁぁぁっ、わたしの純潔が……!)
男としての本能を爆発させた過去の持子は、その極上の美女を徹底的に抱き潰し、絶頂を迎えて気絶するように眠りに落ちた。
(……終わった。わたしの貞操観念、完全に終わった。結婚してからって決めてたのに……もうお嫁に行けない……)
精神が灰のように燃え尽きる現在の持子。だが、本当の地獄は翌朝に待っていた。
眩しい朝の光で目を覚ますと、隣のシーツが動き、昨夜抱いたはずの金髪美女がとろける笑顔でこちらを見つめてきた。
「おはようございます、持子様。……あなたの永遠の伴侶、エティエンヌですわ」
『……は?』
(……は?)
過去と現在の持子の思考が完全にシンクロし、フリーズした。
エティエンヌ。彼は「男は無理」と拒絶されたため、吸血鬼の禁忌の秘薬で細胞を作り替え、『絶世の金髪美女』へと女体化していたのである。自分が抱いた美女の中身が、あの『男』であったという残酷すぎる事実。
その瞬間、過去の持子の脳裏に、前世の呂布との悍ましい『BL』のトラウマがフラッシュバックした。
(いやぁぁぁぁぁぁぁぁっ!! 中身、男……!? 実質的な男同士の交わりじゃないですかぁぁっ!! 男が女になって女が男の象徴復活させてやっちゃう?!百合?いやBLいやノーマル?!わけわかんないよ!)
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」
過去の持子は肺の底から絶叫を上げ、バルコニーのガラスを突き破り、南仏の青空へと全力で逃走を図った。その後ろ姿を、現在の持子は発狂しそうな精神を抱えながら見送るしかなかった。
終わらない悪夢からの目覚め(謎とエモ)
「……っはぁっ!!」
バツンッ! と全身の毛穴が開く感覚と共に、持子は勢いよく上体を起こした。視界に飛び込んできたのは、パリの超高級ホテルの寝室であった。
全身が冷や汗でぐっしょりと濡れ、心臓が早鐘のように肋骨を叩いている。
「……ゆめ、夢……だよね……?」
震える両手で顔を覆うが、あれはただの悪夢なんかではない。実際にあった『持子の過去』なのだと、魂の奥底にこびりついた事実としての重みが教えていた。
あの信じられないような男性同士の恋愛(BL)トラウマの追体験に、持子はベッドの上で捨てられた子犬のようにガタガタと震えていた。
「持子お姉さん……?」
すぐ隣から、鈴の転がるような声がした。楓が持子の異常な気配を察して目を覚まし、優しく目を細めた。
「怖い夢を、見たんですね」
「……楓ちゃん……」
楓は一切の躊躇いもなくベッドの上を這い寄り、震える持子の身体を細く温かい腕で強く抱きしめてくれた。特級エージェントとしての冷徹な顔はない。そこにあるのは、大親友としての純粋な慈愛だけであった。
「大丈夫です。私がいます。……どんな悪夢も、現実の恐怖も、私がすべて斬り伏せますから。あなたは、ここで安心して息をしていてください」
背中をトントンと優しいリズムで撫でてくれる。
その温もりが、冷え切っていた持子の身体にじんわりと染み渡っていく。
(……あぁ。楓ちゃんは、なまら温かい……)
カオスすぎる過去のトラウマで引き裂かれそうだった心が、彼女の体温によって少しずつ縫い合わされていくのを感じた。
「……ありがとう、楓ちゃん。……ちょっとだけ、このままでいても、いい……?」
「ええ、もちろんです。朝が来るまで、ずっとこうしていますよ」
持子は楓の華奢な肩に額をこすりつけるようにして、深く息を吐いた。
世界中が写真に狂乱していようと、過去の記憶がトラウマを突きつけてこようと。この温もりに包まれている今だけは、ただの『恋問持子』でいられる気がした。
窓の外ではパリの夜明けが近づいている。絶望的だった悪夢の終わりに、持子は確かな絆の安心感に包まれながら、静かに目を閉じた。




