【盤上の魔女と天才陰陽師、そして哀れな道化】
【盤上の魔女と天才陰陽師、そして哀れな道化】
深夜の東京。
高層ビル群のネオンが冷たく瞬く中、代官山にある芸能事務所『スノー』本社ビルの社長室は、凍りつくような静寂に包まれていた。
天才陰陽師である土御門朔夜は、手元のタブレット端末に表示された真紅の警告文を、極めて冷めた瞳で見下ろしていた。
それは先ほど、エクリプス極東支部から全回線、およびスノー側が『必ず傍受するであろう』特殊暗号チャンネルに向けて一斉送信された極秘特級指令であった。
「……『機動殲滅兵 オメガ・センチュリオン(SS+)の投入を承認』。
プロメテウス財団が開発した対超常存在用の完全サイボーグですか。
全身の九割を未知の特殊合金と超高出力魔力炉心で置換し、感情も痛覚も排除した殺戮機械……だそうです」
朔夜が淡々と読み上げる声に、部屋の隅で丸くなっていたプラチナブロンドの女——スノーの最下層である元・大悪魔のシャーロットが、「ひっ!?」と短い悲鳴を上げた。
「さ、殺戮機械!?
そ、それに指令書には『大規模悪魔災害(クラスS・スタンピード)の発生予測あり』とも書かれておりますわよ!?
わたくしたち、マンションごと悪魔とサイボーグに完全物理殲滅されてしまいますわぁっ!」
シャーロットは、極度のストレスと恐怖で完全に小物感丸出しの半泣き状態となり、一人ガタガタと震えている。
彼女は自身が無自覚な二重スパイに作り変えられていることなど露知らず、純粋な絶望に慄いていた。
「騒がしいわね、駄犬」
ネイビーのパンツスーツをスタイリッシュに着こなした立花雪は、優雅な手つきでティーカップを持ち上げ、香り高いアールグレイを啜った。
千年を生きる大陰陽師の顔には、焦りなど微塵も存在しない。
「朔夜、あなたはどう見る?」
雪の問いかけに、普段は傲岸不遜な「俺様」キャラを気取る朔夜だが、絶対的な師匠である彼女の前では、徹底して従順な「僕」モードへと切り替わり、タブレットから顔を上げた。
「十中八九、これは三流のダミー情報ですね。失笑を禁じ得ません。
エクリプスが自ら悪魔を召喚するなどと書けば怪しまれるため、『悪魔災害が起こるからサイボーグで処理する』という体裁をとっているのでしょう」
朔夜は顎に手を当て、少しだけ楽しげに目を細めた。
「ですが、あの稀代の策士であるオーウェンが、これほど見え透いた手を打つということは……
本命の狙いは『僕たちがこの情報を信じた体で動くこと』自体にあると考えるべきでしょう。
僕が奴の立場なら、この情報で地上を警戒させ、手薄になった地下――つまり、東京ダンジョン最深部へ『本命』を流し込みますね」
「本命、というと?」
「地下という閉鎖空間に、無尽蔵の悪魔の群れを一斉投入するんですよ。
標的は、現在最深部へと降下している『レプリカ(影持子)』と下僕たちです。
彼らがどれほどの化け物でも、連戦になれば必ず魔力と体力を削り取られる。
……おそらく、その絶好のタイミングで、あの男を介入させる『可能性』がありますね」
「高倉竜、ね」
「ええ。持子の魂が危険だとでも吹き込めば、あの青臭い正義漢は真っ先に地下へ飛び込んでいくでしょう。
持子に好意を抱く下僕たちですが、極限状態の地下で予期せぬ乱入者が現れれば、同士討ちのような致命的な混乱が起きる可能性があります。
……見事な盤面整理です。僕ならそうやって盤面をさらに引っ掻き回し、手薄になった隙に、内部に潜ませたスパイに七星宝刀を奪取させます」
朔夜はそこまで推測を口にすると、フッと冷ややかに笑った。
「……以上の推論から、オーウェンの真の狙いはマンションの地上戦などではなく、最深部での魔王覚醒とバエル降臨の儀式である可能性が極めて高い。
全く、不確定要素の多い盤面で想い人に刃を向けさせるような状況を作り出すなど、反吐が出るほど邪悪な策士ですよ」
「ええ、その通りね。感心するわ」
雪が優雅な所作でティーカップをソーサーに置くと、カチャリ、と硬い音が室内に響いた。
朔夜もまた、手元のタブレットに映る指令書を眺めながら微かに嗤う。
二人の間に、焦りは欠片も存在しなかった。
敵の思惑も、そして足元で怯える無自覚なスパイの存在すらも、彼らにとっては既に盤上の遊戯に過ぎない。
「え……?
あ、あの……雪社長? 朔夜様……?
何やら難しくて恐ろしいお話をされておりますが、お二人は、逃げる準備などをなさらないのですか……?」
事態を全く飲み込めていないシャーロットが、オロオロと二人を交互に見る。
「逃げる? なぜ私たちがここから動く必要があるの?」
雪と朔夜は言葉を発することなく、ただ静かに、そして息が詰まるほどの『絶対零度の殺気』をシャーロットの背中に向けて突き刺した。
「ひっ……!?」
「向こうが盤面を支配しているつもりになっているのなら、好きに躍らせてあげましょう。
あなたはただ、いつも通りに怯えていればいいわ」
雪の瞳の奥に宿る、不老の怪物としての恐るべき殺気。
その瞬間、シャーロットは完全に悟った。
この恐るべき主従は、一歩もこのマンションから動くつもりがないのだと。
そして自分は、そんな異常なプレッシャーの中で地下金庫にある『七星宝刀』を盗み出さなければならないという地獄に置かれているのだと。
(ア、アカンですわ……!
いや、いっそ死ねるのなら、どれほどマシか……!)
かつての彼女――大公爵グレモリーであれば、この人間サイズの貧弱な肉体が破壊されたところで、ただ地獄へ帰還して復活するだけだった。
だからこそ、理不尽な暴力によって殺されること自体は、本来ならば一つの「救い」ですらある。
だが、今は違う。
背後に座す千年を生きる大陰陽師は、その逃げ道すら完璧に塞いでいる。
シャーロットの魂の深淵には、雪の手によって極めて陰湿な陰陽術が幾重にも刻み込まれており、自ら命を絶つことすら絶対に許されない。
自分が無意識のうちにスノー側に都合の良い情報を流す「二重スパイ」へと作り変えられていることなど知る由もない彼女にとって、今の状況はただ「死という救済すら奪われた永遠の拷問」でしかなかった。
(立花雪……! この女、絶対に悪魔よりも悪魔ですわ……っ!)
限界を迎えたシャーロットの紫の瞳には、涙がぼろぼろと浮かんでいた。
彼女は死ねない肉体の恐怖に震えながら、自身の僅かな魔力を振り絞り、アメリカ国家超常事態対策局『エクリプス』の司令官、ヴィンセント・オーウェンに宛てて、決死の暗号化念話通信を飛ばし始めたのである。




