【悪魔と司令官の盤上遊戯、そして悲壮なる武神の誓い】
【悪魔と司令官の盤上遊戯、そして悲壮なる武神の誓い】
東京、六本木。
その地下深くに、重苦しい静寂が横たわっていた。
鉛と幾重もの呪符が編み込まれた、分厚い防音扉の奥。そこは、最高レベルの霊的遮断結界が張られた無機質なセーフ・ルームである。下界の喧騒も、光も、そして神の目すらも届かないこの密室は、一人の男の狂気と、世界を俯瞰する悪魔の密談にはこれ以上ないほど相応しい舞台だった。
指揮官用の革張りソファに深く腰を下ろしたヴィンセント・オーウェンは、クリスタルグラスに注がれたヴィンテージの赤ワインを、ただ静かに揺らしていた。
芳醇な香りが密室に満ちる中、彼が発する気配は氷のように冷たい。50代前半にして鍛え抜かれた長身をイタリア製の高級スーツに包む彼の眼差しは、一切の感情を排した深淵のようだった。米国・国家超常事態対策局『エクリプス』の司令官であり、裏社会においてもSSクラスと評される絶対的な実力者。その男が、今はただ、ワインの揺らめきだけをじっと見つめている。
チャプ、と。
グラスの中で液体が小さく跳ねる音が、やけに響く。
その静寂を破るように、虚空からどす黒い瘴気がゆっくりと滲み出してきた。
悍ましい闇が蠢き、辛うじて人間の輪郭を形作っていく。ソロモン72柱の第一位たる大悪魔、東方の悪魔王バエルの顕現である。
強大すぎる力ゆえに現世に完全な肉体を持てない悪魔は、ただそこにいるだけで、部屋の空気を重く歪ませていた。
「……陽動は失敗に終わったようだな」
オーウェンが、グラスの動きを止めて静かに口を開いた。その声には焦りも怒りもない。ただ事実を確認するだけの、酷薄な響きがあった。
「スパイとしてスノーに送り込んでいるシャーロットからの暗号化念話通信によれば、立花雪と土御門朔夜は本社から一歩も動いていない。地下金庫に安置された『七星宝刀』には、どう足掻いても手出し不能だ」
「ククク……高慢な大悪魔の成れの果てとはいえ、無能な小娘め」
地獄の底から響くようなバエルの嗤い声が、密室の空気を震わせた。
「ならばどうする、オーウェンよ。直接スノー本社を攻撃するか?」
「いや」
オーウェンは、グラスを傾ける優雅な仕草のまま即座に却下した。
「エクリプスはあくまでアメリカの国家機関だ。明確なテロの証拠もなしに、私の私兵として日本の民間企業を襲撃させるわけにはいかない」
「ならば、下等な無法者どもを金で雇って襲わせるか?」
「三流の策だ」
オーウェンの瞳に、微かな侮蔑の色が浮かぶ。
「あの化け物じみた立花雪と、天才と名高い土御門朔夜を、裏社会の素人風情で制圧できるはずがない。返り討ちに遭って尻尾を掴まれるのがオチだ。シャーロット・シンクレアはスノーの奴隷(最下層)にまで落ちぶれているが、彼女の『過去・現在・未来の透視』による情報だけは利用価値がある。無理に動かして立花雪に悟られるリスクは避けるべきだ」
「クハハハ……ならば、我に上質な魔石を寄越せ。地獄の門を通さずとも、上位の悪魔を直接召喚して、スノーを急襲させてやろう」
「……候補には入れておこう」
オーウェンは冷徹に保留した。
彼の視線はすでに、スノー本社ではなく、東京ダンジョンの地下深くへと向けられていた。チェス盤を見つめるようなその眼差しには、他者を単なる駒としか見ない底知れぬ冷酷さが宿っている。
「標的は、すでに地下に潜った『恋問持子のレプリカ(六花)』へと変更する。……だが、再度確認しておきたい。地下のあれは、立花雪たちが創り出した精巧な偽物だ。あれを使って、地獄の門は開くのか?」
オーウェンの問いに対し、バエルは瘴気を大きく揺らして重々しく答えた。
「本来であれば、門を開くための条件には満たない。あのキメラは、土御門朔夜が自らの血肉と術式を注ぎ込んで創り上げた式神に過ぎぬからな。……だが、あのレプリカから放たれる極黒の魔力は、本物と遜色ないほどに純度が高い。条件はすでに満たされつつある。まずは『天』の時だ」
バエルの低い声が、部屋の空気を震わせた。
「王允、董卓、呂布……三国志に名を刻んだ三つの魂と、貂蟬の肉体が、この現代に揃い踏んだ。これほどの奇跡は他にない」
オーウェンは無言のまま、ワインを一口含む。
「次に『地』の場」
悪魔は蠢く瘴気の腕を、床の底——さらに深くへと向ける。
「莫大な魔力を宿す、この東京ダンジョン最下層の地下霊脈。これほどのエネルギーの渦こそが、我らを迎え入れる極上の舞台となる」
「……残るは『人』の鍵、というわけか」
オーウェンの問いに、バエルの赤い瞳が、地獄の底から人間の愚かさを嘲笑うかのような邪悪な光を放った。
「左様。第六天魔王(董卓)の器たる、あの小娘の極黒の魔力。そして呂布の魂を持つ高倉竜の因縁。七星宝刀の呪縛が絡み合うあの最下層の霊脈で、我が門の外側から強引に力を加えれば……物理的にこじ開けることは可能だ」
その答えに、オーウェンは満足げに頷いた。
「なるほど。……ならば、焦る時間ではないな」
オーウェンの脳裏に、最愛の娘・ルチアの愛らしい笑顔がよぎる。交通事故に見せかけて娘を殺害したのが目の前の悪魔であることなど知る由もなく、彼女の魂を地獄から救い出し生き返らせるためなら、この東の島国などどうなってもいい。
世界は秤だ。どこかを救えば、どこかが沈む。日本という国は、世界の悪魔を閉じ込めておく『蠱毒の壺』として完璧だった。娘を救うと同時にアメリカや世界を救う合理的な手段。それが、彼を突き動かす狂気であり、マキアヴェリズムという名の真実の愛だった。
彼が持子に与えた『七星宝刀』の真の目的は、持子の中にある「男(董卓)」の自我と「魔王」の力を弱体化させることにある。男の自我が強ければ、彼女は決して竜を受け入れない。ゆえに剣の力で董卓を抑え込み、「女(貂蝉)」の性質を強制的に表出させ、竜を愛するように心を操作する。かつての三国志において貂蝉を董卓にけしかけた「連環の計」の、より残酷な現代版の再現であった。
「シャーロットの予言のタイムリミットまで、あと2日。……2日後、最下層へ到達し、疲弊しきったターゲットに対し、エクリプスの精鋭部隊……そして、高倉竜をぶつける」
* * *
セーフ・ルームを出たオーウェンは、極秘指揮所の司令室へと戻り、エクリプスの切り札であるエージェント・高倉竜を呼び出した。
「……お呼びでしょうか、司令官」
無骨で精悍な顔立ち。長年の厳しい合気武道の鍛錬によって鋼のように引き締まった肉体を持つ武神・高倉竜が、静かに敬礼する。その魂の奥底には、かつて最強と謳われた猛将・呂布の因縁と、愛した女(貂蝉)を守れず義父(董卓)を自ら裏切り殺したという深い罪悪感が深く刻まれていた。
オーウェンは、竜に対して極めて残酷で、胸が締め付けられるような嘘(真実の捻じ曲げ)を告げた。その表情は、愛する者を案じる悲痛な父親の顔そのものだった。
「竜君……。先ほどの観測データで、最悪の事態が判明した。地下に潜った持子君から、かつてないほど強烈な『董卓』の気配が観測されたのだ」
「なっ……!?」
竜の目が、驚愕に見開かれる。
地下に潜っているのが、土御門朔夜によって創られた完全な偽物である『六花』であることなど、竜は知る由もない。彼が愛しているのは、あくまで幼馴染の恋問持子であり、魔王としての彼女は別の存在として激しく拒絶していた。
「残念だが、彼女の精神は今、完全に魔王に食い殺されようとしている。……このまま彼女が最下層の霊脈に触れれば、オリジナルの『恋問持子』の魂は、完全に消滅するだろう」
オーウェンは言葉を絞り出すように続けた。
「彼女の本来の魂を救うには……君の槍で、彼女を物理的に止めるしかない」
「――――っ!!」
「至高の純潔」を掲げ、記憶を失った16歳の純真な持子を深く、不器用に愛している竜の心に、激しい衝撃が走った。
(俺が……持子を……!?)
竜の魂に刻まれた前世のトラウマがフラッシュバックする。愛した女を救えず、自らの手で血を流したあの凄惨な記憶。
だが、それ以上に……最愛の幼馴染の魂を救いたいという、強烈な保護欲が彼の心を支配した。世界中が敵に回ろうとも、己の命に代えて彼女を護り抜く。彼女の業もカルマも、自分がすべて断ち切る。それが、高倉竜の悲壮なる覚悟だった。
「……俺が、持子を止めます」
竜は、ギリッと血が滲むほど強く拳を握りしめ、己の身の丈を超える愛槍を見つめた。
「俺の命に代えても……あいつの魂だけは、護り抜く」
深く頭を下げて司令室を出ていく竜の背中を、オーウェンの冷徹な視線が見送る。
(すまないな、竜君。だが、君のその真っ直ぐな愛も……私がルチアを迎えに行くための、盤上の駒に過ぎないのだよ)
冷たく無機質な壁に覆われた、エクリプス極秘指揮所の廊下。
右手に握る愛槍が、今は鉛のように重かった。
* * *
竜の脳裏に、かつての記憶が鮮明に蘇る。
あれは、冬の札幌。肌を刺すような鋭い吹雪の中、幼い竜と彼の祖父は創成川のほとりを歩いていた。
その時、真っ白な雪景色の中で、今にも消え入りそうな小さな背中を見つけた。五歳くらいの少女だった。
冷え切った鉄の欄干に身を預け、すべてを飲み込むような黒い水面をじっと見つめている。足はすくみ、全身は凍りついているようだったが、彼女の魂がすでに限界を迎えているのは誰の目にも明らかだった。
(このまま飛び込む気か……)
竜が息を呑んだ瞬間、隣を歩いていた祖父が口を開いた。
「……待ちなさい」
低く、臓腑を直接揺らすような祖父の声に、少女がビクンと肩を揺らして振り返った。その瞳は虚ろで、絶望に満ちていた。
祖父は理由も聞かず、ただ「ついておいで」とだけ言い残して背を向けた。竜は無言で従いながら、磁石に引かれるようにフラフラとついてくる彼女の小さな足取りを、幾度も振り返って確かめていた。
行き着いたのは、雪の重みで今にも潰れそうなボロい平屋だった。
祖父は彼女を土間に座らせると、山盛りの白米、真っ黒な根菜、分厚い焼き魚が乗った盆を出した。五歳の子供には到底食いきれない量だ。
少女は箸を持ったまま、寒さと恐怖で縮み上がった喉を震わせ、泣き出しそうになっていた。
「強くなりたいのなら、食べなさい」
祖父のその一言が、彼女の何かを弾いた。
顔つきが変わり、ボロボロと大粒の涙をこぼし、吐き気と戦いながら、それでも無理やり飯を口に詰め込み始めた。生きるために、強くなるために、目の前の『命』を必死に自分の腹へと押し込んでいく。その泥臭くも力強い姿から、竜は目が離せなかった。
「機会は、今、与えた。あとは、お前が噛み砕くか、吐き出すかだ」
祖父の言葉に、彼女は自分の小さな泥まみれの手を見つめ、やがて顔を上げて力強く頷いた。
その純粋な決意を見た時、竜の胸の奥で何かが静かに熱を持った。
「高倉 竜」
彼が名乗ると、彼女もひび割れた唇を開いた。
「……恋問、持子」
その名を聞いた瞬間、竜は自然と笑っていた。不器用な彼には気の利いた言葉など言えなかったが、この真っ直ぐな魂を持つ少女を絶対に受け入れたいと思った。
「じゃあ、モッチだな! よろしくな、モッチ!」
この過酷な世界で、自分だけは絶対に彼女の味方でいると、その時すでに無意識の内に誓っていたのだ。
それから十一年。二人の生活は、血を吐くような合気武道の稽古と、極限のカロリー摂取の反復だった。円の理を身体に叩き込み、共に泥を舐め、互いの背中を預け合う兄弟弟子として育った。年月が経つにつれ、持子は長身と妖艶な美貌を持つ女へと成長していった。
そして、祖父が死んだ。
葬儀が終わった後、竜は決断を口にした。
「アメリカへ行く」
彼の魂の奥底には、強さを求める武神としての渇望があった。
「大丈夫なの? まだ、私より小さいのに」
今の竜はまだ発育の途中で、持子よりも頭一つ分背が低かった。
竜は精悍な笑みを浮かべ、彼女の肩を叩いた。
「これからだ。俺は、これから伸びる。もしも次に会う時は、モッチよりもデカくなってるさ。……強くな」
本当は、伝えたかった。幼い頃から共に汗を流し、互いを支え合ってきた彼女が誰よりも好きだと。
だが、まだ背も低く何者でもない自分に、その資格はないと思い込んでいた。異国の地で死線を潜り抜け、誰よりも最強の武神になった時、初めて胸を張ってお前の隣に立ち、この恋心を伝えよう。そう誓って、竜は己の想いに無理やり蓋をしたのだった。
あの日から竜は、武の極致を追い求め、SSSクラスの戦闘力を持つエージェントとして帰国した。胸を張って、彼女に想いを伝えるために。
だが、待ち受けていたのは残酷すぎる現実だった。愛する持子の身体は、あの忌まわしい『魔王・董卓』に乗っ取られているというのだ。
先ほどのオーウェン司令官の言葉が脳裏にこだまする。
『彼女の本来の魂を救うには……君の槍で、彼女を物理的に止めるしかない』
(……俺は、モッチを殺すのか?)
ギリッと、血が滲むほど奥歯を噛み締める。
董卓に支配された持子を殺さなければ、本来の魂は完全に消滅してしまう。彼女の魂を救うためには、自らの槍で心臓を貫くしかない。
(……ああ、俺はなんて馬鹿だったんだ)
胸の奥から、真っ黒な絶望と激しい後悔が溢れ出す。あの雪の日の別れ際、なぜ抱きしめて「好きだ」と告げておかなかったのか。
もし今、自分が持子の肉体を殺せば、彼女の魂は救われるかもしれない。だが……それは、永遠の別れを意味する。二度と彼女の陽だまりのような笑顔を見ることはできず、数え切れない死線を越えるたびに確信へと変わったこの強烈な『愛』を……永遠に伝えることができなくなる。
「う、ああぁぁぁぁっ……!」
喉の奥から、獣のような嗚咽が漏れた。
後悔、悲しみ、言葉にならぬ絶望が、竜の心をズタズタに引き裂いていく。護りたい。愛している。ただ、それを伝えたかっただけなのに。己の最強の武の力は、愛する女を殺すためにしか使えないというのか。
「……俺の命に代えても……あいつの魂だけは、護り抜く」
それは、己の幸福も、愛を告げる未来すらもすべて捨て去るという、血を吐くような悲壮な覚悟だった。
高倉竜は、絶望の涙を心の奥底に封じ込め、愛する者の命を奪うために、地獄の底へと続く暗い回廊を歩み始めた。




