【無自覚な二重スパイとスノー首脳陣の思惑】
【無自覚な二重スパイとスノー首脳陣の思惑】
深夜の東京。
高層ビル群のネオンが冷たく瞬く中、芸能事務所『スノー』本社ビルの社長室は、凍りつくような静寂に包まれていた。
室内の片隅で、プラチナブロンドの優雅なウェーブヘアを振り乱し、一人ガタガタと震えながら虚空に向かって必死に口を動かしている女がいた。
イギリスのトップモデルにして、その中身は悪魔学における大公爵・グレモリー。
しかし現在の彼女は、スノーの最下層である元・大悪魔、シャーロット・シンクレアである。
彼女は今、自身の僅かな魔力を振り絞り、アメリカ国家超常事態対策局『エクリプス』の司令官、ヴィンセント・オーウェンに宛てて、決死の暗号化念話通信を飛ばしていた。
『オ、オーウェン司令官! 話が違いますわぁっ!』
シャーロットは、極度のストレスと恐怖で完全に小物感丸出しの半泣き状態だった。
『そちらが陽動をかけて、スノーの本社を手薄にしてくれるお約束でしたのに! 雪社長と朔夜様は、一歩もここから動きませんのよ!?』
彼女の紫の瞳には、涙がぼろぼろと浮かんでいる。
彼女は、自分がオーウェンの優秀なスパイとして暗躍していると、本人だけはそう自覚していた。
しかし、それは大きな間違いであった。
シャーロットの魂の深淵には、立花雪と土御門朔夜の手によって、極めて高度で陰湿な陰陽術が幾重にも刻み込まれていたのだ。
その術式により、彼女は無意識のうちにスノー側に都合の良い情報を引き出し、オーウェンに流す「二重スパイ」へと作り変えられていたのである。
シャーロット自身には二重スパイであるという自覚が一切ないため、彼女の怯えや絶望は完璧なまでに「本物」である。
だからこそ、用心深いオーウェンも彼女の裏切りを疑うことはない。
無理もない。彼女の背後――高級な革張りのソファには、千年を生きる大陰陽師・立花雪と、天才陰陽師・土御門朔夜が陣取っているのだ。
彼らは言葉を発することなく、ただ静かに、そして息が詰まるほどの『絶対零度の殺気』をシャーロットの背中に向けて突き刺し続けていた。
『それどころか、背中からずっと恐ろしいプレッシャーをかけられて、わたくし、生きた心地がしませんわっ! こんな状況で、地下金庫にある『七星宝刀』を盗み出すなんて、絶対に不可能ですわぁっ!』
『……使えないな』
脳内に響いたオーウェンの声は、氷のように冷徹だった。
『ま、待ってくださいませ司令官! それに未来が……わたくしのタイムサイト(未来視)が、バグっておりますの!』
シャーロットはパニック状態のまま、さらなる異常事態を訴える。
『三人の持子様が視えたり、視えなかったり……パリにいる持子様、地下にいる持子様、それに……ああもう、未来の事象が矛盾しすぎていて、わたくしの頭がおかしくなりそうですわ!』
『……もういい。これ以上の通信は無用だ』
『ああっ、司令官!? お願いです、わたくしをここから助け――』
プツッ。
無情にも、通信は一方的に切断された。
「あ、あぁぁぁ……っ、そんな……」
シャーロットは絶望にその場にへたり込み、両手で顔を覆ってすすり泣き始めた。
通信が切断された直後、背後のソファで、スノーの首脳陣である二人が、極めて冷酷で楽しげな笑みを交わしていた。
「ふふっ。あの子、また泣きながらオーウェンに通信飛ばしてるわね。ご苦労なこと」
ネイビーのパンツスーツをスタイリッシュに着こなした立花雪は、優雅な手つきでティーカップを持ち上げ、香り高いアールグレイを啜った。
雪の横でタブレットを操作していた土御門朔夜が、鼻で嗤う。普段は傲岸不遜な「俺様」キャラを気取る朔夜だが、絶対的な師匠である雪の前では、徹底して従順な「僕」モードへと切り替わっている。
「ええ。ですが、あまり殺気を当てすぎてもいけませんね。完全にオーウェンに見限られて、あの子が切られたら困りますから」
「そうね。今はまだ、オーウェンとの回線を残しておきたいわ」
雪がティーカップをソーサーに置くと、カチャリ、と硬い音が室内に響いた。
「それで、首尾はどう?」
「完璧です」
朔夜は冷徹な眼差しをタブレットへ向ける。
「狙い通りの盤面になりました。これで向こうは地下に戦力を集中させるでしょう」
「そうね。オーウェンもバエルも、盤面を支配しているつもりになっているようだけれど……」
その瞬間、雪の瞳の奥に、千年を生きる大陰陽師にして、人魚の肉を喰らった不老の怪物としての、恐るべき『本物の殺気』が宿った。
「向こうが、シャーロットの予言のタイムリミットである『2日後』に最下層で勝負を仕掛けてくるつもりなら。こっちの『本命の準備』も、ちょうど間に合うわね」
「ええ。あちらには、ぜひ予定通りに動いてもらいましょう」
朔夜が嗜虐的な笑みを浮かべて同意する。
雪の冷たい微笑みは、悪魔以上に底知れず、そして酷薄だった。
愛する娘(持子)を脅かし、世界を都合よく作り変えようとする愚か者たちへの、絶対的な死の宣告。
「エクリプスごと、地獄の底に沈めてあげるわ」
最強の大陰陽師と天才陰陽師。
敵の策すらも、無自覚の二重スパイすらも盤上の駒として完全にコントロールし、すべてを利用し尽くす。敵の一手先ではなく二手三手先を読んで冷酷に微笑むスノー首脳陣の恐るべき手腕が、深夜の社長室で静かに、そして凶悪に光を放っていた。




