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【パリの夜、鏡に映る本当の私】

【パリの夜、鏡に映る本当の私】


パリの夜は、どこまでも優雅で、そして圧倒的だった。

世界的コングロマリット『リュクス・アンペリアル』のCEO、エレーヌ・リジュが用意した宿泊先は、セーヌ川を見下ろす超高級ホテルの最上階、プレジデンシャル・スイートであった。


「ひ、ひぇぇぇ……っ! なまら広い! なにこれ、本当にホテルのお部屋なの!? 」


重厚なマホガニーの扉を開けた瞬間、恋問持子は悲鳴のような歓声を上げてその場にへたり込んだ。

視界に飛び込んできたのは、まるでベルサイユ宮殿の一室をそのまま切り取ってきたかのような、絢爛豪華な空間だった。天井からは巨大なクリスタルのシャンデリアが眩い光を放ち、足元には毛足の長いペルシャ絨毯が敷き詰められている。アンティークの調度品はどれも美術館に飾られていてもおかしくない代物ばかりで、壁一面の巨大な窓からは、ライトアップされたエッフェル塔が黄金に輝きながらパリの夜空にそびえ立っているのが見えた。


「持子お姉さん、そのまま座り込んでいるとドレスにシワが寄ってしまいますよ」


パニックに陥る持子の背後で、風間楓が冷静な声で告げながら、キャリーケースを静かに室内に運び入れた。完璧な黒スーツを着こなす楓は、この常軌を逸した豪華さに対しても眉一つ動かさない。特級エージェントとして、彼女の視線はすでに部屋の構造、死角、窓の防弾ガラスの厚さ、そして隠しカメラや盗聴器の有無へと向けられていた。


「だ、だって楓ちゃん! これ、広すぎだよ! ソファだけで何人が寝転がれるの!? あっ、テーブルの上に置いてあるフルーツ、これ本物!? 蝋細工じゃないの!?」


「本物のウェルカムフルーツですね。毒物反応もありません。リジュさんが持子お姉さんのために用意させた最高級の品でしょう」


「な、なまらすごい……。パリって、こんなにお金持ちの国だったんだ……」


目を白黒させながら部屋の中をウロウロと歩き回る持子。記憶を失い、魔王としての傲岸不遜な自我を封印された現在の彼女は、根が純朴な16歳の女子高生そのものだ。そんな持子の姿を、楓は柔らかい眼差しで見つめていた。


「今日は長旅でしたし、ディナーの後はすぐに休まれるのがよろしいかと。明日は早朝から、カタコンベでの撮影が控えていますから」


「うぅっ……明日の撮影のことは、今は考えたくないよぉ……お墓で撮影なんて、絶対おばけ出るもん……」


しょんぼりと肩を落とす持子だったが、ふと気を取り直したように顔を上げた。


「そ、そうだね! まずはお風呂に入ってさっぱりしよ! 楓ちゃん、お風呂どこかな?」


「奥の扉ですね。どうぞ、先にお入りください。私はここで周囲の警戒と、明日のスケジュールの最終確認をしておきます」


楓の言葉に頷き、持子は奥の扉を恐る恐る開けた。

そして、三秒後。


「――か、楓ちゃあああん!!」


半泣きの声が響き渡り、持子が猛ダッシュでリビングへと戻ってきた。


「どうしましたか、持子お姉さん。まさか、何者かが潜んで……」


「ち、違うの! お風呂が! お風呂が広すぎて、一人じゃ怖いよぉ!!」


「……はい?」


楓が目を瞬かせる。持子に手を引かれてバスルームへと向かうと、そこには確かに『規格外』の空間が広がっていた。

全面が大理石で覆われたバスルームの中央には、もはや小さなプールと言っても過言ではない巨大なジャグジー浴槽が鎮座している。ライオンの口を象った蛇口からはお湯が滔々と注がれ、水面には無数の薔薇の花びらが浮かべられていた。さらに、備え付けのテレビや、シャンパンクーラーまで用意されている。


「な、なんだか落ち着かないよぉ……。足元はツルツル滑りそうだし、お湯の底から何か出てきそうだし……」


「……ただの超高級なジャグジーですよ、持子お姉さん」


「うぅぅ……一人だと、なまら心細いよぉ……」


持子は、モジモジと身体をよじりながら、上目遣いで楓を見つめた。その頬は少し赤く染まっている。


「あ、あのさ……もしよかったら、なんだけど……。楓ちゃんも、一緒に入らない……?」


「私が、ですか?」


「うんっ! ほら、このお部屋、護衛のために楓ちゃんと一緒にお泊まりするんでしょ? だったら、お風呂も一緒に入った方が、何かあった時に安心じゃない!? そ、それに……わたし、楓ちゃんと一緒にお風呂入りたいな、って……ダメ、かな?」


指先をツンツンと合わせながら、期待と不安の入り交じった瞳でこちらを見つめてくる絶世の美女。スキンシップが大好きな持子にとって、心を許した『家族』であり『大親友』である楓とのお風呂は、恐怖を紛らわすだけでなく、純粋な楽しみでもあったのだ。


そんな純度百パーセントの好意を向けられ、楓の冷徹なエージェントとしての仮面が、ほんの少しだけ緩んだ。


「……分かりました。お供しましょう。私も、持子お姉さんの御身をお護りするためには、片時もそばを離れないのが最善と判断します」


「ほんと!? やったぁ! 楓ちゃんなまら大好き!!」


持子はパァッと顔を輝かせ、楓の首にガバッと抱きついた。


「ちょ、持子お姉さん、まだ服のままですから。まずは脱衣所で準備を……」


「うんっ! 背中、流しっこしようね!」


***


湯気が立ち込める大理石のバスルーム。

シャワーブースの中で、二人は並んで座っていた。


「わぁ……楓ちゃん、すっごい筋肉……! 触ってもいい?」


「くすぐったいですよ、持子お姉さん」


持子は、楓の背中を泡立てたスポンジで優しく擦りながら、そのしなやかで無駄のない肉体に感嘆の声を漏らしていた。一見すると華奢な女子高生だが、その内側には鋼のように鍛え上げられた筋肉が密に詰まっている。無数の過酷な任務と地獄の修行を乗り越えてきた証だ。


「楓ちゃんって、いつもこんなに硬い筋肉してるのに、動く時はすっごく滑らかだよね。お昼に姿勢を直してくれた時も、魔法みたいだった」


「身体の軸を保ち、必要な時にだけ必要な筋肉を連動させる。風間家の武術の基礎です。でも、持子お姉さんの身体こそ、本当に素晴らしいですよ」


今度は楓が、持子の背中を流す番になった。

特級エージェントとしての観察眼を持つ楓から見ても、持子の肉体は『奇跡』と呼ぶにふさわしかった。透き通るような白磁の肌、極限までくびれたウエスト、そして豊満な胸。しかし、ただ柔らかいだけではない。合気武道の達人から叩き込まれた基礎と、トップモデルとして幾度もの極限の撮影を乗り越えたことで培われた、しなやかなインナーマッスルが全身を覆っている。


「私の筋肉が『戦うためのもの』だとしたら、持子お姉さんの筋肉は『魅せるためのもの』ですね。骨格のバランスも、筋肉の付き方も、すべてが完璧な黄金比です。……神が創り賜うた芸術品と言っても過言ではありません」


「えへへ……楓ちゃんにそう言われると、なまら照れるなぁ……」


持子は顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに身をよじった。


「わたし、記憶がないから……この身体をどうやって作ってきたのか、全然覚えてないんだ。でも、昨日の夜……もう一人の持子ちゃん(六花)が教えてくれたの。『お前の身体は、恥ずかしいものか? 違うだろう!』って」


「……ええ」


「だからね、この身体は、わたしがいっぱい努力して作った、誇れる身体なんだって……そう思えるようになったの」


「その通りです。あなたは、誰よりも美しく、気高い。……さあ、流しますよ」


シャワーで泡を洗い流し、二人は並んで巨大なジャグジー浴槽へと足を踏み入れた。

ポコポコと泡立つ温かいお湯に肩まで浸かると、持子は「ふぁぁぁ〜……」とだらしない声を上げて、完全に蕩けた顔になった。


「極楽だぁ……。やっぱり、お風呂は誰かと一緒に入るのが一番だねぇ」


「ええ。とてもリラックスできますね」


楓も目を閉じ、パリの夜の静寂とお湯の温もりを味わっていた。

しばらく無言のまま、心地よいお湯の音だけがバスルームに響いていたが、やがて持子が、ふと思いついたように口を開いた。


「ねえねえ、楓ちゃん」


「はい?」


「楓ちゃんってさ……好きな人とか、いるの?」


唐突な『恋バナ』の振りに、楓はわずかに目を見開いた。


「好きな人、ですか?」


「うん! だって楓ちゃん、すっごく綺麗だし、カッコいいし、モテるでしょ? 学校でも、男の子から告白されたりしないの?」


「……告白されることは、たまにありますが。すべてお断りしています。私には、果たすべき使命と任務がありますから。恋愛などにうつつを抜かしている暇はありません」


「えーっ、もったいない! 青春だよ、青春! 楓ちゃんも、普通の高校生なんだから、もっと恋とかしなきゃダメだよ!」


持子は浴槽の縁に身を乗り出し、興味津々な顔で楓に迫った。


「じゃあさ、もし付き合うとしたら、どんな人が好みなの?」


「好み……ですか」


楓は少し考え込むように視線を天井に向けた。


「そうですね……。最低条件として、私の兄よりも強くて、カッコいい人、でしょうか」


「…………は?」


持子の動きが、ピタリと止まった。


「あのさ、楓ちゃん」


「はい」


「楓ちゃんのお兄ちゃんって……あの、洋助さんだよね?」


「ええ。風間洋助です」


持子の脳裏に、氷川神社で出会った、あの爽やかで底知れぬ強さを持つ青年の姿が浮かんだ。無自覚に女性を狂わせるイケメン。これは雪から聞いたが『武器の天才』であり、凄まじい威力を放つ、文字通りの『化け物』だ。


「いやいやいやいや!! 絶対無理でしょ!!」


持子は、浴槽のお湯をバシャッと跳ね上げながら、全力でツッコミを入れた。記憶を失ってから、気弱でビビリな彼女がこれほど勢いよくツッコミを入れるのは珍しい。


「洋助さんより強い人なんて、この地球上のどこを探してもいないよ! あんなの、人間やめてるレベルじゃん! 楓ちゃん、それってつまり『一生彼氏作りません』って宣言してるのと同じだよ!?」


「そうでしょうか?」


楓は首を傾げた。


「兄は確かに強いですが、世界は広いですから。……それに、私は自分より弱い男に守られる趣味はありません。私の隣に立つのであれば、最低でもあの『建御雷・絶華』を止められる程度の男でなければ」


「だから! その時点で人類のカテゴリーから外れてるんだってば!」


持子は頭を抱えた。どうやら、この大親友の恋愛のハードルは、成層圏を突き抜けて宇宙空間にまで達しているらしい。


「うぅ……楓ちゃんがこじらせすぎてる……。葉室の桐子お姉さん(洋助の婚約者)が聞いたら、またヤンデレ発動してめんどくさいことになりそう……」


「持子お姉さんはどうなんですか?」


楓が、涼しい顔で話を切り返してきた。


「えっ? わ、わたし!?」


「ええ。持子お姉さんの初恋は、どんな方だったのですか?」


「わ、わたしの初恋……」


持子は、ぽっ、と頬を赤く染め、お湯の中に口元まで沈み込んだ。ブクブクと泡を立てながら、少し恥ずかしそうに目を伏せる。


「……幼馴染の、男の子だよ。名前は、りゅうっていうの」


「高倉竜……ですね」


「うん。わたしと一緒に、お爺ちゃんから合気武道を習ってたんだ」


持子の瞳が、遠い過去の記憶を映し出すように優しく細められた。記憶喪失の彼女でも、この淡い初恋の記憶だけは、胸の奥に温かい光として残っているのだ。


「あいつね、昔はわたしより頭一つ分くらい小さかったんだよ。でも、すっごく不器用で、いっつも真面目で……強くなることばっかり考えてて。わたしが泣いてると、何も言わずにそばにいてくれるような、優しいヤツだったの」


「…………」


「あいつ、強さを求めて、お爺ちゃんの『霊璽』だけを持って、たった一人でアメリカに行っちゃったんだよね。……別れる時にね、『もしも次に会う時は、モッチよりもデカくなってるさ。……強くな』って言ってくれて……」


持子は、自分の胸の前に両手を当て、その言葉を反芻するようにギュッと握りしめた。


「それっきり、全然会ってないんだ。……アメリカで、元気にしてるかな。ちゃんと、わたしより大きくなったのかな」


その横顔は、トップモデルのそれでもなく、傲岸不遜な魔王のものでもなく、ただ一人の少年を想う、純情で可憐な乙女の顔だった。


楓は、そんな持子の姿を静かに見つめながら、心の中で密かに思考を巡らせていた。


(……高倉竜。アメリカの国家超常事態対策局『エクリプス』に所属し、かつて東京大迷宮の最深部で、持子お姉さんを冷たく拒絶した男。……そして、持子お姉さんが魔王として完全に覚醒し、同時に七星宝剣の封印により心を閉ざす引き金となった存在)


楓は、その事実を絶対に口には出さなかった。今の持子にとって、竜は『美しい初恋の思い出』のままであるべきだ。残酷な真実を突きつけて、この純粋な笑顔を奪う権利は誰にもない。


「……きっと、立派な男性になっていると思いますよ」


「えへへ、そうだといいな! もし次に会ったら、合気武道の稽古して、どっちが強いか勝負しなきゃ!」


持子は無邪気に笑い、お湯の中で正座をして膝行のような動きをした。


「さて、長湯しすぎるとのぼせてしまいます。そろそろ上がりましょうか」


「うんっ! あー、さっぱりしたぁ!」


二人は笑い合いながら、ジャグジーを後にした。


***


シャワーを浴びて身支度を整え、広々としたベッドルームへと戻ってきた。

持子は、ホテルが用意したシルクの高級ネグリジェを身に纏っていたが、隣にいる楓の姿を見て目を丸くした。


「えっ……楓ちゃん、寝る時もその格好なの?」


楓が着ていたのは、可愛らしいパジャマなどではなく、全身にフィットする黒い特殊繊維のウェアだった。TIA(特務機関)が開発した、防弾・防刃性能を備えつつ、極限まで動きやすさを追求した薄手の戦闘服である。


「はい。私は護衛ですから。いついかなる時、どのような敵が襲撃してきても、一秒で戦闘態勢に入れるようにしておく必要があります」


「そ、そっかぁ……。でも、それじゃあリラックスして眠れないんじゃない? 苦しくない?」


「ご心配なく。着慣れていますし、通気性も抜群です。……さあ、持子お姉さんは明日の撮影に備えて、しっかり睡眠をとってください。ベッドは広いですから、ごゆっくり」


「う、うん。おやすみなさい、楓ちゃん」


「おやすみなさいませ」


部屋のメイン照明が落とされ、間接照明の淡い光だけが室内を照らす。

二人は、キングサイズの巨大なベッドの左右に分かれて横になった。


静寂が部屋を包み込む。

数分後。楓の呼吸が、規則的で静かな寝息へと変わったのを確認すると――持子は、ベッドの中でそっと目を開けた。


(……楓ちゃん、寝たかな)


持子は音を立てないように、ゆっくりとベッドから抜け出した。素足でペルシャ絨毯を踏みしめ、音もなく歩く。

向かった先は、先ほどまでいた大理石のバスルーム。

そこには、壁一面を覆う巨大な鏡が設置されている。

バスルームのドアを静かに閉めると、持子は鏡の前に立った。パリの夜景から差し込む微かな光が、彼女の姿を幻想的に照らし出している。


持子は、深呼吸を一つすると、身に纏っていたシルクのネグリジェの肩紐に手をかけた。

スルリ、と。

滑らかな衣擦れの音と共に、純白の布地が足元へと滑り落ちる。

鏡の中には、一糸纏わぬ全裸の絶世の美女が立っていた。


(……『恥ずかしがるな。お前の身体は、恥ずかしいものか?』)


昨晩、もう一人の自分(六花)から叩きつけられた言葉が、脳裏にこだまする。


(裸だと、ごまかしが効かない。骨の動きも、筋肉の連動も、全部はっきり分かる……)


持子は、洗面台の横に置かれていた小瓶を手に取った。

今日、六花から渡された『シャネルのNo.5』。

キャップを外し、指先にほんの少しだけ香水をつけると、うなじと手首にそっと忍ばせる。

洗練された、気高くも甘いフローラルの香りが、裸の身体をふわりと包み込んだ。

香りを纏った瞬間、不思議と背筋が伸びるような感覚があった。


持子は、鏡に映る自分自身と真っ直ぐに向き合った。


(……肩甲骨を寄せて、胸を開く。骨盤を立てて、丹田に軽く力を入れる……頭のてっぺんから、見えない糸で吊られているように……)


お昼に楓から教わった身体操作の極意を、一つ一つ、裸の身体で確認していく。

服を着ている時には分からなかった、微細な筋肉の動きや、骨格のバランスが手に取るように理解できた。


(あっ……ここ、少し右肩が下がってる。もう少し顎を引いて……視線は、真っ直ぐ前に)


ミリ単位でポーズを微調整していく。

その度に、鏡の中の少女は、気弱な女子高生から、圧倒的なオーラを放つ『美の化身』へと近づいていく。

白磁の肌に落ちる陰影、極限まで引き締まったウエストの曲線、そして、自信を帯びていく黄金の瞳。


(……わたし、綺麗なんだ……)


持子は、自分自身の肉体の美しさに、素直に感動していた。

記憶がなくても分かる。この身体は、決して生まれ持った才能だけで作られたものではない。血の滲むような努力と、ストイックな自己管理、そして、何かを表現しようとする強烈な意志が、この完璧な肉体を形作っているのだ。


(これが……『トップモデル』としての、わたしの武器。……もっと、もっと磨かなきゃ。明日の撮影で、リジュさんの期待に応えるために!)


持子の中に、プロとしての自覚と、美に対する純粋な向上心が芽生え始めていた。

夢中になって、様々なポーズを試し、筋肉の動きを確認し続ける。

自分の身体と対話する、静かで、しかし熱を帯びた時間。


「――……大変美しく、もっと観ていたいですが」


突然、背後から静かな声が響いた。


「ひゃうっ!?」


持子はビクゥッ!と肩を跳ね上がらせ、慌てて両手で胸と下腹部を隠しながら振り返った。

バスルームの入り口のドアに寄りかかったのは、腕を組んだ楓だった。暗闇に溶け込むような黒い戦闘服姿の彼女は、いつからそこにいたのか、全く気配を感じさせなかった。


「か、かかか、楓ちゃん!? ね、寝てたんじゃ……!」


「特級エージェントは、他者の呼吸音や気配のわずかな乱れで覚醒します。持子お姉さんがベッドを抜け出した瞬間から、起きていましたよ」


「ええええええっ!? じゃ、じゃあ……ずっと、見てたの!?」


「ええ。ネグリジェを脱ぎ捨てて、香水を纏うところから、ずっと」


楓は、表情一つ変えずに淡々と事実を告げた。

持子の顔が、ボフンッ!と音を立てるかのように、耳の先まで真っ赤に染め上がった。


「ばかっ! 変態っ! のぞき見!! なんで声かけてくれないのぉぉっ! わたし、一人でポーズとかとって、なまら恥ずかしいじゃない!!」


「邪魔をしてはいけないと思いましたので。……裸の身体で骨格と筋肉の動きを直視し、姿勢を矯正する。モデルとして非常に理にかなった、素晴らしい自己研鑽です」


「うぅぅぅっ……楓ちゃんの意地悪ぅ……っ!」


持子は涙目で抗議しながら、足元に落ちていたネグリジェを慌てて拾い上げ、身体に巻きつけた。


「明日は、あの過酷なカタコンベでの撮影です。睡眠不足は肌の敵ですよ。寝るのも、モデルの立派な仕事ですよ」


「わ、わかってるもんっ! 今寝ようと思ってたところだもんっ!」


持子は顔を真っ赤にしたまま、楓の横をすり抜けて、逃げるようにベッドルームへと駆け戻っていった。


「ああっ、もうっ! なまら恥ずかしいっ! お嫁にいけないっ!」


バサバサと布団を被り、ミノムシのように丸まって身を隠す持子。

その後を追って、楓も静かにベッドルームへと戻ってきた。

楓は、自分の側のベッドに腰掛けると、布団に包まってモゴモゴと動いている持子の方へ、優しく語りかけた。


「……ごめんなさい、持子お姉さん。意地悪をするつもりはなかったんです」


「……うぅ」


「でも……本当に、美しく感じたのは事実です」


楓の声は、いつもの冷徹なエージェントのものではなく、一人の少女としての、純粋な称賛と敬意に満ちていた。


「月明かりに照らされたあなたの姿は、息を呑むほど神々しく……そして、努力の跡が刻まれた、気高い肉体でした。持子お姉さんは、とても美しいですよ」


布団の中で、持子の動きがピタリと止まった。

楓の言葉には、お世辞も嘘も、一切混じっていないことがはっきりと分かった。

胸の奥に、恥ずかしさを上回る、じんわりとした温かい喜びが広がっていく。

自分の努力を、そして自分自身の美しさを、大好きな人に真っ直ぐに認められたこと。

それは、記憶を失い、不安を抱えていた持子にとって、何よりの励みとなった。


布団の隙間から、少しだけ持子の顔が覗く。

まだ頬は赤いままだったが、その口元には、嬉しそうな、柔らかな笑みが浮かんでいた。


「……えへへ。ありがとう、楓ちゃん」


「はい。明日の撮影、期待していますよ」


「うんっ! わたし、頑張るね!」


持子は、布団の中からスッと手を伸ばし、隣のベッドにいる楓に向かって小さく手を振った。


「おやすみなさい、楓ちゃん」


「おやすみなさい、持子お姉さん。良い夢を」


部屋の明かりが完全に落とされる。

シャネルNo.5の甘い香りが微かに漂う空間で、二人の少女は目を閉じた。

明日の過酷な撮影へのプレッシャーは、もうない。あるのは、互いを信頼し、認め合う温かい絆だけだ。

パリの夜の静寂の中、二人は幸せそうな、穏やかな寝息を立てて眠りについた。


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