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【魔王ではない王】

【魔王ではない王】


まだ薄暗いパリの早朝。

セーヌ川沿いの超高級ホテルから出発した黒塗りのリムジンは、パリの地下深くに広がる巨大な迷宮――地下墓地カタコンベの入り口へと到着していた。


「ひ、ひぇぇぇ……っ! なまら怖い! なまら怖いよぉっ!」


薄暗く湿った冷気が漂う地下空間に足を踏み入れた瞬間、恋問持子はガクガクと膝を震わせ、隣を歩く風間楓の腕にギュッと抱きついた。記憶を失う前は、ここで吸血鬼や異端審問官と死闘を繰り広げ、圧倒的な暴力でねじ伏せたはずの場所である。しかし、魔王としての記憶も力も失い、純朴な16歳の女子高生に戻ってしまった今の持子にとっては、無数の人骨が壁一面に積み上げられたこの空間は、ただのお化け屋敷以上の恐怖でしかなかった。


「大丈夫ですよ、持子お姉さん。私がそばについていますから」


「だ、だって楓ちゃん! あそこの骸骨、絶対こっち見てたよ!? 今、目が合ったもん!」


「骸骨に目はついていません。ただの空洞です。それに、万が一何かが起きても、私が一秒で物理的・魔術的に殲滅しますから安心してください」


「楓ちゃんの安心させるポイントが物理的すぎて全然安心できないよぉ!」


半泣きで抗議する持子をよそに、特級エージェントである楓は、隙のない足取りで地下墓地の一角に設けられた特設の撮影用ベースキャンプへと彼女を導いた。


「おはようございます、持子様。お待ちしておりましたわ」


ベースキャンプの中心で、世界的コングロマリット『リュクス・アンペリアル』のCEOであるエレーヌ・リジュが、完璧な漆黒のドレス姿で優雅に微笑んでいた。彼女の背後には、少数精鋭のプロフェッショナルなスタッフたちが、異常なまでの熱気を帯びて待機している。


「あ、おはようございます、リジュさん……」


「昨晩はよく眠れましたか? さあ、時間も限られております。すぐに準備に取り掛かりましょう」


リジュは傍らに立つ、ボサボサの髪に無精髭を生やした初老の男へと視線を向けた。

世界的カメラマン、ロレンツォである。かつて極東の魔王一行を嵐のイタリア戦線で撮影し、持子とその第一下僕である本多鮎の圧倒的なオーラをフィルムに収めた巨匠だ。


「ロレンツォ。事前の打ち合わせ通り、彼女は今……少しばかり『状態』が違います。記憶が混濁し、非常にデリケートな気弱な状態にあるわ。アプローチには細心の注意を」


「分かっとるさ、リジュ。……だが、俺が撮りたいのは『作り物の人形』じゃない。あの嵐のトレビの泉で見せた、あの圧倒的な『覇王』の魂だ。……記憶がなかろうが関係ねえ。魂の底に眠る炎を、俺のレンズで引きずり出してみせるさ」


ロレンツォは鋭い鷹のような目で持子を見据えた。持子はその眼光の鋭さに、「ひうっ」と小さな悲鳴を上げて楓の背後に隠れる。


「さあ、持子様。こちらへ。まずは衣装のフィッティングとメイクですわ」


リジュに促され、持子は仮設の更衣用テントへと通された。

そこで彼女を待ち受けていたのは、マネキンに着せられた『伝説の衣装』だった。


「…………えっ?」


持子は、その衣装を見て完全に硬直した。


「リ、リジュさん……これ……」


「ええ。かつてあなたが、このパリで伝説を作ったあのアヴァンギャルドな一着ですわ」


それは、衣服という概念を根底から覆す代物だった。

布地と呼べるものは極限まで削ぎ落とされており、あるのは色とりどりの極彩色の宝石と、それらを繋ぎ合わせる極細のチェーンのみ。胸の先端と局所を辛うじて宝石で覆い隠し、あとは全て素肌を晒すという、破滅的なまでに露出度の高い、まさに『狂気と芸術の結晶』であった。


「む、むむむ無理無理無理無理!! なにこれ!? 服じゃないじゃん! ただのジュエリーの網じゃん! エッチなのはダメですってばぁっ!」


顔を沸騰させたように真っ赤にして、持子はテントの端まで猛ダッシュで逃げ出した。記憶を失う前は、この衣装を平然と着こなし、自らメイクまで完璧にこなしていたはずだった。しかし、現在の固い貞操観念を持つ女子高生の持子にとって、これはもはや公開処刑に等しい。


「落ち着いてください、持子お姉さん」


「楓ちゃん助けて! あんなの着たらお嫁にいけないよぉ!」


「……とはいえ、これは仕事です。私が着付けを手伝いましょう。さあ、深呼吸して」


楓は冷静に持子をなだめ、衣装を手に取った。しかし……。


「…………これは」


数々の暗殺術や神術を極め、複雑な武器の扱いにも長けている楓ですら、その衣装の前でフリーズした。

宝石とチェーンが複雑に絡み合い、どこが首を通す穴で、どこが腕を通す部分なのか、全く見当がつかないのだ。さらに、チェーンが極細であるため、少しでも力を入れ間違えれば千切れてしまいそうな脆さがある。


「……申し訳ありません。あまりにも攻めすぎている構造のため、素人の私では着付け不可能と判断しました」


「楓ちゃーーんっ!! 諦めないでよぉぉっ!」


「プロに任せるのが一番です。リジュさんが用意した最高のスタッフがいますから。――メイクさん、スタイリストさん、お願いします」


楓がテントの入り口を開けると、待ち構えていたプロのスタッフたちが、ギラギラとした目を輝かせて雪崩れ込んできた。


「ひゃああっ!?」


「マドモアゼル! さあ、素晴らしい芸術の時間の始まりよ!」


「肌のコンディションは最高ね! さすがは伝説のミューズ!」


プロたちは手際よく持子を椅子に座らせると、瞬く間に彼女の衣服を剥ぎ取っていった。

魔王であった頃の持子は、自らの手で完璧なメイクを施し、誰の手も借りずに全てをこなしていた。しかし、今の彼女にはそんな技術も余裕もない。


「あわわわっ、ちょっと、そんなところまで触らないでっ!」


「動かないでください、マドモアゼル。……ああ、素晴らしい白磁の肌だ。でも、この究極の衣装を着るためには、全身の完璧なケアが必要ですわ。毛の一本すら許されません」


「け、毛の処理!? ま、待って、自分でやるから! ひゃうっ! そ、そこはダメぇっ!」


ワックスや見慣れない器具を取り出すスタッフたちを見て、持子は羞恥心と恐怖で完全にパニック状態に陥り、手足をバタバタとさせて大暴れし始めた。これでは、いくらプロでも作業が進まない。


「……見かねました」


静かにため息をついた楓が、スッと持子の背後に回った。

次の瞬間。


「ひゃっ!?」


楓の指が、持子の首筋と肩の特定のツボを的確に押し込んだ。合気武道と暗殺術の応用による、一時的な運動機能の麻痺。持子の身体からスッと力が抜け、椅子に深く沈み込む。


「か、楓ちゃん……身体が……動かない……」


「ごめんなさい、持子お姉さん。時間がないので、少々手荒な手段をとらせていただきました。痛みはありませんから、そのまま身を委ねてください」


「うぅぅ……楓ちゃんの鬼ぃ……悪魔ぁ……」


涙目で抗議する持子だったが、首から下は指一本動かせない。完全にまな板の上の鯉となった彼女に対し、プロのスタッフたちは歓喜の声を上げ、全身のボディケア、徹底的な毛の処理、そして極彩色の宝石衣装の着付けと完璧なメイクアップを、怒涛の勢いで進めていった。


***


数十分後。

地下墓地の最奥、無数の頭蓋骨が並ぶ壁面を背景に組まれた撮影セット。

そこに、準備を終えた恋問持子が立っていた。


「……おお」


ロレンツォが、カメラを構えたまま感嘆の息を漏らす。

極限まで布地を削ぎ落とした宝石とチェーンの衣装。それは、彼女の透き通るような白磁の肌と、完璧な黄金比のプロポーションを、隠すどころかむしろ神々しく際立たせていた。暗闇の地下墓地にあって、色とりどりの宝石が照明の光を乱反射し、彼女自身が発光しているかのような錯覚すら抱かせる。

だが……。


「……ダメだ」


ロレンツォが舌打ちをして、カメラを下ろした。


「うぅ……っ」


持子は、極度の羞恥心と寒さ、そして不気味な地下墓地の空気に飲まれ、両手で胸元を隠すように身体を丸め、オドオドと視線を泳がせていた。昨日、楓から教わった姿勢の矯正を頭では理解していても、いざカメラの前に立ち、無数の視線を浴びると、根底にある『気弱な女子高生』の性が表に出てきてしまうのだ。


「ロレンツォ。やはり、無理なのでは……」


リジュが心配そうに声をかける。


「被写体の素材は間違いなく世界最高だ。だが、魂が縮こまっちまってる。これじゃあ、ただの『綺麗な怯えた子猫』だ。俺が撮りたいのは、夜の闇すらも平伏させる『王』なんだよ!」


「ひぐっ……ご、ごめんなさい……わたし、やっぱりこんな衣装……」


涙目になる持子。撮影現場の空気が重く沈みかけたその時。

カメラの横で静観していた楓が、スッと一歩前に出た。


「ロレンツォ監督」


「ん? なんだ、嬢ちゃん」


「……少し、強めにいきます。カメラを回す準備を」


「強めに、だと?」


楓はロレンツォの問いには答えず、ゆっくりと持子の方へと顔を向けた。

そして、纏っていた『高校生の少女』としての柔らかな空気を完全に消し去った。


――ズンッ。


地下墓地の空気が、凍りついた。

それは、幾多の死線を潜り抜け、命を刈り取るために研ぎ澄まされた、特級エージェントとしての『本物の殺気』。

圧倒的な死のプレッシャーが、楓の身体から黒い波となって放射され、持子へと真っ直ぐに叩きつけられた。


「ひっ……!?」


持子の心臓が、早鐘のように打ち鳴らされる。

目の前にいるのは大好きな親友のはずだ。しかし、今の楓からは、自分を確実に殺しに来る絶対的な捕食者の気配しか感じない。

逃げ場のないカタコンベの暗闇。身を隠す布すら持たない無防備な肉体。そして、背筋を凍らせる圧倒的な殺意。

異常空間と化したその場所で、持子の身体の奥底に眠っていた『生存本能』が、強制的に引きずり出された。


(殺される……っ!)


本能が警鐘を鳴らす。呼吸が浅くなり、黄金の瞳が恐怖で見開かれる。

その極限の圧迫感の中で、持子の意識は、ふっと現実から切り離され――深い精神の海へと沈み込んでいった。


***


――真っ暗な精神世界。

そこには、足元だけが水面のように波打つ、果てしない空間が広がっていた。


『……情けない』


静かで、しかし絶対的な傲慢さを孕んだ声が響く。

持子がハッとして顔を上げると、そこには自分と全く同じ顔、同じ身体を持つ少女が立っていた。

いや、纏っているオーラが全く違う。全身から立ち上る、息が詰まるほどの極黒の魔力。見下すような冷たい視線。

それは、雪と朔夜によって創り出されたキメラの魔王であり、持子の『影』である六花だった。


「も、もう一人の……わたし……」


持子は、鏡写しのような自身の姿を前に、思わず後ずさる。


『その程度で王を名乗るな、小童こわっぱ


六花は、鼻で嗤うように言い放った。その口調は、かつて世界を恐怖で支配した魔王・董卓そのものだった。


『他者の視線に怯え、殺気にすくみ上がり、己の身体を隠そうと縮こまる。……それが、絶世の美貌と力を与えられた者の振る舞いか? 貴様のその醜い怯えが、この完璧な肉体の価値を地に落としておるのだ』


「うぅっ……だって! 怖いもん! こんな恥ずかしい格好で、怖いお墓の中で……楓ちゃんまで、本気で殺しにきそうな目で見てきて……っ!」


『泣き言をほざくな!』


六花の怒声が、精神世界に雷鳴のように響き渡る。


『貴様は、あの雪という女に、世界で一番美しいミューズだと認められたのではないのか! その期待から逃げ出すというのか! 貴様はただの気弱な小娘のまま、誰かに護られ、隠れて生きていくのか!』


「ち、違うっ!」


持子は、思わず声を張り上げていた。

雪の顔が脳裏をよぎる。天涯孤独だった自分を救い出し、無償の愛を与えてくれた、母のような存在。彼女の期待を裏切るのだけは、絶対に嫌だった。


「わたしは……わたしはわたしだもん! わたしだって、やればできるんだから!」


『口先だけなら何とでも言える。……貴様のその心は、まだ怯えておるではないか。わしという圧倒的な『魔王の威厳』を失った貴様など、ただの空っぽの人形にすぎぬ』


「人形じゃないっ!」


持子は、両の拳をギュッと握りしめ、六花を真っ直ぐに睨み返した。純朴な少女の奥底で、かつて『覇王』であった魂の欠片が、熱く脈動を始める。


「わたしは、誰の代わりでもない! わたし自身の力で、みんなの期待に応えたいの!」


『……ほう』


六花の冷たかった瞳に、わずかに挑発的な光が宿る。


『ならば証明してみせろ、その身体で! 貴様の中にある怯えを喰らい尽くし、全てをひれ伏させるほどの『王』の輝きを放ってみせよ! できぬというなら、その肉体の主導権、わしが永遠に奪ってやる!』


六花が、極黒の魔力を爆発させながら持子へと突進してくる。

持子は逃げなかった。合気武道の達人から叩き込まれた理が、反射的に身体を動かす。

正面から迫る六花の力を、恐れることなく両腕で受け止め――。


「証明してやる……っ!!」


持子の魂の叫びが、精神世界を純白の光で染め上げた。


***


――現実世界。

ほんの数秒の出来事だった。

極限のプレッシャーに身を縮めていた持子の身体が、ピタリと動きを止めた。


「……マドモアゼル?」


ロレンツォが、ファインダー越しに息を呑む。


スッ、と。

持子が、ゆっくりと顔を上げた。

先ほどまでの、怯えていた子猫の気配は微塵もない。

肩甲骨が寄り、胸が開き、骨盤が正しい位置に収まる。楓に教わった完璧な身体操作。だが、それだけではない。

彼女の黄金の瞳には、かつての『魔王』の冷酷な威圧感ではなく、しかしそれに敵するほどの――純粋で、気高く、圧倒的な『王の覇気』が宿っていた。


「……撮れ、ロレンツォ」


持子の薄い唇から、低く、しかし凛とした声が紡がれる。

それは、恐怖で他者を支配する暴君の響きではなく、自らの美しさと存在を全世界に証明せんとする、真なる女王の宣言だった。

暗闇のカタコンベの中で、彼女の身体に纏わされた極彩色の宝石が、彼女自身の内側から溢れ出すオーラと共鳴し、強烈な輝きを放ち始める。


「……ッ!! 最高だ!!」


ロレンツォが、狂ったようにシャッターを切り始めた。

フラッシュの閃光が、地下墓地の暗闇を連続で切り裂く。

持子は、カメラのレンズに向かって、次々と完璧なポージングを決めていく。

腕を天に伸ばし、指先まで神経を行き届かせた優雅な動き。腰を捻り、黄金比の曲線を極限まで魅せつける官能的なポーズ。そして、レンズ越しに見る者すべてを跪かせるような、圧倒的な眼力。


「おおおぉぉ……っ! 素晴らしい! これですわ、我が君……!」


リジュが、両手を組み合わせ、恍惚の表情で涙を流す。

楓は、自身の殺気をそっと収め、カメラの前で神々しく舞う親友の姿を、誇らしげに見つめていた。


(……ええ。あなたは魔王ではなくても、紛れもなく頂点に立つ『王』です、持子お姉さん)


「グラッツェ!! 完璧だ! 全て撮り切ったぞ!!」


ロレンツォの叫び声が、カタコンベに響き渡った。

その瞬間。


「…………へゅっ」


持子の身体から、ピンと張り詰めていた糸が切れたように力が抜け、彼女の身体がぐらりと傾いた。

極限のプレッシャーと、精神世界での対話、そして慣れない覇気を全開にしたことによる反動が、一気に押し寄せてきたのだ。


「持子お姉さん!」


崩れ落ちる寸前、楓が風のような速度で駆け寄り、その華奢な身体をしっかりと抱きとめた。


「ふぁ……か、楓ちゃん……わたし、ちゃんと、できた……?」


持子は、荒い息を吐きながら、涙目で楓を見上げる。その顔は、すっかり元の気弱な女子高生に戻っていた。


「ええ。完璧でした。世界で一番、美しかったですよ」


「えへへ……よかったぁ……。でも、もう、限界……」


持子は安心したように微笑むと、そのまま楓の腕の中で意識を手放し、気絶した。


「よく頑張りましたね。ゆっくり休んでください」


楓は持子を優しく抱き上げ、周囲の歓喜に沸くスタッフたちに向かって、静かに頷いてみせた。

伝説の衣装を纏った、新たなる『王』の目覚め。

その奇跡の一枚は、やがて世界のファッション界に、再び特大の激震を走らせることになるのだった。


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