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【パリの夜と、静かなる守護者】

【パリの夜と、静かなる守護者】


パリの夜景が美しく煌めく、セーヌ川のほとりにひっそりと佇む完全会員制の高級レストラン。

先ほどの『覚醒』の余韻も落ち着き、テーブルには芸術品のようなデザートが運ばれていた。


「わぁっ! これ、全部飴細工でできてるんですか!? なまら綺麗……食べるのがもったいないです!」


持子は目をキラキラと輝かせ、皿の上の精巧な薔薇のデザートを様々な角度から眺めている。記憶を失い、純朴な女子高生に戻った彼女の年相応の無邪気な反応に、向かいに座るリジュは蕩けるような笑みを浮かべていた。


「ええ、持子。あなたのために特別に用意させたものです。存分に味わってくださいね」


「はいっ! ありがとうございます、リジュさん!」


そんな和やかな空気の中、リジュはふと、紅茶のカップを持ち上げる動作の裏で、隣に座る風間楓へと鋭い視線を送った。

ほんの一瞬の、瞬きほどの合図。

楓は小さく頷くと、優雅な所作でナプキンをテーブルに置いた。


「持子お姉さん。私、少しお手洗いに行ってきますね」


「うんっ。いってらっしゃい、楓ちゃん」


「はい。すぐ戻りますから、リジュさんとお話を楽しんでいてください」


持子に優しい微笑みを向けた後、楓は静かに席を立った。

そして、プライベートダイニングの重厚な扉を開け、廊下へと出る。

扉が閉まり、持子の無邪気な笑い声が遮断された瞬間――楓が纏っていた『高校生の少女』としての柔らかな空気は、氷のように冷たく、無慈悲な特級エージェントのそれへと完全に切り替わった。


楓は迷うことなく、廊下の突き当たりにある別の個室へと足を踏入れた。


「――お待ちしておりました、マドモアゼル・カエデ」


薄暗い部屋の中で待機していたのは、およそレストランの客層とはかけ離れた、異形の集団だった。

血の匂いを漂わせる青白い肌の吸血鬼、頭部にヤギの角を生やした悪魔、そして、身体の半分が機械化された重装備のサイボーグなど、多種多様な種族が揃っている。彼らは皆、フランスの裏社会を牛耳る真祖の吸血鬼・エティエンヌの直属の部下たちだった。


「お疲れ様です」


楓は、歩み寄ってきた金髪の端正な顔立ちの男――彼らのリーダー格である吸血鬼と、極めて自然な動作でハグを交わした。それは、裏社会で共に血みどろの任務をこなす者同士の、信頼と連帯の証。


「状況は?」


ハグを解き、楓が単刀直入に尋ねる。


「……事前の情報通りです。ヨーロッパの裏社会は、我が主エティエンヌ様の手により完全に統制され、今は落ち着きを取り戻しています。しかし……」


リーダー格の男が、苦虫を噛み潰したような顔でタブレットを操作した。


持子の中に眠っていた『魔王』としての力が消失したという噂は、瞬く間に世界中の闇の勢力へと知れ渡っていた。

もちろん、日本側もただ手をこまねいていたわけではない。大陰陽師・立花雪と天才陰陽師・土御門朔夜が、持子と瓜二つの『影持子』を創り出し、東京の街でパレードを行ったり、ダンジョン攻略を大々的にアピールしたりすることで、「魔王は健在である」という強烈なカモフラージュを施していた。さらに、そのカモフラージュに疑いを持ち、ちょっかいを出してきた二つの闇の組織を、雪と朔夜が容赦無く物理的・魔術的に滅ぼしたことで、大半の勢力は完全に沈黙したはずだった。


「……裏社会にも、いえだからこそ死を恐れぬ『バカ』はいるものです。それも、中途半端に頭の回るバカはタチが悪い」


男がタブレットの画面を楓に見せる。


「情報の遮断とフェイクは完璧だったはずですが……どうやら彼らは、独自の嗅覚で『本物の恋問持子』がパリの郊外にいるという事実を掴んだようです。現在、パリ郊外の廃工場跡地に、武装した悪魔や傭兵の混成部隊が集結しています」


「数は?」


「約二百。前回、エティエンヌ様の命で徹底的に排除したはずの残党どもです。……すでに私の部下たちが廃工場の周囲に潜伏し、完全な包囲網を敷いてはいますが」


男は言葉を区切り、深く頭を下げた。


「直接ぶつかり合えば、奴らも死に物狂い。我々の眷属にも少なからず被害が出るでしょう。……できれば、一切の反撃を許さず、圧倒して終わらせたい。恐縮ですが、特級エージェントであるマドモアゼル・カエデに、助力を要請いたします」


「……なるほど」


楓はタブレットに映し出された地図を見つめた。


「地図を拡大してください」


男が画面を操作する。楓は、大きくバツ印がつけられた廃工場の位置と、その周辺の地形を冷徹な目で確認した。


「この付近に、人は?」


「我々の部下たち以外は、いません」


「分かりました。十分です」


楓はタブレットから目を離し、部屋に併設された広いバルコニーへと向かった。

冷たい夜風が、楓の黒髪を揺らす。

眼下には、光の都と称されるパリの美しい夜景が広がっているが、楓の視線はその遥か先、闇に包まれた郊外へと向けられていた。


バルコニーに出た楓を、エティエンヌの部下たちが固唾を飲んで見守る。

楓はスッと目を閉じ、頭の中に先ほどの地図を精緻に描き出した。

巫女としての研ぎ澄まされた感覚。パリの霊脈と自身の波長を同調させ、神術を行使する。


(……見えました)


遥か遠方の闇の中に蠢く、どす黒い魔力と殺意の塊。

持子を狙い、己の欲を満たそうとする『バカ』たちの醜い魂の光。


楓はゆっくりと目を開き、背後に控える部下たちに静かに告げた。


「これより、私が対象の地点にいるバカたちを射殺します。……あなたたちは、その後の掃討をお願いします。万が一、私の矢から逃れたバカがいた場合は、確実に殺してください」


「は、はい……」


楓は、何もない空間に向かって、スッと右手を差し出した。

極大の霊力が渦を巻き、空間そのものが歪む。

光の粒子集束し、楓の手に白銀に輝く巨大な弓が現れた。神話の時代より伝わる規格外の神術、神話級の宝具『生弓いくゆみ』である。


楓が静かに弓の弦を引く。

ギギギ……と、空気が軋むような音が響き、弦には実体のない『光の矢』が、一本、二本、十本、百本と、無数に顕現していく。


パリの夜空を照らすほどの強烈な光の奔流。エティエンヌの部下たちは、そのあまりの神々しさと暴力的なまでの霊圧に、思わず膝をつきそうになった。


「――消えなさい」


楓の薄い唇から、冷酷な死の宣告が紡がれる。

弦が放たれた。


シュドォォォォォォォォォォォォォッ!!!


無数の光の矢が、流星群のように夜空へと放たれた。

それらは放物線を描くことなく、まるで意思を持つかのように虚空を駆け抜け、地図で確認した数十キロ先の郊外の廃工場へと正確無比に降り注いだ。

遥か遠方で、音のない閃光が弾ける。

悪魔の強靭な肉体も、装甲も、魔術的な結界も、すべてを無に帰す絶対的な『浄化と破壊の光』。

悲鳴を上げる間もなく、二百の敵は文字通り消し炭となってパリの闇へと消え去った。


「……これで大丈夫です」


楓は生弓を空間に溶かすように消滅させると、振り返り、少しだけ微笑んだ。


「あの着弾の中心にいた者は、全滅しているはずです」


「な、なんという……」


リーダーの男は、バルコニーから遠くの空を見つめ、ガクガクと震えていた。

報告には聞いていたが、日本の特級エージェントの力は、次元が違いすぎる。あれほどの広範囲を、しかもこれほどの遠距離からピンポイントで殲滅するなど、まさにバケモノの所業であった。


「素晴らしいですね」


楓は、冷や汗を流す男に向かって、心からの称賛を口にした。


「エティエンヌには、本当に優秀な部下が揃っている。敵の情報を正確に掴み、無駄な被害を出さないために、躊躇なく『私を使う』という機転……完璧です。高く評価します」


「も、もったいないお言葉です……」


「あなたは、パリを治める代表者ですか? お名前は?」


「はい。ガブリエル・ド・モンフォールと申します」


ガブリエルは、深々と頭を下げた。


「ガブリエル・ド・モンフォールさん。覚えておきます」


楓は上品に微笑んだ。


「後で、あなたの直接の連絡先を教えてください。これからのパリ滞在中、またあなたたちに『使われる』ことがあるかもしれません。もしかしたら、わたしが『使う』かもしれませんから」


「か、畏まりました……!」


楓が柔らかな笑みを浮かべ、再びレストランの個室へと戻っていく。

その背中を見送った後、ガブリエルの耳元の通信機から、廃工場の周囲に潜伏していた部下からの報告が入った。


『……ガブリエル様。た、対象の完全消滅を確認。全員の死亡を確認しました。生存者、ゼロです……!』


「……了解した。撤収しろ」


ガブリエルは通信を切り、ドッと壁に寄りかかった。


「ははっ……」


乾いた笑いが漏れる。恐怖で足の震えが止らなかった。

(あれが、持子様を護る日本の特級エージェント……。本当に、味方で良かった……)

もし自分たちが少しでも持子に害意を抱いていれば、あの光の矢は自分たちの頭上に降り注いでいたのだ。ガブリエルは、心の底から安堵のため息を吐いた。


しかし――ガブリエルの部下の目が届かぬ爆炎の深淵、神聖なる光の死角において、奇跡と呼ぶべき狂執によって、ただ一人だけ肉体を残して生き延びた男がいた。


イギリス人の男、エドワード・キングスレイ。

彼はヨーロッパに暗躍する秘密組織『黒き聖堂騎士団』の副団長を務める男であった。


「ガふっ……おのれ……エティエンヌ……! そして、魔王、持子……!」


焼けただれた漆黒の甲冑の隙間から大量の血を吐き出しながらも、エドワードの瞳にはどす黒い憎悪の炎が燃え盛っていた。

本来、彼ら黒き聖堂騎士団がこの地へ赴く理由はなかった。しかし、団内で絶大な影響力を持つ謎の人物『オーウェン』がもたらした緻密な情報に、エドワードは完全に踊らされていたのだ。

『エティエンヌが貴殿らの同胞を屠った。そしてその背後には、力を失ったと偽る魔王・恋問持子が潜んでいる。今こそ真の仇を討つ好機だ』と。


エティエンヌへの深い恨みに突き動かされ、その主人である魔王・持子の暗殺を目論んで襲撃部隊に加わったエドワードだったが、待っていたのは日本の特級エージェントによる理不尽な神罰の光であった。


「まだだ……私は、まだ死ねん……! 団長………私は、必ずや奴らの首を……!」


肉体をボロ雑巾のように引きずりながら、エドワードはあらかじめ用意していた緊急脱出用の隠蔽魔術を起動した。空間の裂け目に身を投じ、彼は命からがら、黒き聖堂騎士団の本拠がある母国イギリスへと生き延び、逃げ延びることに成功した。

パリの夜空の下、狂信的な暗殺者の怨念だけが、国境を越えてイギリスの地へと持ち越されることとなった。


     * * *


「お待たせしました」


楓がプライベートダイニングの扉を開けると、そこには先ほどと全く変わらない、優雅で穏やかな時間が流れていた。


「あ、楓ちゃん! おかえりー! 見て見て、このお花も飴でできてるんだよ!」


持子が嬉しそうに手を振り、デザートを指差す。

楓は指定の席に座り、ナプキンを膝にかけながら、フッと柔らかな、年相応の少女の笑みを浮かべた。


「本当ですね。すごく綺麗です」


リジュは、紅茶のカップをソーサーに置き、楓の顔をチラリと見た。


「……もう、終わったの?」


その言葉の裏にある「パリの掃除」という意味を、楓だけが正確に受け取る。


「はい」


楓は短く答え、用意されていた自分のデザートのフォークを手にとった。


「とてもスムーズに。……最高級の、素晴らしい手際でした」


そう言いながら、何事もなかったかのように食事を続ける。

しかし、楓の指先が、わずかにフォークを握る力を強めた。完璧に空間ごと浄化したはずの網の目に、ほんの一瞬だけ、奇妙な『歪み』が生じた感覚。まるで、死線を無理やりねじ曲げて脱出した極小の影があったかのような、巫女としての微かな違和感。


「ん? 楓ちゃん、何かあったの?」


リジュと楓の間の、ほんの僅かな意味深な空気を察知し、持子が小首を傾げて尋ねた。

楓は、目を細め、目の前にいる、自分が護るべき純真で気弱な少女に向けて、極上の微笑みを向けた。


「何もありませんよ、持子お姉さん。……ただ、パリの夜風が、少し冷たかっただけです」


持子の平和な世界。それを脅かすノイズは、一つ残らず私が射抜く。たとえそのノイズが、どこか遠い異国へと逃げ延びようとも。

楓の静かな決意を乗せた言葉に、持子は「そっかー、風邪ひかないようにね!」と無邪気に笑い返すのだった。


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