【無自覚魔王のパリ・ディナー】
【無自覚魔王のパリ・ディナー】
パリの中心部、セーヌ川のほとりにひっそりと佇む完全会員制の高級レストラン。
クリスタルのシャンデリアが眩い光を放ち、アンティークの調度品が並ぶ個室で、最新のハイブランドドレスに身を包んだ18歳の恋問持子は、完全に借りてきた猫のように縮こまっていた。
「さあ、持子様。遠慮なさらず、お好きなものをお召し上がりください。本日はあなたのために、パリ最高のシェフを貸し切っておりますのよ」
テーブルの向かい側で優雅に微笑むのは、世界的コングロマリット『リュクス・アンペリアル』のCEOであり、パリのファッション界に君臨する女帝、エレーヌ・リジュだ。
漆黒のドレスを纏い、まるで聖母のように優しく微笑みかけてくる彼女だが、その眼差しの奥には、持子に対する狂信的なまでの忠誠心と熱がドロドロと渦巻いている。
しかし、今の持子は記憶を失ったただの「ビビリな女子高生」である。
「あ、あうう……ありがとうございます、リジュさん……。でも、ナイフとフォークがいっぱいあって、どれを使えばいいか……」
「ふふ、可愛らしい。私が切って差し上げましょうか?」
「だ、大丈夫です! 自分でやりますぅ!」
オドオドとカトラリーを握りしめる持子の横で、完璧な黒スーツ姿の風間楓が、静かに、しかし鋭い視線で周囲を警戒していた。
食事の合間、リジュは甘くうっとりとした声で語り始めた。
「……それにしても、今のあなたのその初々しい姿も愛おしいですが、カメラの前に立った時のあなたは、まさに『王』でした。周囲の空気を一変させ、すべてをひれ伏させる圧倒的なカリスマ……。あの神々しいまでの覇気、今でも私の魂を震わせますわ」
「わ、わたしが……王様?」
持子は困惑した。
記憶を失ってからネットで調べた「魔王」としての自分の姿が脳裏をよぎるが、どうにも実感が湧かない。
「そんなの、信じられないよ……。わたし、ただの孤児院育ちで……いじめられっ子だったのに」
しかし、リジュのその声を聞き、彼女の深く昏い瞳を見つめているうち、持子の脳内に「ノイズ」が走った。
――ズキッ。
(えっ……なに、これ?)
今の時代ではない、遥か昔の風景。砂埃が舞う荒野と、軍議の天幕。
そこには、絶対的な自信に満ちて戦略を語る「自分(董卓)」の姿があった。
そして、その隣で冷徹な知謀を巡らせ、自分と肩を並べて命を預け合っていた軍師――李儒の姿が、目の前のリジュの顔とぼんやりと重なっていく。
(この人……ただの、仕事の取引相手じゃない)
記憶の断片が、持子の心を激しく揺さぶる。
(昔のわたしにとって……ものすごく、大切な存在だったんだ。命を預け合うくらいに)
持子の中で、リジュは「怖いCEO」から「大事な仲間、親友」へと認識が書き換わっていく。
しかし同時に、強烈な違和感が襲う。
(リジュさんから、その『李儒』って人の気配がなんとなくする……。じゃあ、わたしも、誰かの生まれ変わり……?)
その思考の先には、深淵(暴君・董卓の業)が口を開けていた。
持子の本能が警鐘を鳴らし、無意識のうちにその思考を強制シャットダウンする。
「……持子様?」
「あっ、ううん! なんでもないの!」
持子は慌てて首を振った。
そして、リジュが用意してくれたタブレットの画面に目を落とす。そこには、過去の自分がリュクス・アンペリアルの服を完璧に着こなしている映像や写真が映し出されていた。
(すごい……。これが、わたし……?)
昨晩、ペントハウスで自分を叱咤した「もう一人のわたし」の言葉が蘇る。
『恥ずかしがるな。お前の身体は、恥ずかしいものか?』
持子はギュッと拳を握りしめた。
(恥じゃない。これは、表現なんだ。わたしも……この服を、こんな風に綺麗に着こなしたい!)
「リジュさん! わたし……やってみたい! ちゃんと、ポーズとってみる!」
持子は勢いよく立ち上がった。
先ほど楓に直された姿勢を思い出し、胸を張り、骨盤を立てようとする。しかし、リジュの熱を帯びた視線を一身に浴びた瞬間、極度の緊張が襲ってきた。
「あわわ……っ、えっと、こう? いや、手はこっち……?」
カクカクとしたロボットのような動きになり、持子は顔を茹でダコのように真っ赤にしてアウアウとパニックになる。
「あぁ……持子様。無理をなさらなくて良いのですよ」
リジュは優しく微笑みながら立ち上がり、持子の両手をそっと握った。
「深呼吸して……。思い出せないのなら、頭で考えるのではなく……感じてください。私が、あなたにどんな姿を見たいと感じているのかを」
リジュの手の温もりと、言葉の奥にある「期待」。
その瞬間、持子の身体の奥底――細胞レベルに刻み込まれた『魔王の技術』が、反射的に起動した。
スッ、と空気が変わる。
完璧な脱力と、計算し尽くされた黄金の角度。彼女が顔を上げたその一瞬、レストランの空間が彼女を中心に回り始めたかのような錯覚に陥る、極上のポージング。
「あっ……!」
リジュが息を呑む。
しかし、それは一秒しか持たなかった。
「ぷはぁっ! む、無理ぃ! 息が止まるかと思ったぁ!」
持子はすぐにふにゃりと崩れ落ち、元の気弱な女子高生に戻ってしまった。
「……なるほど。身体は覚えているようですね」
それまで静観していた楓が、腕を組みながら冷徹な声を上げた。
「リジュさん。彼女には、極限のプレッシャーが必要です。温室のレストランでいくら待っても、完全な覚醒はしません」
「ええ、荒療治が必要ということですね」
リジュの目が、鋭いビジネスウーマンのそれに切り替わる。
楓は静かに言葉を継いだ。
「……東京のダンジョンで、あなたが惜しみなく資金と戦力を投じて後方支援をしてくれたように。ここパリでは、私が最前線で彼女を護り、導きます」
リジュはふふっと口角を上げた。
「頼りにしていますわ、楓。私とエティエンヌがパリの裏社会を平定した際も、あなたの力には大いに助けられましたからね。……互いに言葉は少なくとも、背中を預け、命を預け合える戦友がいるというのは心強いものですわ」
クールな二人の間に、幾多の死線をくぐり抜けてきた者同士にしか分からない、確かな信頼と絆が交差する。
「では、明日の朝一番で撮影のセッティングを行いましょう。舞台は……パリの地下墓所」
「かつてルージュと出会った、あの地下墓地ですね」と楓が確認する。
「ええ。彼女の記憶を呼び覚ますには最適な極限環境ですわ。……そして衣装は、イタリアの巨匠が仕立て上げた究極のドレス」
リジュの瞳が妖しく光る。
「布地を極限まで削ぎ落とし、色とりどりの極彩色の宝石と極細のチェーンのみで繋ぎ合わせた、あのアヴァンギャルドな一着。……あの伝説を作った衣装を用意しておりますわ」
「ええええええ!? !? お墓で撮影するの!?アヴァンギャルドな一着って何?!」
パニックになる持子をよそに、二人は淡々と明日の地獄のスケジュールを確定させていく。
持子は泣きそうな顔で、リジュの前に立った。
そして、無意識だった。
ごく自然な動作で、持子は自分の額を、リジュの額にコツンと合わせたのだ。
それは、かつて『王』が、最も信頼する臣下を労う時に見せていた所作。
ドクン、と持子の胸の奥で、封印されていたはずの『漆黒の魔力』が脈打ち、リジュとの間に極太の『念話のパス(心のパス)』が形成された。
『――リジュさん』
(なっ……持子様!? この魔力、まさか、記憶が!?)
念話の中で、リジュは狂喜した。あの圧倒的な魔王が帰還したのだと。
しかし、流れ込んできた声は、威厳に満ちた暴君のものではなく、等身大の優しい少女のものだった。
『雪さんと同じくらい、わたしのことを大切にしてくれてありがとう。リジュさんは……わたしにとって、二人目のお母さんか、歳の差で考えたら頼れるお姉ちゃんみたいな存在だよ』
(お、お母さん……お姉ちゃん!?)
リジュは予期せぬ言葉に絶句する。
『昔のことはよく覚えてないけど……あなたが、わたしにすべてを捧げてくれようとしているのは分かる。……あなたの忠誠は、臣下としてちゃんと受け取るよ。でもね』
持子の魔力が、ふわりと温かいものに変わる。
『リジュさんには、とっても大切な人がいるんでしょ? 名前ははっきり思い出せないけど……なんとなく、わかるよ』
(っ……!)
『わたしのためだけに生きるなんて、ダメ。女としての個人の幸せは、絶対に手放しちゃダメだよ。それは……王様からの、命令だからね』
それは、かつてパリで魔王が下した慈悲と全く同じものだった。
記憶を失ってなお、彼女の魂の根底にある「王としての器」と「優しさ」は少しも変わっていなかったのだ。
(ああ……我が君。あなたは、記憶を失ってなお、私を導いてくださるのですね)
リジュの心の中にあった「過去の亡霊(李儒)への狂信」が、目の前にいる純粋な少女への「真の意味での理解と感謝、そして忠誠」へと昇華されていく。
『――御意に。このエレーヌ・リジュ、王命として確かに承りました。生涯あなたに仕え、そして私自身の幸せも必ず掴み取ってみせます』
スッ、と額が離れる。
リジュは、憑き物が落ちたような、どこまでも清々しく美しい笑みを浮かべていた。
一方、持子の内面は――。
(や、やらかしたぁぁぁぁぁっ!?)
(なんか無意識にカッコつけて額とか合わせちゃったけど、すっごい偉そうだったよね!? あああっ、普通に「お姉ちゃーんと甘えさせてください」って言いたかったのにぃぃ!)
顔から火が出そうなほど恥じらい、心の中で頭を抱えてのたうち回っていた。
「……ふふっ。さあ、持子様。すっかり冷めてしまいますわ、お食事の続きをいただきましょう」
リジュが、それまでの熱に浮かされたような顔ではなく、心からの穏やかな笑顔で持子に席を勧めた。
「う、うん……」
持子はモジモジしながら席につき、目の前の豪華な肉料理にフォークを伸ばす。
「覚悟は決めたけど……でも、緊張や不安を感じないわけじゃないんだよぉ……」
持子は切り分けた肉を見つめながら、ぽつりと愚痴をこぼした。
「明日からお墓でアヴァンギャルドな衣装で撮影だなんて……こんなプレッシャーの中じゃ、せっかくの料理の味もわかんないよぉ……」
ぱくり。
持子は、しょんぼりとした顔のまま、お肉を口に運んだ。
もぐもぐ。
「…………っ!!」
カッ!! と持子の黄金の瞳が見開かれる。
「なまら美味い!!!」
レストランの個室に、女子高生の大ボリュームの絶叫が響き渡った。
「……味、しっかり分かってるじゃないですか」
すかさず楓が、冷徹な顔のまま的確なツッコミを入れる。
「だって! なにこれお肉すっごい柔らかいしソースが甘くてコクがあって……! パンおかわり!!」
「持子お姉さん、ここは定食屋じゃありません」
アワアワと騒ぐ持子と、それに淡々とツッコミを入れる楓。
そのコントのようなやり取りを見て、リジュは口元を手で覆い、肩を揺らした。
「ふふっ……あははははっ!」
それは、パリの女帝としての仮面も、李儒としての狂気も忘れた、一人の女性としての自然で楽しげな笑い声だった。
美味しい料理と温かい笑い声に包まれた夜のパリ。
明日から始まる「カタコンベでの地獄の撮影」への不安を抱えつつも、持子は大切な仲間たちと共に、極上のディナーを心ゆくまで堪能するのだった。




