【完璧な彼女の密かな心配と、エスプレッソの余韻】
【完璧な彼女の密かな心配と、エスプレッソの余韻】
食後の芳醇なエスプレッソの香りが、静謐なイタリアンレストランの個室を優しく包み込んでいた。
完璧なティラミスを味わい終え、満ち足りた吐息を漏らした高橋玲央に対し、門蒼真はエスプレッソのカップを静かにソーサーへと戻し、再び真剣な、しかしどこか温かみを帯びた眼差しを向けた。
「……高橋。先ほど、俺は弁護士になると言ったが……夢を叶えるためには、どうしても越えなければならない現実的な問題がある。……金だ」
「金、ですか?」
玲央は少し小首を傾げた。
完璧な女優を目指し、自己研鑽にすべてを注ぎ込んできた彼女にとって、生々しい資金の話は少し意外だった。
「ああ」と門は静かに頷く。
「俺の家は、ごく一般的な家庭で、決して裕福とは言えない。本当は学費の負担が少ない、地元の優秀な公立高校に行きたかったんだが……恥ずかしながら、俺の学力では無理だった」
「ふふっ……門くん、お勉強は少し苦手ですものね」
自嘲気味に語る彼に、玲央は眼鏡の奥の瞳を和らげ、意地悪ではなく愛おしむような微笑みを向けた。
「ああ、その通りだ。だから大学はどうしても国公立を目指すしかなかった。だが、それでも受験費用や予備校代、入学金はどうしてもかかる。親にはこれ以上、無理な負担はかけられない。……だから、前回の『東京ダンジョン』での激闘で得た、魔石とアイテムの買取金は、俺にとって本当に有難いんだ」
「なるほど……。命懸けで得た報酬が、門くんの夢への切符になるのですわね」
門は自身の太い両手を、テーブルの上でゆっくりと組んだ。
「本来、俺たち『スノー』の規定では、未成年が危険手当や魔石の買取などで得た大金は、道を踏み外さないよう、二十歳になって成人するまで事務所が預かって厳重に管理する決まりになっている」
「ええ。雪社長らしい、理にかなった素晴らしいルールですわ」
「ああ。だが……俺が弁護士を目指していて、どうしても今の段階で受験の費用や学費が必要だと、ダメ元で立花雪社長に相談したんだ」
門の口元に、深い感謝と敬意の念が滲む。
「そうしたら雪社長は、俺の家庭の事情や覚悟を深く考慮してくれてな。特別に、俺の大学受験の受験料や学費の為に、事務所が預かっている俺のお金を、必要な時に渡してくれることになったんだ」
「雪社長が……特例を……」
「ああ。その件が解決したおかげで、国公立だけでなく、私立大学の法学部も受験できることになった。選択肢が大きく広がって、俺は本当に喜んでいるんだ」
門は、真っ直ぐな瞳で玲央を見つめ返した。
「俺みたいな普通の高校生が、自分の力でこんな大金を得る機会なんて、絶対にあり得なかった。俺たちのつまらない事情に耳を傾け、親身になってくれる立花雪社長と……そして何より、俺たちに戦うための『異能の魔力』を与えてくれた恋問持子先輩に、俺は深く感謝しているんだ」
飾らない、真実の言葉。
その言葉を聞いて、玲央は黙って深く頷いた。
「……ええ。私も、まったく同じ気持ちですわ」
玲央は、テーブルの上に置いた自身の華奢な両手をそっと見つめた。
白く細い指先。しかし今、この手の中には、常人には決して持ち得ない、『闇の魔力』が確かに脈打っている。
「本当に、あの夏の合気武道部の合宿のことは今でも忘れられませんわ。千手先輩と森先輩の課した、素振り千回に四股千回……あの常軌を逸した過度な稽古で、私たち一年生は完全に倒れて、指一本動かせなくなりましたもの」
「ああ。あの時、見かねた持子先輩が、俺たちの限界を超えて壊れた肉体を回復させるために、自身の魔力を使って癒してくれた。その回復の過程で、偶然にも先輩の極黒の魔力が俺たち全員の体に定着し、身についてしまったんだからな」
「ええ。あの偶然がなければ……いくら私が護身やアクションの役作りのために合気武道の完璧な型を身につけていたとしても、東京ダンジョンに巣食うような規格外の魔物に襲われたら、対処なんて絶対に不可能でしたわ」
大禍つ炉の最深部、死の恐怖が支配する戦場。
そこを生き抜くことができたのは、間違いなく持子から偶然与えられた魔力のおかげだった。
「持子先輩には、感謝してもしきれませんわ。それに……今の『スノー』に移籍してから、私はずっと目標だった大きな役を手に入れることができました。もちろん、私の完璧な演技力と日々の努力があってこそですが……!」
ツンと胸を張る玲央だが、すぐにふっと表情を和らげた。
「それでも、立花雪社長の的確なプロデュース手腕は本当に凄すぎますわ。口調は極寒のシベリアのように厳しいですけれど、ちゃんと私たち全員の未来や命のことを一番に考えて動いてくださっている。私が心から尊敬できる、数少ない『本物の大人』ですわ」
「そうだな。俺たち末端の事情まで汲み取ってくれる、底知れぬ器のある人だ」
門も深く同意するように頷いた。
しかし、玲央はそこでふと、眼鏡のブリッジをクイッと押し上げ、完璧な美貌に深々とした憂いのシワを寄せた。
「ただ……っ! そんな素晴らしい社長に対して、一つだけ、常日頃からどうしても言いたいことがありますの!」
「ん? なんだ?」
「あの事務所の直属の部下たち……副マネージャーの土御門朔夜さんと、雑用係のシャーロット・シンクレアさんの仕事量……いくらなんでも、狂っているほど多すぎませんこと!?」
玲央の口から飛び出した現実的すぎるツッコミに、門は目を丸くした。
「いつ見ても土御門副マネージャーは目の下に真っ黒なクマを作って、徹夜で書類の山と格闘していますわ! シャーロットさんに至っては、毎日コピー機とシュレッダーの前で死んだ魚のような目をして激務をこなしていますのよ!?」
玲央がここまで語気を強めるのには、彼女なりの切実な理由があった。
現在のスノーでは、魔力を持ってしまった一般科の学生を保護・管理するため、事務所がお金を渡す形式上の理由として「マネージャー(アルバイト)」の役職を与え、千手や森、門、佐藤には月に二十万円の報酬が支払われている。
一方、芸能科である阿部、玲央、南原の三人は、タレントとしての芸能活動の歩合制のお給料にプラスして、同じく二十万円の報酬を受け取っている。
そして、門が担当するタレントは他ならぬ玲央であった。
(門くんの担当タレントが私になっているのは、夏の合宿の露天風呂での恋バナを聞いていた持子先輩の粋な計らいだと、門くん自身は全く気づいていませんけれど……持子先輩には少しだけ感謝していますわ)
玲央は恋人である門を心配するあまり、バンッ、とテーブルを軽く叩き、憤慨したように身を乗り出した。
「門くんも、事務所からマネージャーの役職をもらっているのですからね! 今はまだお給料をもらっているだけかもしれませんけれど、雪社長のドSな采配のツケで、そのうち門くんまであんな風にこき使われて、ボロボロにされるのではないかと本気で懸念していますのよ!」
もっとも、玲央のその心配は完全に杞憂であった。
立花雪は、高校生である彼らに学業や青春を犠牲にするような過度な仕事を与えるつもりは一切ない。
土御門朔夜が激務なのは、彼が雪の直属の『陰陽道の弟子』であり、強い期待ゆえに極限の修羅場を与えて鍛え上げているからだ。また、シャーロットに関しては、かつてスパイ活動を行い持子と敵対した重大な前科があるため、持子が「奴隷」として庇護下に置いた彼女に対し、あえて死ぬ一歩手前の激務を課し続けているだけなのだ。
そんな裏事情など知る由もない玲央の、的確すぎる(しかし的外れな)ブラック労働への指摘と、何より自分を本気で心配してくれているその姿に、門は思わず肩を揺らして吹き出してしまった。
「ふっ……くくっ、はははっ!」
「な、なんですの! 私は門くんの弁護士の勉強の時間がなくなるんじゃないかって、真面目な話をして心配していますのよ!」
「いや、すまん。……お前がそこまで周りのこと……裏方の人間たちの苦労や、俺のことまで本気で心配して怒ってやれる女だったことが、なんだか嬉しくてな」
門が目を細め、底抜けに優しい笑顔を向けた瞬間、玲央の怒りは風船が割れたように消え去り、代わりに顔がカアッと熱くなった。
「っ……〜〜〜っ! そ、それはっ……完璧な女優たるもの、現場を支えるスタッフへの配慮は当然の嗜みですわ! 別に、門くんに褒められるために言ったわけでは……っ!」
「ああ、分かっている。……お前は本当に、完璧で、優しくて良い女だ」
「バ、バカッ……! もう、これ以上私をからかわないでくださいな……っ!」
顔を真っ赤にしてうつむく玲央を、門は愛おしそうに見つめる。
彼が弁護士になって理不尽と戦うその日まで。
そして彼女が完璧な大女優としてスクリーンで輝くその日まで。
(この手を……絶対に、離さない(離さないわ))
エスプレッソのほろ苦い余韻と、甘く幸せな笑い声が、冬の夜のイタリアンレストランにいつまでも響いていた。




