【不器用な彼の真っ直ぐな夢と、甘くほろ苦いデザート】
【不器用な彼の真っ直ぐな夢と、甘くほろ苦いデザート】
極上の黒毛和牛のフィレ肉が口の中でとろけ、芳醇な赤ワインと黒トリュフのソースの香りが鼻腔を抜けていく。
格式高い高級イタリアンレストランの静謐な空間で、高橋玲央は最後の一切れを惜しむように飲み込み、静かにナイフとフォークを皿の上に揃えた。
「……素晴らしいお肉でしたわ。火入れの完璧さ、ソースとの調和……まさに芸術品です」
「ああ。本当に美味かった。命をいただくという実感が湧く、力強い味だった」
門蒼真もまた、綺麗に平らげた皿の上にカトラリーを静かに置いた。
その無骨で飾り気のない所作だが、そこには食材と料理人に対する深い敬意が込められている。玲央は眼鏡の奥の瞳を細め、そんな彼の一挙手一投足に見惚れていた。
ふと、玲央の視線が、門がカトラリーを置く際に僅かに収縮した前腕の筋肉に引き寄せられた。
仕立てのいいシャツとジャケットの上からでもはっきりと分かる、丸太のように太く、隆起した筋肉。
大禍つ炉の激闘で、巨大な悪魔や重装歩兵を軽々と投げ飛ばし、分厚い鎧ごと敵の内部を粉砕した浸透勁の掌底を生み出す、圧倒的な力と鍛錬の結晶だ。
「……門くん」
「ん? どうした、高橋。まだ肉が食いたかったか?」
「違いますわ! そんな食い意地が張った子供ではありません! ……その、門くんの腕、ですわ」
「俺の、腕?」
門は自分の太い腕を不思議そうに見下ろした。
玲央は、ほんの少しだけ頬を染めながら、興味津々といった様子で身を乗り出した。
「ええ。合気武道部の稽古は確かに厳しいですけれど、それだけでそこまでの筋肉が作られるとは思えませんの。千手先輩ほどバキバキの体脂肪率5%とまでは言いませんが……門くんのその筋肉は、とても実戦的で、なおかつ美しい。普段、どうやって鍛えていらっしゃるの?」
完璧な女優を目指す玲央にとって、肉体改造やプロポーションの維持は至上命題である。
彼女自身、合気の稽古に加えて芸能科のハードなレッスンや自主的なストレッチ、筋力トレーニングを欠かさず行っており、同年代の女子に比べればかなり引き締まった、見事な体をしている自負があった。だからこそ、ストイックな努力の結晶である他者の肉体にも自然と目がいくのだ。
「ああ、これか。特別なことは何もしていない。合気武道部の基本稽古と、あとは……趣味の筋トレぐらいだ」
「趣味の筋トレ? 門くんがジムに通ったり、プロテインを計量したりしている姿はあまり想像できませんわね」
「ジムには行ってない。家で腕立てや腹筋やスクワットをするだけだ。……筋トレをすると、勉強が捗ると聞いたからな」
「……はい?」
玲央は思わず間抜けな声を出してしまった。
丸太のような腕を持つ硬派な武術家と「勉強」という単語が、どうにも結びつかなかったからだ。門は決して頭が悪いわけではないが、かといって成績上位の秀才タイプという印象もなかった。
「べ、勉強? 門くんが、お勉強のために筋トレを……? 合気武道の強さを追い求めているのではなく?」
「それもある。強くなる目的もあるが……」
門は真面目な顔で頷き、少しだけ視線を伏せた。
「……俺は、将来、弁護士になりたいんだ」
「…………弁護士?」
玲央の目が、眼鏡の奥でこれ以上ないほど丸くなった。
目の前にいる、高倉健のように朴訥として無口な少年が、六法全書を開いて法廷に立つ姿。あまりにも意外すぎる将来の夢だった。
「……何故ですの?」
玲央は無意識のうちに、声のトーンを落として真剣に尋ねていた。
門は少し困ったように頭を掻き、視線をテーブルの上のグラスに向けた。
「……つまらない話だ。せっかくの美味い飯の余韻が台無しになる。やめておこう」
「聞きたいですわ」
玲央は即座に、きっぱりと言い切った。
「私は、門くんのことをもっと知りたいのです。あなたが何を背負い、何を目指してその太い腕を振るっているのか。……つまらないかどうかなんて、私が決めますわ。だから、話してくださいな」
その真っ直ぐで力強い瞳に見つめられ、門は小さく息を吐いた。嘘がつけない彼にとって、彼女の真摯な問いかけから逃げることはできなかった。
「……本当に、端的に話すぞ。俺は口下手だからな」
「ええ。それで構いませんわ」
門は一度姿勢を正し、静かに、ぽつりぽつりと語り始めた。
「……幼い頃、俺の家族が、理不尽なトラブルに巻き込まれたんだ」
「トラブル……」
「詳細は省く。だが、金も力もない俺たちは、一方的に悪者にされ、追い詰められた。親戚も、近所の人間も……周囲はみんな、見て見ぬふりをした。誰も助けてくれなかった」
門の声は低く、淡々としていた。しかし、その底には重く冷たい感情が沈んでいるのが玲央には分かった。
「その時、子供だった俺は……何もできなかった。ただ泣いている親の背中を見ているだけで、助ける力も、言い返す言葉も持っていなかった。……無力だったんだ」
「門くん……」
「だが」と、門は静かに顔を上げた。その瞳には、暗闇を切り裂くような真っ直ぐな光が宿っていた。
「たった一人だけ、俺たちのために本気で戦ってくれた人がいた。それが、ある弁護士だった」
「その弁護士の先生が、助けてくれたのですか?」
「ああ。周囲から『勝ち目がない』『割に合わない』と言われても、その人は俺たちの話を信じてくれた。決して諦めず、泥臭く証拠を集めて、法廷で俺たちの盾になってくれたんだ」
玲央は息を呑んで聞き入っていた。
門の言葉は短い。飾られた美辞麗句は何一つない。だが、だからこそ、その言葉の裏にある「圧倒的な熱量」と「深い傷」が、痛いほどに伝わってくる。
「……その背中が、忘れられないんだ」
門は自身の太い両手を、テーブルの上でギュッと握りしめた。
「法律は、人を切り捨てるための冷たい制度じゃない。あの人にとっては、人を守るための武器だった。……だから、決めたんだ」
「何を、ですの?」
「今度は俺が、追い詰められた人間の『最後の味方』になる、と」
静かなレストランの空間に、門の低く力強い声が響いた。
「あの時の俺には何もできなかった。だから、今度は逃げない。金や勝率じゃない。泣いている奴、声を上げられない奴、誰からも見捨てられて諦めかけている奴……そんな奴らの前に立って、盾になる。たった一人でも信じて一緒に戦う味方がいれば、人は完全には壊れないと、俺は知っているからだ」
それが、門蒼真という男の魂の核だった。
合気武道で肉体を極限まで鍛え上げるのも、大禍つ炉で己の命を顧みず最前線に立ったのも、根底にあるのは「もう二度と無力な自分には戻らない」「大切なものを必ず護り抜く」という、過去の無力感と自己嫌悪から生まれた強烈な執念なのだ。
彼はただの真面目な武術家ではない。
弱者の痛みに誰よりも敏感で、土壇場で絶対に諦めない、鋼の心を持った戦士。
「……他人にこんな話をしたのは、初めてだ。すまん、暗い話になったな」
門は少し照れくさそうに視線を逸らし、グラスの水を一口飲んだ。
「…………」
玲央は、言葉を発することができなかった。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛い。そして同時に、温かくて熱いものが込み上げてくる。
(なんて……なんて、不器用で、真っ直ぐで、優しい人なのでしょう……)
彼女は今まで「完璧であること」こそがすべてだと思っていた。美しく、隙がなく、誰からも賞賛される高みを目指すことこそが正義だと信じていた。
しかし、目の前の門が目指しているものは違う。
泥にまみれ、傷つき、他人の痛みを自分のもののように背負い込んでしまうような、非効率で泥臭い生き方だ。
でも、その生き方が、玲央にはどんな完璧な映画のヒーローよりも、気高く、男らしく、眩しく見えた。
「……うん。頷けますわ。門くんなら、絶対に、なれます」
玲央は、自然と涙が滲みそうになるのを堪えながら、力強く頷いた。
「あなたは嘘がつけないし、不器用ですけれど……だからこそ、人の痛みが分かる、誰よりも頼もしい弁護士になれるはずですわ」
「……ありがとう。俺はそんなに頭がいいわけじゃないし、勉強も得意な方じゃないが……必ず、弁護士になる。どんなに時間がかかってもな」
「ええ。応援しますわ。私が完璧な大女優になるのと、どちらが先か競争ですわね」
玲央がふふっと笑うと、門もつられたように小さく笑った。
そして、門は真っ直ぐに玲央の目を見つめ返した。
「……俺がお前に惹かれたのも、きっとそういうところだったんだと思う」
「え……?」
突然の言葉に、玲央の心臓が大きく跳ねた。
「俺は、お前が夢を追って、血の滲むような努力をしている姿を見てきた。自分のことを『完璧だ、完璧だ』と言い聞かせて、決して弱音を吐かずに前を向いて戦うその姿に……惚れたのだろうな」
門は、一切の照れ隠しもなく、真っ直ぐな言葉を紡ぐ。
「お前は、本当に……良い女だ。俺にはもったいないくらいにな」
「っ――――〜〜〜〜っ!!」
玲央の顔が、一瞬にして林檎のように真っ赤に爆発した。
(きゅんっ……! な、なんですの、この破壊力は……っ!?)
胸の奥で、警報ベルがけたたましく鳴り響いている。完璧な女優の仮面など、もはや微塵も残っていない。
「良い女」という、飾り気のない、しかし男としての確かな熱情が込められた究極の誉め言葉。それを、あの高倉健のような無骨な門蒼真が、真っ直ぐな瞳で自分に向けて口にしたのだ。
「あ、あのっ……か、門くん……っ、そんな、いきなり……っ」
「……あ」
玲央のあまりの狼狽ぶりに、門はハッとして自分の口元を手で覆った。
「す、すまん……。その、少し、話しすぎた。柄にもないことを……」
耳まで真っ赤にして、視線を泳がせる門蒼真。
普段は絶対に表情を崩さない彼が、珍しく恥ずかしがって完全に照れている。その不器用すぎるギャップが、玲央の乙女心に致命的なトドメを刺した。
(ああっ……もう、ダメですわ……。キュンとして、死んでしまいそうですわ……っ)
玲央は両手で熱を持った頬を覆いながら、潤んだ瞳で門を見つめ返した。
「……聞けて、よかったですわ。門くんの夢も、過去も、私のことをどう思っているかも」
「……ああ」
「私……ますます、門くんに惚れてしまいましたわ」
玲央が最高の笑顔でそう告げた瞬間、門の顔はさらに赤くなり、彼はどうしていいか分からず、ただ無言で何度も頷くことしかできなかった。
その時、絶妙なタイミングでギャルソンが静かに歩み寄り、二人の前に美しい皿を置いた。
「お待たせいたしました。本日のドルチェ、『ティラミスと季節の果実のコンポート、ピスタチオのジェラート添え』でございます」
芸術的に盛り付けられたデザートを前に、二人の間に漂っていた極限の羞恥心と甘い空気は、ふっと和らいだ。
「……美味そうだな」
「ええ。完璧なドルチェですわ」
玲央はデザートスプーンを手に取り、嬉しそうに微笑んだ。
「門くん。これから二人で、たくさん勉強して、たくさん稽古して、それぞれの夢を叶えましょうね。そして……」
「……そして?」
「私が大女優になって、門くんが立派な弁護士になったら……その時は、私の専属の顧問弁護士になってくださる?」
悪戯っぽく笑う玲央に対し、門は大きく、力強く頷いた。
「ああ。……お前の盾になるのは、俺の役目だ」
甘くほろ苦いティラミスの味が、二人の口の中に広がっていく。
冬の夜の高級イタリアン。
外の冷気とは無縁の、温かく、そして永遠にも似た愛おしい時間が、二人の間を静かに流れていた。




