【完璧主義の融解と、不器用な彼のフルコース】
【完璧主義の融解と、不器用な彼のフルコース】
重厚なマホガニーの扉が開いた瞬間、高橋玲央は一瞬だけ息を呑んだ。
立花雪社長が二人のために予約してくれたというイタリアンレストランは、控えめな間接照明に照らされた、格式高い洋館のような佇まいだった。
行き届いた調度品、微かに響くクラシックの旋律、そして仕立てのいい衣服に身を包んだ客たちの囁き声。
(完璧、ですわ……。エントランスでのコートの預け方から、ウェイターの誘導に従う歩法まで、私は一寸の狂いもない『完璧な型』を維持していますわ……!)
眼鏡の奥の瞳を鋭く尖らせ、玲央は内心でガッツポーズを繰り出していた。
女優になるという高い理想を掲げ、血の滲むような努力を重ねてきた彼女にとって、こうした場での立ち振る舞いもまた、己を磨くための重要なオーディションのようなものだ。
対面の席に腰を下ろした門蒼真を見る。
丸太のように太い腕を持つ無口な少年は、この気圧されそうな空間にあっても、学校の道場にいる時と何ら変わらない、高倉健を彷彿とさせる朴訥とした佇まいで静かに座っていた。
その泰然とした様子が、最高に男前で頼もしい。
やがて、美しく盛り付けられた前菜、そしてパスタとコースが進んでいく。
玲央は、昨日マナー本を三冊読み込んでシミュレーションした通り、外側のカトラリーから優雅に手を伸ばし、背筋をピンと伸ばして食事を進めていた。
「いいですか、門くん。こうした格式高いお店では、ただ食事を摂取すれば良いというわけではありませんの。カトラリーの扱い、咀嚼の音、そして対面する相手との洗練された会話のキャッチボール……そのすべてが調和して初めて、完璧なディナーが完成するのですわ。特にこの後のメインディッシュでは――」
「高橋」
玲央の理路整然とした講釈を遮り、門が低く落ち着いた声で短くその名を呼んだ。
「は、はいっ!? なんですの、門くん」
急に話を遮られ、玲央の完璧な型(お嬢様モード)がわずかに揺らぐ。
門は嘘のつけない真っ直ぐな瞳で、玲央の顔をじっと見つめた。
「……今日の服も、よく似合っている。だが、いつもより少し……顔が白いな。体調が悪いのか? もし大禍つ炉の戦いの疲れや、女優のレッスンの疲労が残っているなら、無理をしてこの後のメインの肉料理を食わなくてもいい。俺がお前の分も……いや、店に頼んで持ち帰るなり、何か別の対応を……」
「…………はぁ!?」
玲央の思考が一瞬、完全に停止した。
今、この男は何と言っただろうか。顔が白い? 体調不良?
「たい、体調不良ではありませんわーーーっ!!」
玲央の顔が、一瞬にして茹でダコのように真っ赤に染まった。
周囲の迷惑にならないデシベルを保つというシミュレーションなど、火山の噴火のごとく消し飛んでしまう。
「これはファンデーションのトーンをあえて一つ上げて、このお店の暖色系間接照明における立体効果を計算し尽くした、最新のハリウッド式メイクですのよ! 白いってなんですの、白いって! まるで私が稽古不足で貧血を起こした幽霊みたいではありませんか!」
「……そうか。すまん」
門は全く悪びれる様子もなく、ただ真面目に頷いた。
女の扱いなどこれっぽっちも分かっていない。
普通、デートでドレスアップしてきた恋人に対しては「綺麗だね」の一言で済ませればいいものを、この男は信じられないほどの直球で地獄の地雷を踏み抜いてくる。地雷原をタップダンスしながら進んでくるレベルのデリカシーのなさだ。
「俺にはその、はりうっど、というのはよく分からんが……」
門は少しだけ視線を彷徨わせ、それからポツリと、不器用な言葉を継いだ。
「……俺は、いつもの道着姿のお前や、学校で見せる普通の顔の方が、お前の綺麗なところがよく分かって好きだ。だから、その……少し心配になっただけだ」
「っ〜〜〜〜〜〜っ!?」
二の矢。いや、もはやこれは地雷ではなく、ただの剛速球のストレートだ。
プライドの高い玲央のこだわりを真っ向から台無しにするような変なことを言ったかと思えば、その直後に、心臓を素手で掴むような純度の高い好意を平然と口にする。
「……ふ、ふふっ」
突き放して言い返そうとした玲央の口から、予期せぬ小さな笑い声が漏れた。
怒りや呆れを通り越して、胸の奥からどうしようもないおかしさと愛おしさが込み上げて、どうしても笑えてしまうのだ。
「なんですのそれ……。本当に門くんは、女心がこれっぽっちも分かっていませんわね」
「……面目ない」
頭をかく門を見て、玲央は眼鏡のブリッジをそっと押し上げた。
胸の奥に、不思議な感情の波が押し寄せていた。
(本当に……不思議ですわ……)
玲央は自他共に認める完璧主義者で、プライドが天よりも高い。
普段の彼女なら、芸能科の講師や、自分より遥かに格上の映画監督、あるいは自分が実力を認めたプロフェッショナルな大人の言うことしか、基本的には耳を貸さない。しかも、その高名な相手にすら、納得がいかなければ「ですが私はこう考えますわ」と理詰めで言い返すような、お世辞にも可愛げがあるとは言えない性格なのだ。
それなのに。
どうしてこの、無口で、不器用で、洗練されたお洒落とも縁遠い、丸太のような腕をした武術家の少年の言葉だけは、こんなにもすんなりと、素直に胸に落ちていくのだろう。
門くんのことを盲信しているわけではない。
現に今だって、一生懸命準備したメイクを全否定するような、おかしな発言を素直に言いすぎている。普通の男にこんなデリカシーのないことを言われたら、玲央なら即座に冷徹な一瞥をくれて席を立っているはずだ。
けれど、門くんだと、それが「許せる」という妥協の感情ではなく、ただただ面白くて、愛おしくて、笑えてしまう。
(私……この人の人間性が、この飾らない真っ直ぐな魂が、心底好きなのですわね……)
ちょうどその時、ギャルソンが恭しく歩み寄り、二人の前にメインディッシュの皿を置いた。
「特選黒毛和牛のフィレ肉のロースト、芳醇な赤ワインと黒トリュフのソースでございます」
艶やかなソースがかけられた、ルビー色に輝く極上のお肉。
玲央の皿と、門の皿、それぞれに完璧に盛り付けられた一皿だ。格式高い高級店において、料理をシェアするなどという無粋な真似は当然しない。一人一皿、料理人の魂が込められた作品と真摯に向き合う時間だ。
門は静かにナイフとフォークを手に取った。
カトラリーの使い方は決して洗練されているとは言えないかもしれない。だが、切り分けたお肉を口に運び、目を閉じて深く味わうその無駄のない所作からは、命(食材)に対する深い敬意が伝わってきた。
それを見ているうちに、玲央の肩から、すっと余計な力が抜けていくのを感じた。
今まで、彼女は「完璧主義」という、コンクリートのように硬く凝り固まった主義主張で自分自身を縛り付けていた。女優になるため、誰よりも美しく、隙のない完璧な型を維持しなければならないと、常に神経を張り詰めて生きてきた。
けれど、門くんの隣にいると、その頑固な価値観を「無理に変えろ」と言われているわけでもないのに、不思議と優しく融解していくのだ。
形だけの完璧なマナーや、取り繕った美しさの型ではない。
もっと目に見えない、魂の奥底にある温かい何かを、心が確かに気づき、感じ取っていた。
受け入れることの、そして受け入れられることの本当の大切さを、玲央はこの短い時間の中で、静かに学び、吸収していた。
クリスマスの日に告白され、付き合い始めてから、まだほんの少しの時間しか経っていない。
けれど、高橋玲央は、芳醇なお肉の味わいと共に胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じながら、対面の恋人を見つめた。
(ただ顔が赤くなったり、胸がときめいたりするだけの『恋』を、私たちはもう、通り過ぎてしまったのかもしれませんわね……)
相手の不器用な地雷すら愛おしく思い、ただその存在が隣にあるだけで、魂が絶対的な安らぎで満たされる。
それはきっと、形のない、けれど何よりも強固な『愛』の理なのだと、彼女は確信していた。
「門くん」
「……ん?」
「このメインディッシュのお肉、とても美味しいですわ。完璧な味わいです。……だから、あなたも、変な感想を言わずに素直に美味しいと食べなさいな」
「……ああ。美味い。本当に……最高の飯だ」
眼鏡の奥の瞳を少しだけ潤ませながら、玲央は今日一番の、型にはまらない最高に素直で可愛らしい笑顔を、大好きな少年へと向けたのだった。




