【眠れない夜と、禁断の扉】
【眠れない夜と、禁断の扉】
一月三日、深夜。
都心の夜景を見下ろす超高級マンションの最上階、ペントハウス。
一切の生活音から隔離されたその静寂な空間で、恋問持子は、ふかふかの高級ベッドの上を右へ左へと何度も寝返りを打っていた。
「……あー、もうっ。全然眠れないっ!」
持子はバサリと羽毛布団を跳ね除け、大きなため息をついた。
無理もない。数時間後に夜が明ければ、四日の早朝には風間楓と共にフランス・パリへと飛び立つことになっているのだ。人生初の海外旅行、しかも行き先は花の都パリであり、世界的ブランド『リュクス・アンペリアル』のCEOであるエレーヌ・リジュからの直接の招待である。
ベッドの上に胡座をかき、持子は少し毛玉のついた愛用のパジャマの裾を握りしめながら、暗い部屋の中で自分の両手を見つめた。
(私……記憶を失う前の一年間は、ただの中堅モデルだったのに)
そう。持子は元々、孤児院を出てボロアパートに住みながら、地道にオーディションを受けては雑誌の端っこに載るような、どこにでもいる普通の「中堅モデル」として一年間活動していただけだった。
それがどうだ。自分の中に眠っていた『魔王・董卓』の魂が覚醒し、彼女の本来の意識が深い眠りに落ちていたこの二年間(空白の期間)で、彼女の肉体は恐ろしいほどの洗練と美貌を獲得し、世界中の誰もが知るトップモデルへと上り詰めてしまっていたのだ。
そして今日、正月三が日の氷川神社での奉仕中に、持子は「もう一人の自分」を偶然目撃していた。
境内の遠くを、土御門朔夜と共に歩いていた、自分と全く同じ顔、同じ姿をした美しい少女。
『あれは、持子お姉さんの身代わり……影武者です』
一緒にいた楓――持子と同じ十六歳の学生でありながら、特級エージェントとして戦う凛とした少女――が、周囲に警戒しながらこっそりと教えてくれたのだ。
『あなたが魔王として世界的なトップモデルになってから、敵対勢力は常にあなたの命を狙っています。あの子は、雪社長があなたを守るために創り出した式神。今のあの子は、かつて魔王としてトップモデルに君臨していた頃のあなたの記憶と威圧感を完全にトレースして、敵の目を欺いているんです』
(あの時の私……あんなに近寄りがたくて、怖いオーラを出してたんだ……)
神社で見かけた「影持子」の姿を思い出し、持子はぶるりと身震いした。
記憶のない自分と違い、あの影は『魔王・董卓』としての覇気を完璧に纏っていた。近寄るだけで息ができなくなるような、絶対的な支配者の気配。
「……早く寝なきゃ。明日は楓ちゃんが迎えに来てくれるんだし、目の下にクマなんて作ったら、せっかくのトップモデルの顔が台無しだもんね」
持子はペチペチと両頬を叩き、再び布団に潜り込もうとした。
その時だった。
――……カリッ、……サリッ。
「……ん?」
静まり返ったペントハウスの廊下の奥から、微かな物音が聞こえた。
それは、ペンを紙に走らせるような、ひどく繊細で乾いた音。
持子は息を潜め、耳を澄ませた。
音の出所は、隣の部屋。数時間前に雪と朔夜から「あそこは空き部屋だから気にしなくていい」「早く寝なさい」と冷たく念を押された、本来自分が使うはずだった『主寝室』からだ。
(……空き部屋のはずなのに、誰かいる?)
孤児院育ちで元々ビビリな持子であれば、ここで絶対に布団を頭からすっぽりと被って震えているところだ。しかし、明日のパリ行きによる「遠足前夜の興奮状態」が、彼女の恐怖心を麻痺させ、無邪気な好奇心を強く刺激してしまった。
「ちょっとだけ……覗いてみようかな」
持子は音を立てないようにそっとベッドを抜け出すと、冷たい大理石の床を裸足で歩き、ゲストルームのドアを開けた。
廊下は常夜灯の微かな明かりに照らされている。
向かい側にある、重厚な木彫りの主寝室のドア。よく見ると、そのドアは完全に閉まりきっておらず、数ミリだけ隙間が空いており、そこからオレンジ色の温かな光が漏れ出していた。
ごくりと唾を飲み込み、持子はドアの隙間にそっと右目を近づけた。
***
「…………ッ!!」
主寝室の中を覗き込んだ瞬間、持子は声にならない悲鳴を上げそうになり、慌てて自分の口を両手で塞いだ。
部屋の奥。豪奢なアンティーク調の巨大な机。
そこに置かれたクラシカルなスタンドライトの光に照らされて、一人の少女が座っていた。
漆黒の長い髪。身長一七五センチの滑らかな陶器のような白い肌。
今日、氷川神社で見かけたばかりの『影持子』だ。
だが、持子を極限まで驚愕させたのは、その姿だった。
(ぜ、全裸……っ!? なんで!?)
なんと、机に向かう影持子は、一糸纏わぬ完全な『全裸』だったのである。
華奢な肩から流れるような背中のライン、横からでもわかる豊満な胸の膨らみ、引き締まった腰のくびれ。その完璧すぎるプロポーションが、間接照明の光を受けて神々しいまでの妖艶さを放っている。
(そ、そういえば……魔王だった頃の私は、寝室では一切の衣服を身につけない『全裸睡眠』が基本だったって、前に雪さんが呆れたように言ってたっけ……! だからって、影武者の子までそんな所まで完璧にコピーしなくてもいいのに……っ!)
「そういう行為は結婚してから」という固い貞操観念を持つ持子にとって、たとえ自分と同じ顔、同じ身体であろうと、あまりの破廉恥な姿に顔から火が出そうになった。
(は、早く戻らなきゃ……!)
そう思って視線を外そうとした持子だったが、ふと、その足が止まった。
全裸の影持子は、分厚く重厚な革表紙の日記帳のようなものに、万年筆で一心不乱に何かを書き綴っていた。
カリカリカリカリッ……!
そのペン運びは異様なほどの熱を帯びていた。
顔は見えない。ただ、背中越しに見えるその横顔のシルエットは、極度の集中状態にあるように見えた。
だが、記憶を失い、等身大の純粋な感受性を取り戻しているJK持子の目には、その姿が全く違ったものに映った。
(……泣いてる?)
声は聞こえない。涙も見えない。
だというのに、机に向かいペンを走らせるその全裸の背中が、あまりにも痛々しく、孤独で、今にも壊れてしまいそうなほど悲痛なオーラを放っていたのだ。
まるで、声にならない悲鳴を上げながら、必死に自分の存在を紙の上に繋ぎ止めようとしているかのような、切実な姿。
自分と全く同じ顔をした少女が、あんなにも寂しそうな背中をしている。
孤児院で孤独を知る持子にとって、その背中を見て見ぬふりをすることはどうしてもできなかった。恐怖も、羞恥心も、持ち前の強がりの奥にある「お人好し」な本性が完全に上書きしてしまう。
気がつけば、持子の手は無意識にドアを押し開いていた。
「あの……」
静寂の部屋に、持子の鈴を転がすような声が響いた。
「っ……!?」
ビクゥッ!!と、ペンを走らせていた影持子の肩が激しく跳ねた。
彼女は弾かれたように振り返る。その顔には、誰にも見られたくない『秘密』を暴かれたような、年相応の少女らしい無防備な怯えが浮かんでいた。
だが、それはほんの一瞬の出来事だった。
影持子の黄金の瞳が、入り口に立つJK持子の姿を認識した瞬間。
パキンッ、と。
目に見えない『魔王の仮面』が、彼女の顔に張り付く音がした。
「――何をしておるッ!!」
ビリィッ!!と、部屋の空気が物理的に震えた。
それは、全裸の少女の口から発せられたとは思えないほど、低く、重く、そして凄まじい怒気と殺意を孕んだ声だった。
かつて後漢の都を焼き尽くした絶対的な暴君。魔王・董卓の覇気が、凄まじい密度で圧縮され、持子へと叩きつけられた。
「ひっ……!?」
持子は全身の毛を逆立て、カエルを前にした蛇のように硬直した。
空気が重い。息ができない。目の前にいるのは自分と同じ顔をした少女などではない。人の皮を被った、巨大で凶悪な『捕食者』だ。
「貴様、許可なくわしの寝所に立ち入るとは万死に値するぞ! 疾く失せよ、この下賤の者がッ!!」
黄金に光る瞳で睨みつけられ、持子の目からポロポロと恐怖の涙が溢れ出した。
「ご、ご、ごめんなさいぃぃっ!!」
持子は悲鳴を上げ、慌ててドアのノブを掴むと、バタンッ!!と鼓膜が破れそうな勢いで扉を閉め、脱兎のごとく自分のゲストルームへと逃げ帰っていった。
***
「…………はぁっ、はぁっ……!」
バタン、と扉が閉ざされ、遠ざかっていく足音が完全に聞こえなくなったのを確認した瞬間。
影持子は、まるで操り糸を切られた人形のように、机の上にどさりと崩れ落ちた。
「はぁっ……ぁあっ……怖かっ、た……」
部屋を満たしていた魔王の威圧感が、嘘のようにスッと霧散していく。
後に残ったのは、全裸のまま冷や汗を流し、自分の肩を抱いてガタガタと小刻みに震える、ひどく頼りない一人の少女の姿だった。
「どうして……どうして本物が、こんな時間に……」
影持子は、荒い呼吸を整えながら、先ほどまで自分が書き綴っていた分厚い日記帳に視線を落とした。
そこには、持子と同じ丸っこい可愛らしい字で、今日起きた出来事や、自分が感じた微かな心の揺れ動きが、びっしりと書き連ねられている。
『今日、朔夜がわし……私の頭を撫でてくれた。嬉しかった』
『私は魔王の影。……六花。でも、この胸の痛みは、本物だ』
『消えたくない。まだ、ここにいたい』
彼女の存在意義は、徹頭徹尾『魔王・董卓の魂を宿した世界的トップモデルの恋問持子』を完璧に演じ切ること。
今日、氷川神社へ参拝に行ったのも、「魔王は健在である」と敵対勢力にアピールするための盤上の一手に過ぎない。
彼女は、単なるクローンではない。本物の持子や下僕たち、そして立花雪と天才陰陽師・土御門朔夜の血肉と陰陽術を混ぜ合わせて創り出された『キメラの怪物』であり、朔夜の最高傑作たる式神なのだ。
本来、式神に「明確な自我」など必要ない。ただプログラムされた通りに魔王の威厳を放ち、敵の目を欺き、最終的には本物の身代わりとなって壊れるだけの道具。
特に、オリジナルであるJK持子とこれ以上接触することは、互いの魂の波長をバグらせるため、絶対に避けなければならないタブーであった。
(もし……もし今、この場に雪や朔夜がいたら……!)
影持子は、想像するだけで全身の血の気が引くのを感じた。
もし、ただの使い捨ての式神である自分が、密かに「感情」を芽生えさせ、独自に行動し、あまつさえオリジナルと接触したことが雪にバレたらどうなるか。
『あら。自我を持ってしまったの? ……不良品ね。処分しなさい、朔夜』
雪のその冷たい一言で、自分は文字通り「無」に帰る。
「六花」という名前の通り、美しい雪の結晶のように、一瞬で溶けて消滅させられる。
死の恐怖。
だが、影持子の胸を何よりも強く締め付けていたのは、単なる消滅への恐怖ではなかった。
(……嫌だ。嫌じゃ……! 私が消えたら、朔夜は……もう、私を見てくれなくなる……!)
脳裏に浮かぶのは、冷徹な眼鏡の奥から、時折見せる土御門朔夜の不器用な優しさ。
彼女の生きる理由は、創造主である朔夜に褒められ、抱きしめられることだけだった。
処分されれば、朔夜から向けられる視線も、ともに過ごす時間も、すべてが無に帰してしまう。彼の中で自分は「ただのよくできた式神」としてしか記憶に残らない。
それだけは、絶対に嫌だった。
「私は……私は、偽物でも……生きるんじゃ。朔夜の、隣で……っ」
ギュッと万年筆を握りしめ、影持子はポロポロと涙をこぼしながら、全裸の胸に日記帳を抱きしめた。
危険は去った。オリジナルは恐怖で逃げ出し、二度とこの部屋には近づかないだろう。自分の秘密は守られた。
そう思い、影持子が深く安堵の息を吐き、再び日記帳へと向き直ろうとした――その、一拍後。
ガチャリ。
静寂のペントハウスに、ひどく間の抜けた、しかし決定的な金属音が響いた。
「え……?」
影持子の動きが、石像のようにピタリと止まる。
ありえない。絶対にありえないはずの光景。
閉ざされたはずの重厚な扉が。
恐怖に震え上がって逃げ帰ったはずの、本物の『JK持子』の手によって。
――再び、ゆっくりと開かれていた。




