【パリへの旅立ちと、開かずの扉】
【パリへの旅立ちと、開かずの扉】
一月三日の夜。正月三が日の浮かれた空気も、日が落ちれば急速に冷え込み、都心の夜気は刃物のような鋭さで肌を刺す。
港区の一等地にそびえ立つ、選ばれた者しか住むことを許されない超高級マンション。その重厚なエントランスの前に、不自然なほど静謐な空気を纏った二人の男女が立っていた。
「……遅いわね、彼女。門限の二十一時には間に合うはずだけど」
夜の闇に溶け込むような漆黒のドレスに、真っ白なファーコートを羽織った美女、立花雪が吐息を白く染めた。彼女は芸能事務所『スノー』の社長であり、この世界の「表」と「裏」を繋ぐ支配者の一人だ。
「予定より五分前です。遅刻ではありませんが、今の彼女の『お人好し』な性格を考えれば、途中で誰かの手助けでもしていたのでしょう」
その隣で、瞳を冷徹に光らせるのは土御門朔夜だ。日本屈指の陰陽師であり、雪の右腕として常に冷静沈着に事態を制御する男。
二人の放つ圧倒的な威圧感は、通りかかる住民たちに視線を合わせることすら躊躇わせる。そこへ、少し使い古されたリュックを背負った少女と、その後ろを影のように歩く凛とした少女の姿が見えてきた。
「はぁ、はぁっ……! す、すみません! お待たせしました!」
恋問持子が、息を切らしながら駆け寄ってくる。かつてこの世界の裏側を恐怖で支配した魔王・董卓の魂を宿していた少女。だが今の彼女は、記憶を失い、ごく普通の、少しだけ……いや、かなり人より美少女なだけの女子高生としての意識を取り戻している。
「おかえりなさい、持子。氷川神社でのご奉仕、お疲れ様」
雪が、慈愛に満ちた聖母のような微笑みを浮かべた。以前は「持子さん」と呼んでいたが、今の彼女との距離感を測り、より親密な、しかし支配的なニュアンスを込めて呼び捨てにしている。
「あ、雪さん! 朔夜さんも! エントランスで待ち伏せなんて、何かあったんですか……? あ、門限! 門限ならあと三分ありますよ!」
「門限の話ではない。彼女は完璧に任務を遂行した」
持子の後ろに控えていた風間楓が、静かに、しかし確かな声で告げた。彼女は民間霊的組織【TIA】の特級エージェントであり、持子の護衛としてこの三日間、常に彼女の傍らにいた。
「楓ちゃん、ありがとう。……さて、持子。中に入る前に、大事な話があるわ」
雪が前置きもなく、爆弾を投げ込んだ。
「えっ、大事な話……?」
「ええ。持子、明日から海外へ飛んでちょうだい。行き先はフランス、パリよ」
「……はひ?」
持子の動きがピタリと止まった。あまりに唐突な言葉に、脳が処理を拒否している。
「そこで『エレーヌ・リジュ』という女性に会ってもらわなければならないの。航空券も、現地での手配もすべて済ませてあるわ」
「えええええっ!? パ、パリ!? フランスですか!? なんでいきなり!?」
ひっくり返った声を上げる持子に、追い打ちをかけるように朔夜が淡々と告げる。
「明日の朝には迎えが来ます。荷造りの時間は最低限しかありませんが、向こうで買い揃えれば済む話です。パスポートは以前預かったものをこちらで更新しておきました」
「待っ、待ってください! 明日って四日ですよね!? まだ冬休みだけど、始業式は八日ですよ!? すぐそこじゃないですか!」
持子は必死に食い下がった。今の彼女にとって、世界の命運よりも「出席日数」や「学業」の方がはるかに切実な問題なのだ。
「それに、冬休みの宿題! さっき楓ちゃんに励まされながら、神社のお昼休みにやっと、本当に泣きながら終わらせたばっかりなのに! 提出できなかったら私の努力が……私の血と汗と涙の結晶がぁぁ!」
雪は内心で深く溜息をついた。かつては一国を滅ぼす命を出すことに躊躇いもなかった魂が、今では「冬休みの宿題」に命を懸けている。
「学校については、こちらから『特別な海外研修』として公欠扱いにするよう手を回してあるわ。宿題も、帰国してから提出すればいいように校長に伝えておく。……それとも、私の頼みは聞けないかしら?」
雪が少しだけ眉を下げ、悲しげな表情を作る。持子にとって、自分を救い、居場所を与えてくれた雪は絶対的な恩人だ。その「お願い」を無下にできるほど、彼女は器用ではない。
「う……っ、それは、雪さんにはすごくお世話になってますし、恩返しはしたいですけど……でも、いきなりパリに一人なんて、私、英語もフランス語も喋れないし、機内食の頼み方すらわかりませんよ!」
不安に身を震わせる持子。そこへ、雪がとどめの一撃を放つ。
「一人じゃないわ。同行者として、風間楓さんを付けるわ。彼女があなたの身の回りのお世話と、護衛を兼ねて一緒に行くことになっているの」
「……えっ? 楓ちゃんが?」
持子の表情が、一瞬でパッと明るくなった。
風間楓。持子にとって、この奇妙な共同生活の中で最も心許せる、数少ない「同年代の友人」であり「守ってくれる存在」だ。
「楓ちゃんが一緒なら……。う、うーん、楓ちゃんがいるなら、迷子にもならないし、怖い人にも捕まらないかも……」
「ええ、彼女もあなたのことを心配していたわ。二人で少し早い卒業旅行だと思って、楽しんできてちょうだい」
「卒業旅行……。フランスのクロワッサン……本場のマカロン……」
持子の単純な脳細胞が、一気に「不安」から「食欲」へとシフトしていく。さらに、彼女の脳裏にある名前が響いた。
「あの、さっき言ってた『エレーヌ・リジュ』さんって……あの、世界的ブランド『リュクス・アンペリアル』のCEOの方、ですよね?」
「あら、知っていたの?」
「知ってるも何も! ファッション雑誌を開けば必ず載ってる憧れのブランドですよ! ……それに、雪さんたちから聞かされました。私が記憶を失う前、そこのメインビジュアルをやってたって……」
持子は自分の顔を少し赤らめて俯いた。記憶のない自分。だが、街中の看板や雑誌の中で、冷徹で傲慢な、しかし息を呑むほど美しい「自分」が、最高級のドレスを纏って世界を魅了していた事実は知っている。
(あの写真の私……今の私とは全然違って、すごく怖くて、でも、かっこよかったな……)
今の自分には到底真似できない、完成された美の象徴。そのブランドのトップに会いに行く。それは、失われた自分の一部を辿るような、不思議な高揚感を伴っていた。
「……わかりました! 楓ちゃんと一緒なら、私、行きます! 雪さん、ありがとうございます!」
「いい子ね、持子」
雪は持子の頭を優しく撫でた。その手つきは、深い愛情のようでもあり、完成した芸術品を慈しむコレクターのようでもあった。
「楓、彼女をお願いね」
「承知いたしました。命に代えても」
楓の短い返答が、夜の静寂に鋭く響いた。
***
専用のエレベーターで最上階のペントハウスへと上がる。
そこは、選ばれた者しか立ち入ることのできない、静寂と贅の極致。最新のセキュリティと結界に守られた、現代の城郭だ。
だが、リビングに着いたところで、朔夜が持子のリュックを掴んで足を止めた。
「持子、一つ伝えておくことがあります。今夜から、あなたの部屋を変更しました」
「えっ? 部屋を? またですか?」
「そうです。あなたが今まで使っていた本来の『主寝室』は、今のあなたには広すぎて落ち着かないでしょう。私物はすべて、隣のゲストルームに移しておきました。広さは以前の三分の一程度ですが、女子高生が一人で過ごすには十分なはずです」
持子は一瞬、キョトンとしたが、すぐに納得したように何度も頷いた。
「わ、わかります! 正直、あの部屋、ベッドが大きすぎてどこで寝ればいいか迷っちゃうし、天井が高すぎて夜中に目が覚めるとちょっと怖かったんです。わざわざありがとうございます、朔夜さん! 気が利きますね!」
「……ええ。あなたがぐっすり眠れることを、第一に考えました」
朔夜の口元が、わずかに歪む。それが「微笑」なのか「冷笑」なのか、持子には判別できなかった。ただ、その眼鏡の奥の瞳が、何か別のものを見ているような気がして、持子は微かな違和感を覚えた。
「こっちの部屋の方が、なんだか自分の家にいた頃の感覚に近くて落ち着きます!」
ゲストルームに運び込まれた自分の私物を見て、持子は安堵の息を漏らす。
使い慣れたペンケース、少し毛玉のついた部屋着、そして氷川神社で授かったお守り。それらが、豪華すぎる大理石の床の上で、唯一の「現実」を繋ぎ止めてくれている気がした。
だが、荷造りを始めようとして、持子はふと足を止めた。
部屋の窓から見える煌びやかな夜景――ではなく、廊下を挟んだ真向かいにある、かつての自分の部屋。
重厚な木材で作られた、美しい彫刻が施された「主寝室」のドア。
(……あれ?)
何だろう。
ただのドアのはずなのに。
そこから、言葉にできない「嫌な予感」が這い出してきているような気がした。
心臓がトクン、と少しだけ速く脈打つ。
あの中には何があるのか。自分の私物はすべて移されたはずなのに、なぜあのドアは、まるで巨大な怪物の口のように、不気味な存在感を放っているのだろう。重い鉄の匂いと、冷たい霧のような気配が、ドアの隙間から染み出しているような錯覚。
「あの……雪さん。朔夜さん」
持子は、廊下で小声で打ち合わせをしていた二人に声をかけた。
「あの部屋……主寝室、なんですけど。あそこには、もう何も入ってないんですよね……? なんだか、空気がすごく重たいというか、変な感じがして……」
雪と朔夜の会話が止まった。
二人が同時に、ゆっくりと持子の方を振り向く。
その瞬間、持子は背筋に氷を押し当てられたような錯覚に陥った。
先ほどまで見せていた「優しい保護者」の仮面が、一瞬だけ剥がれ落ちたような――そんな、温度を失った「管理者の瞳」。
「……気にしなくていいわ、持子」
雪が、低く、逆らうことを許さない声で言った。
「あそこは、今のあなたには必要のない場所。ただの『空き部屋』よ。それとも、私の言葉が信じられないかしら?」
「え、あ、いえ! そんなわけないです! すみません!」
「明日のフライトは早朝です。楓も、準備のために早めに来ますよ。遅れるようなことがあれば、パリでの自由時間はなくなります。早く寝なさい」
朔夜の言葉には、明白な拒絶が含まれていた。それは「秘密」を隠す者の拒絶ではなく、「立ち入る価値のないゴミ」を遠ざけるような、冷淡な合理主義だった。
「……は、はい。すみません、変なこと聞いて。おやすみなさい!」
持子は慌ててゲストルームに逃げ込み、バタンとドアを閉めた。
「ふぅ……。怖かった……。やっぱり、雪さんも朔夜さんも、怒ると迫力がすごいなぁ。でも、私のために部屋を使いやすくしてくれたんだもんね。疑っちゃ悪いよね」
ベッドに潜り込み、毛布を頭から被る。
明日はパリだ。楓ちゃんと一緒だ。本場の美味しいものを食べて、憧れのブランドのCEOに会う。
自分にそう言い聞かせ、持子はゆっくりと目を閉じた。
失われた記憶。魔王としての過去。そんな重たいものは、今の彼女の細い肩には似合わない。彼女はただ、平和を愛する普通の少女として、泥のような眠りに落ちていった。
だが、彼女が眠りについたその数分後。
ペントハウスの廊下では、暗闇の中で二人の影が冷酷に動いていた。
「準備は整ったか、朔夜」
雪の囁き声が、無人のリビングに響く。先ほどまでの「優しさ」は、どこにも残っていない。
「はい。主寝室の仕込みはすべて完了しました。影持子への魔力供給ラインも安定。疑似魂の調整も終わっています。彼女……本物の持子がパリでエレーヌの『検分』を受けている間に、こちらで『東京ダンジョン作戦会議』の最終段階へ移行します」
朔夜が、持子が不気味さを感じていた主寝室のドアに手をかけた。
カチリ、と、物理的な鍵ではない、「術式」が解除される音が響く。
その瞬間、ドアの隙間から漏れ出したのは、少女の安眠を妨げるに十分な、どす黒い魔力の奔流と、むせ返るような血の匂いだった。
部屋の中では、持子の姿を完璧に模した『影持子』が、黄金の瞳を爛々と輝かせながら、玉座のような椅子に鎮座している。その周囲には、エクリプス殲滅のための禍々しい儀式の祭壇と、東京ダンジョンの最深部を精密に再現したホログラムが浮かび上がっていた。
「持子には、そのまま『何も知らない、幸せな少女』でいてもらわなくてはね」
雪が主寝室に入り、影持子の顎を指先で持ち上げる。
「それが、彼女にとって一番安全なのだから。……さあ、始めましょう。偽りの魔王による、真実の殲滅戦を」
ドアが内側から閉ざされる。
完全に遮断されたその空間で、明日から始まる「血の祝祭」の計画が着々と進められていく。
隣の部屋で、何も知らないJK持子は、夢の中でパリの街角を歩いていた。
その壁一枚隔てたすぐ隣で、自分自身の形をした「怪物」が、世界を造り替えようとしていることも知らずに――。




