【光の神術と忠犬の涙】
持子編
【光の神術と忠犬の涙】
一月二日の夕暮れ時。
底冷えする冷たい風が吹き抜ける中、初詣の参拝客で賑わう氷川神社の境内に、場違いなほど華やかな二人の美女の姿があった。
「さあルージュ、急ぎますわよ! 愛しの持子様がこの寒空の下で頑張っていらっしゃるのですから!」
「わかっていますわ、鮎。ですが境内を走るのはマナー違反ですわよ」
元トップモデルの本多鮎と、絶世の美貌を持つルージュは、神社の社務所へと足を踏み入れた。
多忙な合間を縫って、愛する主への「奉仕(お手伝い)」にやってきたのだ。
「ごめんくださーい! 桐子お姉さん、お手伝いに上がりましたわ!」
鮎が元気よく声をかけると、奥から風間桐子が顔を出した。
「あら、鮎ちゃんにルージュちゃん。来てくれたのね、ありがとう。それじゃあ、二人は授与所の方の助っ人をお願いしていいかしら?」
「はいっ! 桐子お姉さん、喜んで!」
持子の役に立てる喜びに胸を張って、鮎はクルリと踵を返し「行きましょう!」と駆け出そうとした。
しかし――ガシッ。
桐子の手が、鮎の肩をガッチリとホールドした。
「……ちょっと待ちなさい、鮎ちゃん」
「ひゃっ!? な、なんでしょうか……?」
桐子の纏う空気が、スッと冷ややかに変わる。彼女はジト目で鮎の顔を覗き込み、鼻をスンスンと鳴らした。
「あなた……新年早々、随分と激しくエッチしてきたわね?」
「――ッ!?」
図星を突かれた鮎の背筋を、滝のような冷や汗が流れ落ちる。
「い、いやっ! こ、これはですね! 決して私が個人的な性欲を満たしたかったわけではなく、持子様を……影持子様をお守りするために、魔力回路を繋いで強固なものにする必要があって、その、仕方がなく……ッ!」
しどろもどろに弁明する鮎に対し、桐子は呆れたようにため息をついた。
「鮎ちゃんは『光の神術』が使えるでしょ? そういう激しいことをした後は、自分でちゃんと祓いなさいな。神聖な神社に、そんなスケベな気や穢れを持ち込まないの。まったく……持子ちゃんも昔、同じことして境内に来てたわよ! メッ!」
「も、申し訳ございません……!」
桐子にピシャリと叱られ、鮎はシュンと肩を落とす。
慌てて己の内に眠る力を引き出し、光の神術を発動して全身を包み込んだ。
「ルージュ、念のためあなたもお願い!」
「まったく……手のかかる第一下僕ですわね」
ルージュも苦笑しながら光の神術を展開し、鮎にこびりついていた濃厚な情事の残り香と穢れをピカピカに祓い落とした。
* * *
身も心も(強制的に)清められた二人が授与所へと向かって歩いていると、向こうから見知った顔が歩いてきた。風間楓だ。
「おや、お二人とも。わざわざ奉仕に来てくださったのですか?」
楓が目を丸くして驚くと、鮎は先ほどの説教などすっかり忘れたように、ふんすと誇らしげに胸を張った。
「当然ですわ! 私は持子様の『第一下僕』ですから!」
そのドヤ顔を見た楓は、ふふっと微笑み、鮎の耳元に顔を寄せて小声で囁いた。
「その晴れやかな笑顔……どうやら、影持子さんとの擬似魂のパスは、うまくいったのですね」
その言葉に、鮎は力強くコクンと頷く。
「ええ! ばっちりですわ!」
しかし、背後にいたルージュがジト目で口を挟む。
「鮎がさかりすぎですのよ! 外で待たされる身にもなっていただきたいですわ!」
「だ、だから! あれは持子様を守るためですわ! 私だって最強の盾としての責任が――!」
顔を真っ赤にして抗議する鮎を見て、楓はくすくすと笑い声を漏らした。
「鮎さんは、本当に持子さんを愛していらっしゃるのですね」
「――はいっ!」
一点の曇りもない、真っ直ぐな即答。
かつて持子に強烈な嫉妬と敵対心を抱き、足を折ろうとまでした女と同一人物だとは、誰も信じないだろう。
「今は持子さんは休憩中ですから、会っても大丈夫ですよ。社殿横の護衛所にいらっしゃいます」
「本当ですか!? ありがとうございます、楓さん!」
* * *
足早に社殿横の護衛所へ向かうと、そこには白衣に緋袴という神聖な巫女装束に身を包んだ持子がいた。
魔王の記憶を失い、十六歳の純真無垢な少女へと退行している持子は、畳に正座で座り、両手で持った紙コップの温かいお茶を「ふー、ふー」と吹きながらちびちびと飲んでいる。
その姿は、保護欲をそそるほどに愛らしかった。
「お疲れ様です、持子様――いや、持子さん!」
鮎が慌てて呼び方を直して声をかけると、持子は顔を上げ、花が咲いたような笑顔を見せた。
「あ、鮎さん! もう、鮎さんに『持子様』なんて呼ばれると、なんだか恥ずかしいよぉ……」
照れくさそうにはにかむJK持子に、鮎の胸の奥で母性にも似た強烈な庇護欲が爆発しそうになる。
だがその時、持子が不思議そうに首を傾げた。
「あれ……? 鮎さん、身体の周りに黒いモヤモヤがあるよ?」
「えっ?」
鮎はギョッとして自分の身体を見下ろした。
(しまった、さっき急いでやったから、まだスケベな気が祓いきれていなかった……!?)
「いけない、すぐに消しますわ!」
鮎は慌てて、再度『光の神術』を強く発動させた。
清らかな光の粒子が鮎の身体を包み込み、残っていた穢れを浄化していく。そしてその光の余波が、ふわりと風に乗って、目の前に座る持子の身体に優しく触れた。
――ドクンッ。
持子の心臓が、大きく跳ねた。
光の神術が触れた瞬間、持子の脳内に、分厚い氷が割れるような鋭い痛みが走り、続いて『濁流』が押し寄せてきた。
(……え……?)
頭の中に溢れ出したのは、失われていた『空白の二年間』の記憶。
それも、目の前にいる『本多鮎』という女性に関する、濃密で、狂気じみていて、それでいてどうしようもなく熱い記憶の奔流だった。
――私に強烈な嫉妬を向け、反社を雇って私を潰そうとした、大手事務所のトップモデルだった鮎。
――ホテルのスイートルーム。彼女の心に寄生していた異形の『妖』ごと、私が闇の心を喰らい尽くした『死の接吻』。
――空っぽになった彼女が、私に魂を捧げ、プライドを捨てて『忠犬』となった日。
――夜な夜な東京の街で妖を狩り、私に魔石を捧げるために血まみれになって戦う、美しき第一の下僕の姿。
「あ……」
持子の手から紙コップが滑り落ち、床に温かいお茶がこぼれる。
「持子さん!? どうしましたの、急に顔色が悪く……!」
心配そうに駆け寄り、持子の顔を覗き込む鮎。
その顔は、ただ純粋に持子を愛し、守ろうとする『最強の盾』の顔だった。
記憶を取り戻した持子は、呆然と目の前の鮎を見つめ返す。敵対、救済、絶対服従、そして今の無償の愛。二人が紡いできたカオスで狂おしい関係の全てが、持子の胸の中で熱く、確かに蘇っていた。
床にこぼれたお茶にも構わず、ただじっと自分を見つめ返してくる持子に、鮎は不安げに声を震わせた。その純粋な瞳には、持子を愛し、守ろうとする『最強の盾』としての無償の愛が溢れている。
持子はゆっくりと手を伸ばし、不安に揺れる鮎の頭にそっと触れた。
「あ……」
ビクッと肩を揺らす鮎の艶やかな髪を、慈しむように、優しく撫でる。白衣と緋袴の巫女装束の袖が、ふわりと揺れた。
「……ふふっ。鮎さんは、私の可愛い可愛い『忠犬』だったのね」
その言葉が紡がれた瞬間、鮎の時間が止まった。
大きく見開かれた瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出す。それは、彼女がかつて持子に魂を捧げた日以上の、劇的な感情の爆発だった。
「も、持子様……ッ! 思い出して、くださったのですね……ッ!」
「うん。ごめんね、今まで忘れちゃってて。ずっと、私を守ってくれていたんだね」
「持子様ぁあああああッ!!」
鮎はもはや我慢の限界だった。巫女装束の持子を、その細い腕で思いっきり抱きしめる。壊してしまわないよう力加減に配慮しつつも、全身から溢れ出る歓喜の感情は抑えきれない。
持子もまた、胸に顔を埋めて号泣する鮎の背中に腕を回し、優しく抱きしめ返した。
かつての魔王としての威厳と、今のJKとしての純真さが入り交じる不思議な感覚の中、ただ目の前の不器用で真っ直ぐな愛情を、持子はしっかりと受け止めていた。
「あぁ、持子様、私の持子様……! この鮎、貴女様が記憶を取り戻されたこと、一生の喜びにございます……! ああ、愛おしい……この高ぶる気持ちを、今すぐ貴女様の唇と……!」
しばらく泣きじゃくっていた鮎だったが、感極まったあまり、その美しい顔を持子へと近づけ、熱烈なキスを迫ろうとした。
しかし――ピシャッ。
「……ダメです」
持子の両手が、迫りくる鮎の顔面を容赦なくホールドし、完全に動きを封じた。
「ふぁ!? ほひこはま!?」
「鮎さんのこと、ちゃんと全部思い出しました。鮎さんが私に魂を捧げてくれたことも、毎晩ボロボロになって戦ってくれたことも。……でも、私は百合ではありません!」
JK持子の純真な瞳が、キリッとした光を放つ。記憶が戻ったとはいえ、根本的な性的嗜好まで書き換わるわけではない。
「そ、そんなぁ……ッ!」
顔面を固定されたまま、鮎は絶望に打ちひしがれて再びボロボロと泣き始めた。「第一下僕」としての愛が深すぎるあまりの暴走だったが、明確な拒絶に心は深く傷ついていた。
そんな鮎の姿を見て、持子は困ったように微笑み、再びその頭を撫でた。
「泣かないでください。百合にはなれませんけど……でも、鮎さんが私にとって、とてもとても大切な人で、愛おしくて『可愛い人』だっていうことは、ちゃんと思い出しましたから」
「持子様……っ」
「これからも、ずっと仲良くしてくださいね、鮎さん」
聖母のような持子の微笑みと温かい言葉に、鮎は涙と鼻水を拭いながら、力強く何度も頷いた。
「ずるいですわ、鮎ばかり……」
唐突に、不満げな声が響いた。
見れば、鮎の足元に伸びる濃い影の中から、絶世の美貌を持つルージュがスゥッと姿を現した。鮎に付き従う下僕である彼女にとっても、主の主である持子は絶対的な存在だ。
「私との記憶は……私はまだ、思い出していただけないんですの?」
寂しそうに目を伏せるルージュに対し、持子は申し訳なさそうに眉を下げる。
「ごめんなさい、ルージュさん……。鮎さんの記憶はハッキリ戻ったんですけど、ルージュさんのことは、まだモヤがかかったみたいで……」
「くぅっ……! 残念ですわ……」
ギリィッとハンカチを噛むような仕草で不満がるルージュ。その横で、鮎は「私の愛の勝利ですわ!」とばかりに誇らしげな顔を浮かべている。
「持子お姉さーん、休憩終わりですよ。次の御祈祷の時間です」
そこへ、授与所の方から風間楓が小走りでやってきた。社殿横の護衛所の入り口から顔を覗かせた彼女は、泣き腫らした鮎と、どこかスッキリした顔の持子を見て、すぐに状況を察したようだ。
「はーい、今行きます!」
持子は立ち上がると、白衣と緋袴の乱れを整え、「それじゃあ、また後でね」と鮎たちに手を振って、凛とした足取りで社殿へと向かっていった。
その小さな背中を見送った後、楓が鮎の隣に立ち、ふわりと微笑んだ。
「良かったですね、鮎さん。持子お姉さんの様子……どうやら記憶が少し、戻ったみたいですね」
「ええ……! はいっ……! 楓さん、私……私……ッ!」
再び感涙にむせぶ鮎に、楓は優しく目を細める。
「おそらく、先ほどの『光の神術』がきっかけになったのかもしれませんね。鮎さんの清らかな光の余波が、閉ざされていた記憶の扉を開いたのでしょう」
その言葉に、鮎はハッと顔を上げた。
「光の神術……。そうか、私の力が、持子様を……」
鮎は胸の奥から込み上げる熱い感情を噛み締めながら、氷川神社の境内を仰ぎ見た。
「私にこの『光の神術』を教え、授けてくださった楓さんと……桐子お姉さんに、心からの感謝を捧げますわ。この力のおかげで、私は再び、持子様と心を繋ぐことができたのですから……!」
言葉を紡ぎ終えると同時、張り詰めていた感情の糸がプツリと切れたのだろう。
「うわぁぁん! 楓さぁぁん!」
鮎は突然、隣にいた楓に勢いよくしがみつき、子供のようにわあわあと声を上げて泣き出してしまった。今まで背負ってきた重圧と、報われた喜びが入り混じり、もう立っていることすらできなかった。
「ふふっ……仕方のない先輩ですね。今日だけですよ」
突然抱きつかれても嫌な顔一つせず、楓は聖母のような慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。そして、自分の胸で泣きじゃくる鮎の艶やかな髪を、優しく、ゆっくりと撫でる。
「まったく……仕方のないマスターだこと」
呆れたようなため息をつきながらも、ルージュの表情はどこか温かかった。彼女もまた、主である鮎にそっと寄り添い、楓と一緒に、愛おしそうに鮎の頭を撫でるのだった。
底冷えする一月の風が吹き抜ける境内だったが、彼女たちの周りだけは、穏やかで温かな光に包まれていた。




