【消されるはずの魔王が、恋をした日】
【表参道の甘いパンケーキと、影の魔王に芽生えた『情』】
――カランコロン、と。
表参道の裏路地にひっそりと、しかし確かな存在感で店を構える、超人気のパンケーキ専門店『ル・プチ・アンジュ』。
一月二日の10時。ペントハウスでの下僕たちとの密談を経て、天才陰陽師・土御門朔夜は、約束通り(あるいは命令通り)、影の魔王である恋問持子を連れてこの店を訪れていた。
「ふはははは! 見ろ朔夜! この純白の雪山のように高くそびえ立つ生クリームを! そして、滝のように流れ落ちるマカダミアナッツのソースを!!」
店内で最も見晴らしの良い窓際のテラス席。
そこで、身長175センチの黄金比のプロポーションを誇る絶世の美少女――影持子が、己の顔のサイズほどもある特大のリコッタパンケーキ三段重ねを前に、黄金の瞳をキラキラと輝かせて歓喜の声を上げていた。
周囲の客たちは、彼女から放たれる圧倒的な美貌と、どこか近寄りがたい王者のオーラに当てられ、チラチラと盗み見るような視線を送っている。
無理もない。タイトな黒のタートルネックセーターにボルドーのミニスカートという出立ちの彼女は、世界的トップモデル『恋問持子』にしか見えないのだ。そんな絶世の美女が、ナイフとフォークを両手に構え、目を輝かせている姿は、一種の芸術的なギャップを生み出していた。
「……はいはい。良かったな、持子。お前の念願のパンケーキだ。心ゆくまで食えよ」
向かいの席に座る朔夜は、呆れたようにため息をつきながら、ブラックコーヒーの入ったカップを傾けた。
銀髪のショートボブに白磁の肌。彼もまた、女性客たちから「あのハーフみたいな美少女? 美少年?、誰!? モデル!?」と熱い視線を浴びているのだが、彼自身はそんなことには微塵も興味がない。
ただひたすらに、目の前の『暴食の魔王』の手綱を握ることで、精神的にも肉体的にも疲労困憊であった。
――サクッ、フワァッ……!
ナイフがパンケーキに沈み込む音。
「おおっ! なんだこの感触は! ナイフを入れただけで、まるで雲を切っているかのようではないか!」
影持子は、大きく切り分けたパンケーキにたっぷりと生クリームを乗せ、そのまま豪快にパクリと口に放り込んだ。
「んんんん〜〜〜ッ!!!」
モグモグモグッ!
「美味い! なまら美味いぞ朔夜! 口の中で生地が溶けて消えた! そしてこのマカダミアナッツの濃厚な甘みと、少しの塩気が絶妙に絡み合い……まさに天上の食べ物だ! ラーメン二郎の脂とニンニクも最高であったが、この甘味もまた、魔王の胃腹を満たすに相応しい逸品である!」
パクパクパクッ! モグモグモグッ!
影持子は、圧倒的なスピードでパンケーキを胃袋へとブラックホールのように吸い込んでいく。
その食べっぷりは、見ていて気持ちがいいほどだ。昨日、雪の陣から生まれたばかりの彼女にとって、口にするものすべてが「生まれて初めての味」であり、その感動がダイレクトに脳と身体を突き抜けているのだ。
「……そりゃ良かった。お前が大人しく食べてる間だけは、俺も少しだけ休めるからな」
朔夜は、コーヒーの苦味で疲れた頭をシャキッとさせながら、窓の外の表参道の景色をぼんやりと眺めた。
だが、魔王の辞書に「遠慮」や「空気を読む」という言葉は存在しない。
「おい朔夜! このパンケーキは合格だ! だが、これだけでは終わらんぞ!」
影持子は、口の周りに生クリームをつけたまま、フォークの先でビシッと朔夜を指差した。
「わしはさっき、この店の近くに『極上・黒毛和牛のトリュフバーガー』の看板を見た! このパンケーキはあくまで前菜だ! これを食い終わったら、次はそこへ行くぞ!」
「はぁ?」
朔夜が顔をしかめる。
「それだけではない! その後は、原宿竹下通りに行って、あのカラフルな綿飴とやらを食う! そして、クレープだ! チョコバナナだけではない、ツナマヨサラダクレープも捨てがたい! あと、銀だこ! たこ焼きの『てりたま』を8個入りで2舟だ!!」
次から次へと、凄まじいカロリーの暴力(ジャンクフードの欲求)が、影持子の口から機関銃のように連射される。
どれもこれも、彼女の記憶(魔王持子の記憶)に刻まれた「食べたいものリスト」であり、ダミーとして生まれた今、その欲求が爆発しているのだ。
「……お前な。いくらなんでも食い過ぎだろ」
朔夜は、冷たくピシャリと撥ね付けた。
「なんだと!? 貴様、わしの輝かしいデザート&ジャンクフード巡りを邪魔する気か!」
影持子が、黄金の瞳を吊り上げて怒り出す。
「わがまま言うな。お前はただでさえ目立つんだ。これ以上人混みをウロウロしたら、裏社会の連中じゃなくて、一般人のパニックが起きる。……計画の段階とはいえ、油断は禁物だ。パンケーキを食い終わったら大人しくマンションに戻るぞ」
朔夜は、副マネージャーとしての冷徹な声で、命令を下した。
「ぬぅぅぅぅぅ……ッ! 朔夜、貴様ぁ……ッ!」
影持子は、ギリギリと牙を剥くように朔夜を睨みつけた。
「わしは魔王だぞ! 天下を統べる董卓様だぞ! なぜ貴様のような小童の許可を得ねば、たこ焼き一つ食えんのだ! 忌々しい! 忌々しいことこの上ないわッ!」
ドスンッ! とテーブルを軽く叩き、影持子は腕を組んでプイッとそっぽを向いてしまった。
口の周りに生クリームをつけたまま、一人でフンスフンスと理不尽に怒っているその姿は、絶世の美女でありながら、まるで駄々をこねる大きな子供のようだった。
(……はぁ。本当に、世話の焼ける化け物だ)
朔夜は、内心で深く、深くため息をついた。
雪先生と俺の術式によって、こいつは「俺の命令には絶対服従する」ようにプログラミングされている。だが、自我のベースはあの傲岸不遜な魔王・董卓だ。命令には従うが、その過程でいちいちこうして反発し、文句を言い、我が儘を爆発させる。
それを一つ一つ宥め、すかし、時には強い言葉で押さえつけるのは、並大抵の精神力ではできない。
(少しは静かにしてくれないもんか……)
朔夜は、コーヒーカップを置きながら、ふと、昨日のペントハウスの寝室での出来事を思い出した。
雪先生の無茶苦茶な命令で、俺はこいつをベッドに押し倒した。
最初は「わしは男だ! BLだ!」と狂乱して抵抗していたこいつが、俺の愛撫とキスの前に、徐々に、そして完全に女として陥落していったあの瞬間。
熱い吐息を漏らし、涙目で俺にすがりつき、ただの愛らしい女として身を委ねてきた、あの影持子。
事後のベッドの上で、俺の胸に頬をすり寄せ、トロンとした瞳で「わしはお前のものだ」と従順に囁いた、あの信じられないほど甘く、愛らしい姿。
(……エッチしたあとの持子は、可愛かったな)
朔夜の脳裏に、その鮮烈な記憶が蘇り、心臓の奥がドクリと甘く跳ねた。
あの記憶は、雪先生の術式によって影持子の脳から綺麗にフォーマット(消去)されている。だから今のこいつは、あんなに甘えきった自分がいたことなど微塵も覚えておらず、こうして尊大な態度でわがままを言っているのだ。
「……おい、朔夜」
不意に、ドスの効いた低い声が響いた。
「先ほどから、何をニヤニヤと気色悪い顔をしておるのだ。わしが怒っているのがそんなに面白いか? ええい、腹立たしい! 貴様など、このフォークで串刺しにして……」
影持子が、本当にフォークを構えて朔夜を睨みつけてきた。
その怒りのこもった黄金の瞳。傲慢な態度。
朔夜の中で、少しだけ『黒い悪戯心(S気質)』が鎌首をもたげた。
(……少しだけ、お灸を据えてやるか。静かにさせるためにな)
朔夜は、スッと目を細め、影持子の黄金の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
そして、テーブルの下で指を組み、密かに『陰陽術』の印を結んだ。
影持子を構成する擬似魂のシステム。その管理者権限を持つ朔夜は、雪が封印した『エッチの記憶の箱』に、ほんの少しだけ隙間を開けたのだ。
完全に思い出させるわけではない。ただ、あの時の『情動』と『身体の熱』、そして『圧倒的な被支配の感覚』だけを、ほんの一瞬、フラッシュバックさせる。
「――っ!?」
ピクゥッ!!
影持子の身体が、雷に打たれたように大きく跳ねた。
フォークを構えていた手が、ガタガタと震え始める。
黄金の瞳から、スゥッと怒りの光が消え失せ、代わりに、抗いがたい熱と、濡れたような甘い動揺が浮かび上がった。
(な、なんだ……!? なんだ、今の感覚は……!?)
影持子の脳内で、映像はないが、強烈な『感覚』だけが再生されていた。
朔夜の手に胸を揉みしだかれる感覚。唇を塞がれ、口内を蹂躙される熱。
そして、身体の芯をドロドロに溶かされるような朔夜の熱情に貫かれ、奥底から甘い悲鳴を上げさせられた、あの抗いがたい快感と絶頂。
「あ……ぅ……っ」
ポロッ、と。影持子の手からフォークが滑り落ち、テーブルの上に乾いた音を立てた。
ボフゥッ!!
影持子の白磁の肌が、首筋から耳の先まで、一瞬にして茹でダコのように真っ赤に染め上がった。
「も、持子……?」
朔夜は、想像以上の劇的な反応に、逆に少し焦った。
「あ……うぅ……っ。さ、さくや……っ」
先ほどまで「串刺しにしてやる」と息巻いていた魔王の威厳は、完全に消し飛んでいた。
影持子は、顔を真っ赤にして俯き、ミニスカートから伸びる両足をギュッと内股に閉じ、両手を膝の上にちょこんと乗せて、もじもじと身をよじらせ始めたのだ。
「あ……熱い……。身体の奥が……うずく……っ。なぜだ……朔夜の顔を見ただけで、わしの……わしの中が……キュンとして……っ」
影持子は、涙目になりながら、朔夜の顔をチラチラと上目遣いで盗み見る。
その態度は、完全に「初体験を済ませたばかりの、好きな男を前にして恥じらう純情な乙女」そのものであった。
「(ヤ、ヤバいっ! 効きすぎた!)」
朔夜は滝のような冷や汗を流した。
周囲の客たちが「えっ、何あの美少女、急に顔真っ赤にして内股になって……」「彼氏に何か言われたの? 超可愛いんだけど!」と、さらに熱い視線を送ってきている。
こんな公衆の面前で、絶世の美女の姿をした魔王が、発情した雌のような態度をとっているなど、大問題だ。
(やりすぎた……! これじゃ逆に目立ちすぎる! 早く記憶の蓋を閉じないと!)
朔夜は慌てて、テーブルの下で印を結び直し、漏れ出させた記憶の情動を再び強力に封印しようとした。
「持子! 落ち着け! 今のは忘――」
朔夜が、術式を発動させ、「元に戻す」コマンドを実行しようとした、その瞬間だった。
「――まて!!」
バンッ!!
影持子が、両手でテーブルを強く叩き、少し大きな声で朔夜を制止したのだ。
「……え?」
朔夜の手が、空中でピタリと止まる。朔夜は、目を見開いて驚愕した。
(な、なんだ今の……!?)
雪と朔夜が構築したシステムにおいて、影持子は『朔夜の術式と命令』には絶対服従するはずだ。術式による精神操作を、自らの意志で「まて」と静止することなど、プログラム上、絶対にあり得ない事態なのだ。
「持子……お前……?」
朔夜が、信じられないものを見る目で影持子を見つめる。
影持子は、まだ顔を真っ赤に染めたままだったが、その黄金の瞳には、魔王としての傲慢さでも、乙女の恥じらいでもない、どこか静かで、深い理性の光が宿っていた。
「……朔夜。どうした? 酷く驚いた顔をしているな」
影持子が、スッと背筋を伸ばし、朔夜を見据える。
「お前……なんで、俺の術式を抵抗できた? お前は俺の支配下にあるはずだ。強い『縛り』を入れているはずなのに……どうやって、自分の意思を……?」
朔夜は、周囲に聞こえないよう、声を潜めて尋ねた。
影持子は、フッと自嘲するような、それでいてどこか誇り高い笑みを浮かべた。
「……わしは、バカではない」
その言葉の響きは、普段の傲岸不遜な魔王の演技とは違う、もっと静かで、透き通ったものだった。
「わしは、この『魔王・董卓』としての擬似記憶を植え付けられた人格とは、また違うのだ」
「……どういうことだ?」
「わしという存在は、昨日、雪の陣の中で生み出された。その生まれた瞬間から……お前たちが何を話し、何を危惧し、わしをどう扱おうとしていたのか、その全てを【内側から】見ておったわ」
朔夜の心臓が、ドクンと冷たく鳴った。
(こいつ……自我の奥底で、自分がダミーであることを、最初から認識していたというのか……!?)
「そして、わしの『役目』もな」
影持子は、テーブルの上の冷めたコーヒーを見つめながら、淡々と語る。
「本物の持子を守るための、身代わり(デコイ)。裏社会を欺き、魔王の健在をアピールするための張り子。……それが終われば、お前たちの手によって『消される』存在だということも、とうに分かっておる」
その残酷な事実を、影持子は一切の恨み言もなく、ただ静かに受け入れていた。
魂のないダミー。プログラムされた人形。だからこそ、自分の存在意義と寿命を、極めて客観的に理解していたのだ。
「……」
朔夜は、ギュッと拳を握りしめ、冷徹な陰陽師としての顔を作った。
「すまないが……そういうことだ。お前は身代わりだ」
朔夜の声は、微かに震えていたが、決して同情は見せなかった。
「だから、今からお前を元の『何も知らない尊大な魔王・持子』に戻す。術式で完全に封をする。……お前が余計なことを知っていると、魔王・持子としての振る舞いに矛盾ができる。敵に察知される危険も増えるからな」
陰陽師としての、最も正しく、最も合理的な判断。
情に流されず、リスクを最小限に抑えるための処置。
朔夜は再び印を結び、今度こそ完全に影持子の自我を上書きしようとした。
――その時。
朔夜の脳内に、直接『声』が響いた。
『わしはバカではない』
「っ!?」
朔夜がハッとして影持子を見る。
影持子は、口を動かしていなかった。彼女は、エティエンヌの魔法のパスの残滓と、朔夜との間に繋がった陰陽術のパスを利用して、直接『念話』を送ってきたのだ。
『全てを知って、尚且つ、最後の時まで完璧に【魔王・董卓】の役目を演じ切ってみせよう。誰にも悟らせん。矛盾など生じさせん。……だから、消すな。今のこの【わしという自我】を、消さないでくれ』
それは、誇り高き魔王の懇願だった。
ダミーとして生まれ、数日の命しかないと分かっていながら、それでも「自分という存在」を無かったことにされたくないという、魂なき者の悲痛な叫び。
「……何故だ」
朔夜は、同じく念話で返し、険しい表情で影持子を睨みつけた。
「お前は、西洋魔術の吸血鬼の秘術と、東洋の陰陽術、そして強大な悪魔の残骸という依代に、複数の人間の血と記憶を混ぜ合わせて作られた、本当の怪物だ。……自我を持たせれば、いつバグを起こして暴走するか分からない。俺は、本物の持子を守るために、リスクは徹底して減らしたいんだ」
朔夜の言葉は、残酷なまでに真っ当だった。影持子も、その合理性を否定しなかった。
『……お前の言う事は真っ当だ。わしが逆の立場なら、迷わずお前と同じ事をするだろう』
影持子の念話が、寂しげに響く。
『危険分子は排除する。駒は感情を持たぬ方が使いやすい。……それが王の、そして指揮官の鉄則だ』
「なら……!」
朔夜が、術式を発動させようと指先に呪力を込める。
『だが!』
影持子の念話が、強く、熱を帯びて朔夜の脳内を打った。
『……この感情は、わからんのだ』
影持子の黄金の瞳が、真っ直ぐに朔夜を見つめ抜く。その瞳には、プログラムされた魔王の記憶ではない、昨日生まれたばかりの『彼女自身』の純粋な戸惑いと、切なさが揺れていた。
『わしは、魂などない存在のはずだ。プログラムされた感情しか持たない、ただの張り子のはずだ。……だが、お前に【情】というものが湧いたのだ』
「……っ」
朔夜の指先から、呪力がスゥッと抜け落ちていく。
『昨日、お前の強引な命令で、身体を重ねて……。記憶は消されたはずなのに、お前の熱や、匂いや、わしを組み敷いた時のあの瞳が、奥底に焼き付いて離れん。……身体を重ねて、何かが、わしの中に【生まれた】のだ』
影持子の声が、震えていた。
『わしは、お前のことが……。……だから、消さないでくれ。この、お前を想う【わし】を……無かったことにしないでくれ』
ドクンッ。
朔夜の心臓が、激しく、痛いほどに大きく跳ねた。
(……同じだ)
朔夜は、目を見開いて、目の前の少女を見つめた。
(俺と……同じじゃないか)
ダミーだと分かっていた。消される運命だと分かっていた。
それでも、ベッドの上で彼女に触れ、彼女の熱を感じ、彼女を抱いた時。朔夜の中にも、確かに彼女に対する『情』が生まれていたのだ。
本物の持子への想いとは違う。この、傲慢で、不器用で、だけど自分の下で可愛らしく蕩けてくれた『影持子』という一人の存在に対する、抗い難い愛着と独占欲。
自分の中にあるその感情を押し殺し、陰陽師としての冷徹な判断を下そうとしていた朔夜にとって、影持子の告白は、あまりにも痛切で、そして嬉しかった。
朔夜が呆然としていると、現実世界の影持子は、スッと表情を切り替えた。
赤面も、もじもじとした態度も完全に消し去り、いつもの「傲岸不遜な魔王・董卓」の顔を完璧に作り上げたのだ。
「ふんっ! 何をボーッとしておるのだ朔夜! 貴様がパンケーキを奢ってくれたことには感謝するが、わしの胃腹はまだ三割も満たされておらんぞ!」
影持子は、残っていたパンケーキをフォークで豪快に突き刺し、パクッ! モグモグモグッ! と、まるでバカみたいに、見事な食べっぷりで貪り始めた。
周囲の客から見れば、ただの「大食いの美しいお嬢様」にしか見えない。彼女は、自分が『魔王・持子としての役』を完璧に演じ切れることを、行動で朔夜に示してみせたのだ。
(……ああ、そうか。お前は本当に、不器用で、強くて、愛おしい化け物だな)
朔夜は、フッと口元を緩め、テーブルの下で組んでいた指を解いた。
そして、影持子の脳内に向けて、静かに、しかし力強い『念話』を返した。
『……分かった。お前の自我は、そのままにしておく』
ビクッ、と。
パンケーキを頬張っていた影持子の肩が、小さく震えた。
『その代わり、絶対にボロを出すなよ。最後まで完璧に、魔王・董卓を演じ切れ。……俺の、可愛い部下としてな』
「んぐっ!?」
朔夜の甘く、そして少しSっ気のある念話に動揺したのか、影持子はパンケーキを喉に詰まらせ、ゴホゴホとむせ始めた。
「けほっ、ごほっ……! ぬぅ、水、水……!」
影持子は、自分のグラスの水を飲み干してしまっていたため、焦ってテーブルの上を見回し――あろうことか、朔夜の目の前にあった『ブラックコーヒー』のカップをガシッと掴み取った。
「あ、おい! 持子!」
朔夜が止める間もなく。
影持子は、朔夜のカップに口をつけ、残っていたコーヒーを一気にゴクゴクと飲み干してしまった。
「ぷはぁーっ! ……に、苦い! なんだこの泥水は! 砂糖を入れんか!」
影持子は顔をしかめながら、ドンッ! と空になったカップをテーブルに叩きつけた。
「……お前なぁ。それ、俺のコーヒーだぞ」
朔夜は、空になったカップと、影持子の唇についているコーヒーの雫を見て、少しだけ顔を赤くした。間接キス、である。
「フン! わしが苦しい思いをしていたのだ、貴様の飲み物くらい献上して当然であろう! 光栄に思え!」
影持子は、ニヤリと……魔王としての、最高に尊大で、傲慢で、美しい笑みを浮かべて朔夜を見下ろした。
現実世界では、完全に『ワガママな主と、それに振り回される部下』の図である。
――だが。
朔夜の脳内には、カップを置いた瞬間の、彼女からの微かで、温かい『念話』が、しっかりと届いていた。
『……ありがとう、朔夜』
その言葉には、魔王の威厳も、虚勢もなかった。
ただ、自分という存在を認めてくれた、一人の男(主)に対する、純粋で深い感謝と愛情だけが込められていた。
「……たく。世話の焼ける奴だ」
朔夜は、わざとらしくため息をつきながらも、その口元には隠しきれない優しい笑みが浮かんでいた。
「よし、パンケーキは終わったな! 腹六分目といったところか。次は原宿の綿飴だ! 行くぞ朔夜!」
「はいはい。……だが、長居はしないぞ。食べたらマンションに戻るからな」
「分かっておるわ! わしを誰だと思っておる!」
表参道のオシャレなカフェを後にした二人は、その後、宣言通りに原宿竹下通りへと向かった。
朔夜の心配をよそに、影持子は周囲の視線を釘付けにしながら、カラフルな巨大綿飴を頬張り、ツナマヨクレープを堪能し、アツアツのたこ焼きをハフハフと平らげていく。
呆れながらも、朔夜は彼女が時折見せる、年相応の少女のような無邪気な笑顔から目が離せなかった。念話による密かなやり取りを経て、二人の間には確実に『共犯者』としての甘く柔らかな空気が流れていた。
そして、冬の短い陽が落ち、街が煌びやかなイルミネーションに包まれる頃。
「……ふぅ。食った食った。大満足である」
「お前、本当に信じられないくらい食うな……」
「フン! 魔王の胃腹はブラックホールなのだ! この程度のカロリー、一瞬で魔力に変換してくれるわ!」
代官山の高級マンション(ペントハウス)へと続く静かな夜道を、二人は肩を並べて歩く。
冷たい夜風が吹く中、影持子は不意に、朔夜のコートの袖をツンと引いた。
「……今日は、楽しかったぞ。朔夜」
小さな、けれど確かな温もりを伴った声。
朔夜は少し驚いたように目を見開き、やがて、優しく微笑み返した。
「ああ。……俺もだ」
消えゆく運命にある張り子の魔王と、それを守り導く若き陰陽師。
迫り来るこの現世で刻んだ束の間の甘く切ないデートの記憶は、二人の胸の奥底に、決して消えない熱として確かに残り続けるのだった。




