【空白の二年と、目覚めし純白の少女】
【空白の二年と、目覚めし純白の少女】
次の日の、夕方。
窓の隙間から差し込む茜色の夕陽が、高級タワーマンションの寝室のベッドを赤く染め上げていた。
「……ん、ぁ……」
最高級のシルクのシーツに包まれながら、恋問持子は、ゆっくりと重い瞼を開けた。
視界が、ひどくぼやけている。
まばたきを数回繰り返し、焦点を合わせる。
見慣れない、高く真っ白な天井。中央には、きらきらと光を反射する豪奢なシャンデリアが吊るされている。
「……ここは、どこ……?」
持子は、ズキズキと微かに痛むこめかみを押さえながら、ゆっくりと首を動かした。
二十畳は優に超えるであろう、広大でラグジュアリーな寝室。
十二月の下旬だというのに、部屋の中は真夏のように暖房が効きすぎていて、ひどく暑い。北海道出身である持子は、昔から部屋を暑いくらいに暖めて薄着(あるいは裸)で過ごすのを好んでいたが、それにしても暑すぎる。
そして、部屋の空気に充満しているのは、むせ返るような甘い香水――シャネルの五番の香りだった。
(……どうなってるの? 私、さっきまで古くてちっちゃい、スタジオの控え室にいたはずなのに)
持子の記憶の最後は、薄暗い撮影スタジオの控え室だった。
モデルデビューからちょうど一周年を記念する日。大好きな所属事務所の社長である立花雪に、「今日は特別に、美味しいイタリアンをご馳走してあげるわ。支度してきなさい」と優しく微笑まれ、ウキウキしながら帰り支度をしていたのだ。
あの時の自分は、高校一年生の三月末だったはずだ。
(イタリアン、食べに行くんじゃなかったの……? なんでこんな、ドラマに出てくるような超高級マンションのベッドにいるの……?)
完全に脳内CPUがショートした持子は、現状を把握しようと、勢いよくベッドから跳ね起きようとした。
だが、その瞬間。
「あ、痛っ……」
腰の奥から、経験したことのないような気怠い疲労感と、熱を持って疼くような感覚が走った。まるで、何日も高熱にうなされた後のような、あるいは極限まで身体を酷使した後のような、得体の知れない脱力感。
持子はハッとして、自分自身の身体を見下ろした。
「……えっ?」
持子は、文字通り息を呑んだ。
自分自身の身体だ。それは間違いない。白磁のように滑らかな肌の色も、見慣れたホクロの位置も同じだ。
だが、記憶にある十六歳の、少し垢抜けなくて、モデルとしてはまだまだ自信のなかった自分の体型とは、明らかに『違う』。
身長は、少し伸びているような気がする。手足がすらりと長く、無駄な肉が一切ない。
そして何よりも――胸元や腰回りのプロポーションが、大人の女性として恐ろしいほどに完成されきっていた。
華奢でありながら、こぼれ落ちんばかりに豊満な双丘。きゅっと引き締まった腰のくびれから、滑らかな曲線を描くヒップライン。神が計算し尽くしたかのような、黄金比の肉体美。
しかも、あろうことか、自分は一糸纏わぬ全裸であった。
「な、なにこれ……私、どうしちゃったの……? 胸、こんなに大きくなかったし…………っ!?」
信じられず、ペタペタと自分の胸や腰に触れてみる。
間違いなく、自分の肉体だ。
だが、自分の手で触れた箇所から、ビクンッ! と、背筋が凍るような、それでいて脳が溶けそうになるような『甘い電流』が走り、持子は思わずベッドの上にへたり込みそうになった。
「ひゃうっ……!? な、なに、この身体……っ!? ちょっと触っただけなのに、なんでこんなに変な感じがするの……!?」
昨夜、マーラ(第六天魔王)として覚醒し、狂宴の中で極限の快楽を貪った肉体の記憶。
自我(董卓の魂)は封印されても、細胞レベルに刻み込まれたその敏感さは、十六歳の無垢な少女の精神には到底処理しきれない刺激だった。
「いやぁぁぁっ!? 私、どうなっちゃったの!? なんで知らない場所で全裸で寝てるの!? イタリアン食べに行こうとしてたのに!! まさか、誘拐されて……変な薬でも飲まされたの!?」
持子の悲鳴が、夕陽に染まる高級ペントハウスの寝室に響き渡った。
いつもの、傲岸不遜でオッサン臭い『極黒の魔王』の覇気は微塵もない。一人称が「わし」から「私」に戻っている。
何より、その黄金の瞳に宿っているのは、絶対的な捕食者の光ではなく、ただ得体の知れない状況に怯えるだけの、無垢で純粋な少女の光だった。
「んんっ……」
「持子、様……」
持子の悲鳴に反応するように、ベッドの周囲の床や、足元の巨大なソファーで眠りこけていた影たちが、次々と身じろぎを始めた。
「……え?」
持子が息を呑んで見下ろすと、そこには信じられない光景が広がっていた。
自分を囲むようにして、五人の美しすぎる女性たちが、泥のように眠っていたのだ。
昨夜、マーラによって極限まで魔力(生命力)を吸い取られ、雪の結界破壊と同時に気を失っていた下僕たちである。彼女たちは、持子をベッドに寝かせた後、心配のあまりその場から離れられず、疲労困憊のまま倒れ込むように眠ってしまっていたのだ。
「持子様……! お目覚めになられましたのね……っ!」
最初にバッと顔を上げたのは、ピンク色の髪を乱した、ダイナマイトボディの美女だった。
彼女はボロボロになったセクシードレス風のトナカイ衣装を纏ったまま、ベッドの上の持子を見るなり、大粒の涙をボロボロとこぼしてすがりついてきた。
「あぁっ、持子様! よかったですわ、本当によかったですわ! わたくし、持子様がこのままお目覚めにならないのではと、気が気でなくって……っ!」
「……えっ? あ、あの……っ!?」
持子は、すがりついてくる美女の顔を見て、心臓が口から飛び出そうになった。
その顔には見覚えがあった。というより、日本のファッション業界や芸能界にいて、彼女を知らない者などいない。
「ゴ、ゴライアスの……大手事務所ゴライアスの、トップモデルの、本多鮎先輩!?」
持子にとって、本多鮎は「テレビや雑誌でしか見たことのない、雲の上の大先輩」であった。十六歳の持子からすれば、弱小事務所スノーの新人モデルと、業界トップを走る大スターという、天と地ほどの差がある存在だ。
「なんで!? なんで雲の上の先輩が、こんなところにいるの!? っていうか、なんでそんなボロボロのトナカイの格好なの!?」
「え……? ご、ゴライアス? 雲の上……? 持子様、一体何を……」
鮎が怪訝な顔をした瞬間、持子の横から、別の影が覆い被さってきた。
「持子様ぁぁぁっ! よがっだあぁぁぁっ!」
「ひゃああっ!?」
ふわふわとした茶色の髪を持つ、小柄で愛らしい美少女――花園美羽が、鮎を体当たりでどかせて、ベッドの上の持子に勢いよくダイブしてきた。
美羽は顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、持子の首に腕を回し、あろうことか、そのまま持子の唇に『ちゅっ!』と、深々とディープキスをかましてきた。
「んんっ!? むぐっ、んんんんっ!?」
「はぁっ、持子様……っ、私、生きた心地がしませんでした……っ! もう二度と、私を置いていかないでくださいね……っ♡ ずっと、ずっと一緒にいますから……っ!」
美羽は、ヤンデレ特有の重すぎる愛情を爆発させながら、全裸の持子の身体にスリスリと頬を擦り付ける。
「プハァッ! な、ななな、何するんですかっ!? あんた誰!? なんでいきなり口にキスするの!? 女の子同士なのに!!」
持子は顔を真っ赤にして、美羽を必死に引き剥がそうとする。だが、暗殺歩法を極めた美羽の腕力は、魔力を失った今の持子では到底振りほどけない。
「あら……? 持子様、なんだかいつもより、お肌が柔らかくて……反応が初々しいですわね。これはこれで、わたくしの母性が強烈に刺激されますわ……♡」
背後から、さらに別の声が響いた。
振り返ると、そこには身長一八五センチはあろうかという、絶世の金髪美女が、破れたセクシーサンタの衣装からこぼれんばかりの巨大な双丘を揺らしながら立っていた。
エティエンヌは優雅な所作で持子を背後から抱きしめると、その豊かな胸の谷間に持子の頭をすっぽりと埋め、金糸のような髪に優しく、チュッとキスの雨を降らせ始めた。
「むぐぅっ!? お、おっぱいが……っ! おっきな外人のお姉さんのおっぱいが、顔に……っ! 息が、息ができないっ!」
持子は巨乳に顔を埋められながら、パニックのあまり手足をバタバタとジタバタさせる。
「Oh, My Master...! Thanks God, you are safe...! I was so worried...!」
(おお、我が主……! 神よ感謝します、ご無事で……! わたくし、本当に心配で……!)
さらに、ベッドの足元から、もう一人の超絶グラマラスな美女が泣きながら飛びついてきた。彼女は持子のお腹のあたりに強く抱きつき、その『神乳』を持子の素肌にこれでもかと擦り付けてくる。
現在の持子は『極黒の魔王』としての魔力を完全に失っている。そのため、魔法による『念話(自動翻訳)』の機能が失われており、アスタルテの言葉がただの流暢な英語にしか聞こえなかった。
「え、英語!? な、なんて言ってるの!? わかんない! 外国人の超美人のお姉さんが二人も!? なんで私、こんなにおっぱいに挟まれてるの!?」
「……持子。本当に、ご無事で何よりですわ……」
少し離れた部屋の隅で、お人形のように可憐な金髪真紅の瞳の美少女が、安堵の涙をハンカチで拭いながら、貴族の令嬢のようにお辞儀をしている。彼女はエティエンヌのように直接抱きついてこないものの、その瞳には強烈な依存と愛情がギラギラと渦巻いていた。
「ご主人様……っ。どうか、もう二度とあのような無茶はなさらないでくださいませ……っ」
鮎が再びベッドによじ登り、持子の手を両手で包み込んで、その甲に狂信的な口付けを落とす。
「わ、わっ……! や、やめてぇぇぇぇっ!!」
持子の精神は、ついに完全にキャパオーバーを引き起こした。
突然知らない部屋で全裸で目覚め、身体は信じられないほど成長して敏感になっており、大手事務所のトップモデルや、どこぞの石油王の娘かと思うような絶世の外国人美女たちが、寄ってたかって自分を「ご主人様」「持子様」と呼び、狂ったようにスキンシップをしてくる。
十六歳の、ツンデレで少し引っ込み思案で純情な乙女のメンタルが、耐えられるわけがなかった。
「私、百合じゃありません!! 男の人が好きなんです!! おっぱい揉まないで!! キスしないでぇぇぇっ!!」
持子は、群がる美女たちを必死に押し退け、ベッドのヘッドボードに背中を張り付けてガクガクと震え上がった。
その必死の拒絶と、あまりにも『普通すぎる』少女の叫びに、下僕たちの動きがピタリと止まった。
「……え?」
鮎が、呆然と目を瞬かせた。
「持子、様……? 百合じゃない? 男が好き……? そ、そんな……嘘ですよね? ずっと、私のことを泥棒猫だって可愛がってくれてたじゃないですか……っ!」
美羽が、信じられないものを見るような目で、ポロポロと涙をこぼし始める。
「What's wrong, Master? Why are you so scared...?」
(どうされたのです、主様? なぜそのように怯えて……?)
アスタルテが困惑して英語で話しかけるが、持子は「ひぃっ、わかんない! 英語わかんない!」と首を横に振るばかり。
「……持子様。まさか、わたくしたちのことが、どなたかお分かりになりませんの……?」
エティエンヌが、真祖の冷徹な知性で、最悪の可能性に思い至り、青ざめた顔で問いかけた。
「知るわけないじゃないですかっ! 鮎先輩はテレビで見たことありますけど、あとの人たちは全然知らないです! 怖い! みんどうかしちゃってる! なんで私をご主人様なんて呼ぶの!?」
持子は、クッションを盾のように構え、泣きじゃくりながら叫んだ。
彼女の記憶には、イギリスでの死闘も、東京ダンジョンでのカオス戦争も、何もない。ましてや、高倉竜がアメリカから帰国していることなど知る由もなかった。
この大都会・東京で、北海道出身の十六歳の持子が頼れる人間は、ただ一人しかいなかった。
「雪さーーーーーんッ!! 雪さん助けてぇぇぇぇっ!! 変な女の人たちがいっぱいいるのぉぉぉぉっ!!」
持子は、まるで迷子になった子供のように、大声で母(社長)の名前を泣き叫んだ。
その悲痛な叫びを聞いて、下僕たちはついに『絶対的な異常事態』を完全に理解した。
「そ、そんな……記憶が……持子様から、わたくしたちとの愛の記憶が、失われてしまったというのですか……!?」
鮎が、絶望に顔を両手で覆い、その場に崩れ落ちた。
「嫌ぁぁぁぁっ! 嫌です! 私のこと忘れないでください持子様ぁぁっ! 今すぐ思い出させてあげますから! 私と、あんなことやこんなこと、いっぱいしたじゃないですかぁぁっ!」
美羽がパニックを起こし、再び持子に飛びついて強引にキスをしようと暴れ出す。
「やめてぇ! しない! 私そんなエッチなこと女の人としたことないっ!!」
「落ち着きなさい、泥棒猫! 今の持子様に無理をさせてはダメですわ! あぁ、でも……わたくしたちが忘れられてしまっただなんて……っ、わたくしの母性が、悲しみで引き裂かれそうですわ……っ!」
エティエンヌが美羽を羽交い締めにして止めながら、自身も大粒の涙を流して崩れ落ちる。
「What should we do!? Master has lost her memory!!」
「……なんてこと。あの宝刀の呪いが、持子様の記憶ごと、お心を封じてしまったというの……?」
アスタルテが泣き喚き、ルージュが青ざめた顔で震える。
広大なペントハウスの寝室は、記憶喪失に怯える元・魔王と、愛する主に忘れ去られて絶望する狂信的な下僕たちが入り乱れ、まさに地獄のような大パニック状態へと陥っていた。
***
一方その頃。
同じ超高級タワーマンションの、別のフロアにある一室。
スノーが借り上げているセキュリティルームでは、息の詰まるような沈黙が支配していた。
部屋の中央に置かれた厳重な結界陣の中には、昨日、持子が自ら封印を解き、マーラと董卓の魂を吸い込んだ『七星宝刀』が、禍々しい紫色のオーラを放ちながら鎮座している。
「……術式の再封印、完了しました。ですが雪先生、これは応急処置に過ぎません。剣の内部に渦巻く呪力の密度は、以前の比じゃありませんよ」
銀髪の美少年、土御門朔夜が、額に脂汗を浮かべながら印を解き、大きく息を吐き出した。
「ええ、分かっているわ。ご苦労様、朔夜」
腕を組み、冷徹な視線で宝刀を見下ろしているのは、スノーの社長、立花雪であった。彼女の完璧な美貌には、珍しく深い疲労の色が滲んでいる。
その傍らで、元大公爵の悪魔であり、スノーの奴隷であるシャーロット(グレモリー)は、両手を前で組み、怯えたように肩を縮めていた。
(あぁ……恐ろしい夜でしたわ……。持子サマがマーラとして覚醒した時、わたくし、本当に食べられてしまうかと思いましたのよ……)
シャーロットは心の中で身震いした。そして、彼女の視線は、結界の中に鎮座する七星宝刀へと向けられた。
(それにしても……オーウェン司令官とバエル様の計画は、見事に成功したということでしょうね。持子サマの魔力は、あの宝刀を通じて完全に吸い上げられ、今や空っぽですわ。地獄の門の封印も、もうすぐ解けるはず……)
シャーロットの胸には、ほんの少しだけ、持子を追い詰めるような言葉を吐いてしまったことへの罪悪感と痛みがチクリと走った。
(ごめんなさい、持子サマ。少しだけ、胸が痛みますわ……でも、わたくしはバエル様とオーウェンには逆らえませんの。わたくしだって、こんな人間の脆い肉体ではなく、本来の悪魔としての力と肉体を取り戻したい……自分の身の安全と復活のためには、スパイを続けるしかないのですわ)
彼女は、己の生存欲求と野心に従い、これからもオーウェンの駒として動く決意を固めていた。
「シャーロット」
不意に、雪の冷たく透き通るような声が名前を呼んだ。
「ヒッ!? は、はいっ、雪社長! なんでしょうかっ!?」
シャーロットは、ビクッと飛び上がって直立不動の姿勢をとる。
「あなたは『過去・現在・未来の透視』の能力を持っているわね。……昨夜の惨劇の前兆、あるいはこの宝刀の呪いについて、何か視えなかったの?」
雪の、まるで魂の底まで見透かすような、鋭く冷徹な眼光がシャーロットを射抜く。
シャーロットは背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
もし、持子が魔王のままであったなら、下僕の契約――『主である持子に嘘をついてはならない』という絶対の強制力が働き、シャーロットは事実をゲロしてしまっていたかもしれない。
だが。
(……あっ。今の持子サマには、魔力が一滴も残っていませんわ……!)
シャーロットは、契約の要である持子の魔力が消失したことで、自身を縛っていた強制力が紙のように薄くなっていることに気がついた。
「わ、わたくし……あの時は、突然の強大な魔力の嵐に恐れおののいてしまって……未来視どころか、目の前の現実を把握するのに精一杯でしたわ……! 何も、何も視えませんでしたの!」
シャーロットは、涙ぐんだような顔を作り、震える声で平然と嘘をついてみせた。
「……そう」
雪は、シャーロットの言葉を疑うでもなく、ただ静かに視線を外した。
「責めているわけじゃないわ。あれほどの神格の暴走……未来視など役に立たなかったでしょうね」
(や、やりましたわ……! 嘘がつけましたわ! これなら、これからもバレずにオーウェン司令官に情報を流せますわ!)
シャーロットは、内心で狂喜乱舞し、スパイとしての活動を継続することに絶対の自信を持った。
「雪さん。これから、どうします? 持子は……いえ、持子の中にいた『魔王』は、この剣の中に完全に封印されてしまった。残されたのは、魔力を持たないただの十六歳の女の子だ」
朔夜が、深刻な顔で雪に問う。
「……ええ。持子は今、私たちの出会いからこれまでの『二年間』の記憶を全て失っているわ。イギリスでの戦いも、合気武道部のことも、下僕たちのことも……全てね」
雪は、窓の外の東京の夜景を見つめた。
「大禍つ炉の暴走は、一時的に抑え込んでいるとはいえ、止まったわけじゃない。エクリプスや、世界中の敵対勢力が、牙を研いでこの東京を狙っている。……そんな状況下で、最大戦力だった『魔王』を失った。絶望的ね」
「俺たちだけで、あの子を……記憶を失った普通の女の子を、護りきれますかね?」
朔夜の問いに、雪は振り返り、大陰陽師としての、そして一人の『母』としての絶対的な覚悟を瞳に宿した。
「護るのよ。何に代えてもね。あの子が、自分の魂を犠牲にしてまで私たちを護ってくれたように……今度は私たちが、どんな手を使ってでも、あの子の日常を護り抜くのよ」
その時。
雪の持つスマートフォンが、けたたましい着信音を鳴らした。
発信者は、持子の部屋にいる本多鮎からだった。
『ゆ、雪社長ぉぉぉっ!! た、大変ですわっ! 持子様がお目覚めになられたのですが、わたくしたちの顔を見て「百合は嫌だ」と泣き叫んで大パニックになっておられますのぉぉぉっ!!』
電話の向こうからは、美羽の泣き声や、エティエンヌの悲鳴、そして持子の「雪さーーーーん!!」という絶叫がカオスに混ざり合って聞こえてくる。
「……どうやら、魔王軍の『日常』は、すでにカオスな形で始まってしまったようね」
雪は、フッと小さく、呆れたような笑みを漏らした。
「行くわよ、朔夜、シャーロット。私たちの可愛い、手のかかる『新人タレント』を迎えにね」
「はいっ! 喜んで!!」
「は、はいですわっ!」
魔王の記憶と力が失われ、空白の二年間を抱えた無垢な少女の目覚め。
彼女を狂信的に愛する下僕たちとの、噛み合わないドタバタな同居生活。
そして、水面下で確実に進行する、東京カオス戦争へのカウントダウン。
全てをリセットされた『JK持子』の、新たな受難と愛の物語が、今、再び幕を開けようとしていた。




