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【第六天の覚醒と、聖夜の星封印】

【第六天の覚醒と、聖夜の星封印】


東京湾の地下深く、冷たい海水の圧力を物理的にも魔術的にも完全にシャットアウトした巨大な空間。


米国プロメテウス財団『エクリプス』極東支部の司令室は、普段の冷静沈着な空気とは打って変わり、ひりつくような焦燥感に包まれていた。


「……馬鹿な。あり得ない」


司令官ヴィンセント・オーウェンは、最高級のイタリア製葉巻を灰皿に押し付け、ギリッと奥歯を噛み締めた。


彼の視線の先にある巨大モニターには、スノー所属者専用高級マンションの『外部』から観測した魔力波長データが表示されている。そこに映る『七星宝刀』と『恋問持子』の間の魔力パスが、数日前からピタリと平行線を描き、完全にストップしていたのだ。


「宝刀の魔力吸引が完全に停止しているだと!? しかも、呪いのパス自体は切断されていない。まるで、蛇口の先だけを精緻な術式で塞いだような……ッ!」


オーウェンは、コンソールのキーボードを苛立たしげに叩いた。


七星宝刀は、持子の魂に過去の罪悪感という『呪い』を打ち込み、そこから生み出される膨大な魔力を『地獄の門』へと流し込むためのターミナルだ。

呪いを解くには剣を手放すしかないが、持子の脆弱な精神はそれを許さない。ゆえに、この計画は完璧なはずだった。


「……立花雪。あの女か。千年を生きる大陰陽師というのは、ただのハッタリではないというのか。私の仕込んだ古代の術式を、外部から、それも持子に悟られることなく書き換えたというのか!」


オーウェンの整った顔が、屈辱と怒りに歪む。


このままでは、12月24日のクリスマスイブ――霊的波長が最も高まるこの『聖夜』に設定していた、持子の魔力枯渇(自壊)と地獄の門の解放というシナリオが瓦解してしまう。


『――慌てるな、王允オーウェンよ』


突如、司令室の室温が急激に低下し、全てのモニターがノイズに覆われた。

オーウェンの背後に広がる濃密な闇の中から、地獄の瘴気を煮詰めたような重低音が響き渡る。


ソロモン七十二柱の第一位、東方の悪魔王『バエル』の顕現であった。


「……バエル卿。しかし、このままでは計画が……」


『事態は我々の想定を遥かに超え、“最悪で最高”の結末へと向かっているのだ。お前はただ、この奇跡的な盤面を特等席で眺めていればよい』


バエルの声には、オーウェンの焦りなど塵芥ちりあくたにも等しいと言わんばかりの、絶対的な王の威厳と暗い歓喜が満ちていた。


『オーウェンよ。お前は疑問に思わなかったか? いくら天下を恐怖で支配した董卓の魂と、絶世の美女・貂蝉の肉体を掛け合わせたキメラとはいえ、あの娘の魔力の質は、あまりにも異常だと』


「……異常、ですか」


『そうだ。あの娘は、他者の情念……特に、民衆からの賞賛(モデルとしての人気)や、同性(女たち)からの重く歪んだ愛欲を際限なく喰らい、己の絶対的な力と美貌に変換する。人間の器で、そのような芸当ができるはずがない』


バエルの言葉に、オーウェンの知略の脳裏に、一つの恐るべき仮説が閃いた。


『さらに言えば、董卓は生前、自らを“覇王”や“王”と称することはあっても、“魔王”とは名乗っていなかったはずだ。だが、あの娘は覚醒した当初から、まるでそれが己の本来の存在証明であるかのように、無意識に“わしは極黒の魔王だ”と自称していた』


「まさか……。あの娘の魂の根底に眠っているのは、董卓でも貂蝉でもない……別の『神格』だというのですか!?」


バエルが、暗闇の中で残虐に嘲笑った。


『その通りだ。あの器の最深部に巣食っているのは、かつて日本に顕現するはずだった神仏すら堕落させる愛欲の支配者――【第六天魔王マーラ(他化自在天)】の神格だ』


「第六天魔王……マーラ……!」


オーウェンは息を呑んだ。

仏教において、修行者の前に現れ、あらゆる欲望と快楽で誘惑し、破滅へと導く最悪の魔王。


『本来、あの器の中では、強烈な董卓の自我エゴと生命力が、マーラの神格の上に分厚いフタをして押さえ込んでいたのだ。だが、お前の仕込んだ七星宝刀が董卓の魂を削り、弱体化させたことで、両者の霊格はほぼ同列にまで並んだ』


「……そして今、雪の封印によって宝刀のガス抜き(魔力吸引)が止まった。持子の体内には、日々集められる膨大な“愛”と“情念”が、逃げ場を失ってパンパンに蓄積され続けている……!」


オーウェンが、バエルの言葉の真意を理解し、戦慄の表情を浮かべた。


『左様。マーラの魔力が董卓の自我を上回り、完全に内側から喰い破って浮上する臨界点。それが、魔力が最も高まるこの“聖夜”だ。……見よ。世界の終わり(はじまり)を告げる、真の狂宴が幕を開けるぞ』


バエルの言葉と同時。


メインモニターに映る、マンション外部の魔力測定器の数値が、突如として赤黒い『極彩色』の反応を示し、警告音すら発することなく、計測限界をぶち破ってブラックアウトした。


***


「むぐっ……うむ、このローストチキン、なかなか良い味付けではないか。雪の奴、高い金を出した甲斐があったな」


東京の超高級タワーマンション、その最上階にある広大なペントハウス。


クリスマスパーティーの喧騒の中、セクシーメイド服に身を包んだ恋問持子は、満面の笑みで巨大なチキンのもも肉に齧り付いていた。


「えへへ……持子先輩、お口の端にソースがついてますよ。私が舐めとってあげますねっ♡」


モデル志望の阿部凛花が、メイド服のスカートを翻して持子ににじり寄る。


「こら阿部、抜け駆けはずるいぞ! 私だって持子先輩の食べ残しを……っ!」


南原紗良への告白のタイミングを完全に逃した佐藤陽翔が、煩悩のままに突撃してくる。


「ええい、お前らやかましいわ! わしは今、食うのに忙しいのだ!」


持子が笑いながら二人を軽くあしらい、再びチキンに口をつけようとした。


――その、瞬間だった。


『ピシッ』


持子の耳の奥で、何かが決定的に『割れる』音がした。


「……え?」


持子の動きが、彫像のようにピタリと止まった。

手にしていたチキンが、力なく床のペルシャ絨毯へと転げ落ちる。


「持子様……? いかがなさいました?」


トナカイ姿の本多鮎が、怪訝そうに首を傾げた。


「……持子先輩、突然呆けてどうしたのですか。また脂っこいものを食べ過ぎて腹でも痛めたのですか」


サンタ服姿の風間楓が、ウーロン茶のグラスを置いて持子の顔を覗き込んだ。


「あ……ぁ……」


持子の口から、ひび割れたような、くぐもった声が漏れた。

そして、ゆっくりと顔を上げた持子の『瞳』を見た瞬間。


楓の背筋に、尋常ならざる死の悪寒が走り、全身の産毛が総毛立った。


「全員、ただちに持子先輩から離れなさいッ!!」


楓が、テーブルを蹴り飛ばしながら絶叫した。


だが、遅かった。


『ズドォォォォォォォォォンッ!!!!』


持子の背中から、黄金の『極黒の魔力』ではない、赤黒く濁った、吐き気を催すほどに甘く、そして極悪な『極彩色の魔力の奔流』が爆発的に噴出したのだ。


「きゃあぁぁぁっ!?」

「な、なんだこれ……っ! 息が……っ!」


爆発的な魔力の波に当てられ、合気武道部の面々や下僕たちが次々と吹き飛ばされ、床に転がる。

ペントハウスの巨大なガラス窓が粉々に砕け散り、東京の冷たい冬の夜風が室内に吹き込んだ。


だが、部屋の空気は冷たくなるどころか、まるで真夏の熱帯夜のように、ねっとりと湿度を帯びた、異常に甘ったるい匂いで充満し始めていた。


「あぁ……足りない。足りないわ……。もっと、もっと……貴方たちの愛が、欲しい……」


魔力の中心に立つ持子が、ゆっくりと両手を広げた。


その瞳は、もはや傲岸不遜な魔王の黄金ではなく、見る者の理性を一瞬で蒸発させる、深淵のような『魔眼』へと変貌していた。

董卓の自我は完全に泥の底へと沈み込み、その肉体の主導権を握ったのは、純粋なる愛欲と破滅の神格――【第六天魔王マーラ】であった。


「持子先輩……あなた、一体……」


楓が咄嗟に空間から白銀の直刀『生太刀いくたち』を顕現させて構えるが、マーラの瞳と目が合った瞬間、神話級の宝具であるはずの刃先がガタガタと震え始めた。

修羅の巫女として数多の死線を潜り抜けてきた彼女の闘争本能が、真っ向から『降伏』を命じているのだ。


「さあ、愛しの娘たち、息子たちよ」


マーラ(持子)の声は、かつてのオッサン臭い口調とは全く異なる、脳髄を直接撫で回されるような、甘く、恐ろしいほどの母性と蠱惑に満ちていた。


「我に、そのまりょくを捧げよ……。恐れることはない。永遠の快楽の中で、我と一つになろうぞ」


マーラが指先を軽く鳴らした。


瞬間、広大なペントハウス全体が、外界から完全に遮断された『愛欲と死の固有結界』へと変貌した。空間そのものが、ピンク色に濁った極彩色の瘴気で満たされる。


「かはっ……!? なんだこれ……身体が、熱い……っ」


佐藤陽翔が、胸を掻き毟りながら床でのたうち回った。


「あぁ……っ、持子、先輩……私、もう……」


阿部凛花が、虚ろな瞳で甘い吐息を漏らし、そのまま糸が切れたように意識を手放す。


マーラが放ったのは、致死量の『魅了チャーム』の波動。

それは、物理的な防御力や、合気の理など一切通用しない、魂の根幹に対する概念攻撃だった。


千手、森、門、高橋、南原。S級に覚醒した合気武道部の若き武術家たちが、抗う間もなく次々と瞳を虚ろにし、快感の中で魔力と生命力を吸い取られ、倒れていく。


「やめなさい……持子先輩! その人たちは……ッ!」


楓が必死に神気を練り上げようとするが、マーラの結界内では魔力が霧散し、身体が鉛のように重くなる。


「あら、抵抗するの? いけない子。……でも、貴女のその強ばった顔が快感に蕩ける瞬間も、とても美しいのでしょうね」


マーラが、まるで瞬間移動のように楓の背後に立ち、その耳元で甘く囁いた。


「くっ……!」


マーラの指先が楓の首筋を優しく、ひどく官能的になぞった瞬間、楓の口から抗いようのない甘い嬌声が漏れ、手にした生太刀が床に滑り落ち、彼女の身体もまた床へと崩れ落ちた。


「持子、様……っ。おやめ、ください……っ」


圧倒的な絶望の中、ただ一人、第一下僕の本多鮎だけが、ガクガクと震える足で立ち上がっていた。


「わ、わたくしのご主人様を……どこへやったのですかっ……! その身体から、出て行きなさい……ッ!」


鮎が、極黒の魔力を振り絞ってマーラへと飛びかかろうとする。

だが、マーラは微笑んだまま、鮎の正面に立ち、その顔を両手で優しく包み込んだ。


「可哀想な、私の可愛い忠犬。貴女は、この肉体を狂おしいほど愛しているのでしょう? ならば……私の愛を、全て受け止めてちょうだい」


マーラの顔が近づき、その柔らかい唇が、鮎の唇を塞いだ。


「んんっ……!?」


ただのキスではない。それは、魂の奥底まで痺れさせるような、純度百パーセントの快楽の毒だった。

マーラの舌が鮎の口内を蹂躙し、甘く、ねっとりと絡みつく。


「んぁ……っ、ぁ、あぁ……っ♡」


鮎の瞳からハイライトが消え飛び、口からよだれが垂れる。

董卓の乱暴な扱いには耐えられた鮎のドMの精神も、神格レベルの純粋な『快楽の暴力』の前には、一瞬でキャパオーバーを引き起こした。


マーラは唇を離すと、今度は鮎の首筋、鎖骨へと濡れた口付けを落としていく。


「あぁっ……持子様……わたくし、死んでしまいますわ……っ♡ あぁっ、もっと……もっとぉっ……!」


鮎は、完全に理性を失い、マーラの胸にすがりつきながら、歓喜の涙を流して自らの生命力を喜んで捧げ始めた。


「次は、貴女ね。可愛い小鳥」


マーラは、震えて立ちすくむ花園美羽へと視線を向けた。


「ひぃっ……持子様、私……私だけを……」


美羽が後ずさる間もなく、マーラは彼女を抱き寄せ、その華奢な身体をまさぐるように愛撫し始めた。

背中から腰へと滑るマーラの指先は、美羽の敏感な部分を的確に捉え、電気のような快感を走らせる。


「ひゃんっ……! あ、ダメ……そんなに触られたら、私、おかしくなっちゃいますぅ……っ♡」


マーラは美羽の耳たぶを甘く噛み、そのまま首筋に歯を立てた。


「持子様に食べられるなら……本望、ですぅ……♡」


美羽もまた、恍惚とした笑みを浮かべたままマーラに抱きつき、その命を吸い取られていく。


「あぁ……なんて素晴らしい愛。もっと、もっと私を満たして」


マーラは次々と下僕たちを毒牙にかけていく。


「あぁ……持子様……わたくしのアムールも、全て……」


エティエンヌは、マーラに胸の谷間を深く愛撫され、真祖の誇りも何もかも忘れ去り、甘く蕩けた声で喘いだ。

マーラは彼女の美しい金髪を掴み、その唇を貪るように奪いながら、吸血鬼の強大な生命力をごっそりと飲み込んでいく。


「んぁ……っ、持子サマ……最高ですわぁ……っ」


ルージュとシャーロットもまた、マーラの放つ極彩色の魔力に身体を這われ、服の上から執拗に愛撫されながら、快感の絶頂で瞳を剥き出しにして倒れ伏した。


「はぁっ……はぁっ……わたくしも……持子様の愛で、いっぱいにして……っ♡」


アスタルテは自らマーラの足元にすがりつき、豊穣の女神としての生命力を進んで差し出していた。

マーラは彼女の顎を撫で上げ、ご褒美とばかりにその額に優しくキスを落とした。


スノーが誇る規格外の下僕たちですら、第六天魔王の絶対的な誘惑の前には、手も足も出なかった。

誰もが甘い笑みを浮かべたまま、文字通り『愛で殺されかける』という、絶望的で官能的な惨劇。


ペントハウスは、美しい女たちが折り重なり、甘い喘ぎ声を上げながら死に向かっていく、狂気の地獄絵図と化していた。


「ああ……満ちていく。足りなかったものが、埋まっていく……。だが、まだ……まだ、一番美味しい『魂』が、足りない……」


マーラは、足元で喘ぐ下僕たちを見下ろしながら、妖しく唇を舐め、そして、砕け散ったガラス窓の向こうの夜空を見上げた。


***


『ズガァァァァァァァァンッ!!!!』


その時、ペントハウスの頑丈なチタン製の重扉が、外側からの凄まじい衝撃によって紙屑のように吹き飛ばされた。


舞い散る粉塵の中、仕事用の黒いトレンチコートを翻し、肩で息をしながら飛び込んできたのは――スノーの社長、立花雪であった。


「持子!!」


雪の叫び声が、ピンク色の瘴気を切り裂く。

彼女の目に飛び込んできたのは、床に倒れ伏し、生命力を吸い取られて仮死状態に陥りつつある部下や合気武道部の子供たちの姿。


そして、部屋の中央で、己の愛娘とも呼べる持子が、全く別の『化け物』の顔をして微笑んでいる光景だった。


「おお……」


マーラは、雪の姿を見た瞬間、極彩色の魔眼を歓喜に見開いた。


「来たのですね。この世で最も美しく、気高き魂。我が愛しき『母』よ」


「……あなたは、持子じゃないわね」


雪は瞬時に状況を察し、指の間に数枚の護符を挟み込んだ。

1000年を生きる大陰陽師としての、EXランクの霊力が周囲の空間を凍りつかせる。


「私はマーラ。貴女の娘の魂の底に眠っていた、真なる愛の形。……さあ、母よ。貴女のその冷たい理性をドロドロに溶かし、我への愛で狂い鳴かせてあげよう」


「ふざけないで。私の可愛いモデルを、返しなさいッ!!」


雪が護符を放つ。

空間を切り裂く五芒星の結界が、光の檻となってマーラを包み込む。

それは、神話級の悪魔ですら一瞬で塵に還す、雪の全力の大陰陽術であった。


――しかし。


『パキッ……パキパキパキッ!』


「なっ……!?」


雪の放った強固な結界が、マーラが指先で軽く触れただけで、ガラス細工のように音を立ててひび割れ、砕け散った。


「無駄よ、母上。貴女の術式は『拒絶』の力。しかし、私の力は『受容』。貴女の霊力すらも、私は愛として飲み込んでしまう」


マーラが、蠱惑的な笑みを浮かべたまま、音もなく雪の眼前にまで肉薄した。


「くっ……!」


雪が後退しようとするが、マーラの腕が雪の腰に回り、強引にその身体を抱き寄せた。


「放しなさい……ッ!」


「ふふっ……強がる顔も素敵ですね、お母様」


マーラの顔が近づき、その熱い吐息が雪の耳元を撫でた。

そして、マーラの指先が、雪のトレンチコートの襟元から滑り込み、その柔らかな肌を直接なぞり始めた。


「あ……がっ……!?」


その瞬間、雪の全身から力が抜け、膝から床に崩れ落ちそうになった。


マーラの指が這うたびに、身体の芯から火が点いたような熱が広がり、思考が麻痺していく。

1000年間、どんな絶望にも屈しなかった大陰陽師の霊力と生命力が、マーラの指先を通じて、恐ろしい速度で吸い上げられていく。


「あぁ……なんて清らかで、強い魂。これを全て飲み込めば、私は完全に現世に顕現できる……。さあ、母よ。私の中で、永遠に愛し合いましょう」


マーラの唇が、雪の白いうなじに這い、深くキスを落とす。


「んっ……持子……目を、覚ましなさい……。あなたの中の、本当の自分を……思い出して……ッ!」


雪は、薄れゆく意識と抗いがたい快楽の波の中で、必死に手を伸ばし、マーラのメイド服の胸ぐらを掴んだ。

だが、その手からみるみるうちに力が失われていく。


雪の冷徹な顔に、生まれて初めて、死の苦痛と、『娘(持子)を喪うかもしれない』という絶対的な恐怖が浮かんだ。


***


(……おい)


マーラの支配下にある、意識の泥の底。


七星宝刀の呪いによって削られ、マーラの圧倒的な愛欲の神格に押し潰されていた『董卓の魂』が、暗闇の中でゆっくりと目を開けた。


(……おい、化け物)


目の前では、自分の大切な仲間たちが、無様な姿で命を吸われている。

下僕たちが。合気武道部のバカどもが。楓が。

そして何より――。


自分を信じ、愛し、この世界に繋ぎ止めてくれた『推し(母)』である雪が、死にかけている。


(――ふざけるな)


董卓の魂の中で、何かがブチッと千切れる音がした。


過去の罪悪感? 嫌われる恐怖? そんなものは、どうでもいい。

今、目の前で、わしの大切な女が泣いているのだ。


(――ふざけるな。わしの下僕たちを殺すな!)


泥の底から、暴君の覇気が火山のように噴火した。

そして同時に、16歳の『オリジナル持子』の純真な魂もまた、叫びを上げていた。


(――何より、わしの……わしの大好きな、推し(雪)に、その薄汚い手で触るなぁぁぁぁっ!!!!)


「ガァッ……!?」


現実世界で。

雪のうなじに唇を寄せていたマーラの顔が、突如として苦痛に歪んだ。


「な、なんだ……? 沈んだはずの自我が……こんな、下等な人間の魂が、私の神格に逆らうだと……!?」


マーラが驚愕に目を見開く中。

持子の『右腕』だけが、完全にマーラの制御を離れ、ギリギリと骨の軋む音を立てて持ち上がった。


「……雪から、手を離せッ!!」


持子の口から、本来のオッサン臭く、泥臭い、極黒の魔王の咆哮が迸った。


ズドォォォォンッ!!


持子の右手が、マーラの魔力回路の中枢である『自身の胸』に、躊躇なく深々と突き立てられた。


「ガハァッ!!」


持子の口から、大量の鮮血が吐き出される。

自身の心臓を握り潰すかのような激痛。だが、その自傷の痛みによって、持子は一瞬だけ、身体の主導権をマーラから完全に奪い返したのだ。


「はぁっ、はぁっ……雪、無事か……!」


「持子……あなた、自分に何を……!」


雪が、血を吐く持子を見て悲鳴を上げる。


「マーラの力は、わしの極黒の魔力では相殺しきれん……。こいつを完全に抑え込む方法は……もう、これしかない」


持子は、血塗れの左手を伸ばし、自室から持ち出してきていた『七星宝刀』を力強く掴み取った。

それは、自らの魂を削り、地獄の門へと魔力を吸い上げる呪いの剣。


「持子! ダメよ! その剣の封印を解けば、あなたの魂ごと、地獄の底へ引きずり込まれるわ!!」


雪が、全てを悟り、絶叫して手を伸ばす。


「……雪。すまん! お前がわしのためにかけてくれた封印……無駄にしてしまうわいっ!」


持子は、迷うことなく、自らの手で七星宝刀に施された雪の陰陽術のフタ(封印)を、魔力で物理的に破壊した。


『パキィィィィィィンッ!!!!』


ガラスが砕け散るような音と共に、七星宝刀のリミッターが完全に解除された。


瞬間、剣の奥底に開いた『地獄の門(底なしの深淵)』が、凄まじい吸引力で周囲の魔力を吸い込み始める。


「や、やめろ……! 私の力が……吸われる……っ!」


持子の体内に巣食っていたマーラが、絶望の悲鳴を上げた。

限界まで膨れ上がっていたマーラの神格と魔力が、そしてそれにしがみつく董卓の魂が、濁流となって七星宝刀の奥底へと凄まじい勢いで吸い込まれていく。


「いやぁぁぁっ! 持子ぉぉぉぉっ!!」


雪が、持子の身体にすがりつこうとするが、暴走する魔力の嵐に弾き飛ばされる。

意識が、急速に真っ白に薄れていく中。


持子は、魔王としての威厳も、自己嫌悪も全て捨て去り、最後に、いつものオッサン臭くも、この上なく優しく愛おしい笑みを、雪や倒れた仲間たちに向けた。


「雪……鮎、美羽、エティエンヌ……みんな」


薄れゆく視界の中で、彼女たちと過ごした、騒がしくも幸せだった日々の記憶が走馬灯のように駆け巡る。


「お前たちに出会えて……わしは、最高の人生モデルだったぞ」


それが、極黒の魔王・恋問持子が遺した、最後の言葉だった。


「……少し、寝る」


ピシャァァァァァァァァァンッ!!!!


目も眩むような白銀の閃光が、ペントハウス全体を包み込んだ。

そして、全てが静寂に包まれた。


暴走するマーラの極彩色の気配も、傲岸不遜な董卓の覇気も、何もかもが、世界から完全に消え去っていた。


「……はっ……」

「持子、様……?」


魅了から解放された鮎や美羽たちが、うめき声を上げながらゆっくりと意識を取り戻し始める。


砕け散ったガラスの破片と、無惨に荒らされたパーティーの残骸。

その部屋の中心で。


ただ一人、魔王の記憶と董卓の魂を完全に抜き取られ、気を失って倒れている『16歳の無垢で気弱な少女(オリジナル持子)』だけが、冷たい床に取り残されていた。


「あ、ああ……あぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


全てを悟った立花雪が、崩れ落ちるようにオリジナル持子の身体を強く抱きしめ、氷の女帝としての仮面を捨てて、声を殺して泣き咽んだ。


クリスマスツリーのネオンだけが、悲劇の舞台を虚しく照らし出している。


***


同時刻、エクリプスの司令室。


オーウェンは、すべての外部センサーが完全に沈黙した巨大モニターを前に、呆然と立ち尽くしていた。


スノーの事務所、そして所属者専用の超高級マンションは、敵対組織からすれば文字通り『難攻不落の要塞』である。

千年を生きる大陰陽師・立花雪、天才陰陽師である土御門朔夜、そしてTIAの天才電脳少女・風間高子。彼らが幾重にも張り巡らせた結界と防壁により、内部への隠しカメラの設置や、人間、式神、魔物などの侵入は物理的にも魔術的にも一切不可能だった。


ゆえにエクリプスが監視できるのは、辛うじてマンションの外部に設置した監視カメラや魔力測定器からの『外からの情報』のみ。だが、その外部センサーすらも、先ほどの白銀の閃光によって完全に焼き切られていた。


「……マーラの極彩色の気配も、董卓の覇気も、完全に消滅しました。内部で一体何が……」


『フハハハ……どうやら、我々の盤面すらも覆す“何か”が起きたようだな』


バエルは暗闇の中で愉快そうに嗤った。


『まあよい。結末がどうであれ、魔王の魂は現世から消え失せたのだ。詳細な顛末は、後日……内部に潜り込ませている我々の優秀なスパイ、シャーロットからの報告を待つとしよう』


「……御意」


絶望のクリスマスイブ。

エクリプスの知らぬ所で、東京カオス戦争への本当の地獄の扉が、静かに開かれた瞬間であった。


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