【大禍つ炉編 すれ違う純情と、蝕まれる魔力】
【大禍つ炉編 すれ違う純情と、蝕まれる魔力】
東京・表参道の一等地に位置する、全面ガラス張りの瀟洒な撮影スタジオ。
世界的なハイブランド『リュクス・アンペリアル』の新作ウィンターコレクションの撮影現場は、異様な空気に包まれていた。
『カシャッ! カシャカシャカシャッ!』
「……いい! すごくいいよ、MOCHIKO! その憂いを帯びた瞳、凍りつくような冷たい表情! まさに冬の女王だ! もっと、もっと僕に君の奥底にある『孤独』を見せてくれ!」
フランスから招かれた世界的カメラマンが、興奮でヨダレを飛ばさんばかりにシャッターを切り続けている。
フラッシュの瞬く中、純白のファーコートを羽織った恋問持子は、175センチの完璧なプロポーションを持て余すように、アンニュイな視線をレンズに向けていた。
(……腹が、減った……)
カメラマンには「冬の女王の圧倒的な孤独」に見えているその表情だが、持子の脳内を占めているのは、ただひたすらに『空腹』と『胃の痛み』であった。
昨晩の下僕たちとの狂騒的な女子会から一夜明け、再び持子を襲っているのは、部屋の布団の下に隠し持っている『七星宝刀』から伝わってくる、じわじわとした魔力の枯渇感だ。
通常、持子は周囲の人間が発する『賞賛』や『情念』を極黒の魔力として胃袋(丹田)に溜め込み、それを燃焼させて圧倒的なオーラ(美貌)へと変換している。
しかし今日に限っては、カメラマンやスタッフから浴びせられる熱狂的な魔力が、自分の丹田を通り越して、どこか見えない底なし沼へと直接吸い出されているような気味の悪さがあった。
(おかしい。魔力のコントロールが全く効かん……。気を抜くと、ただのアホ面になってしまいそうだわい)
持子が油断してふっと息を吐いた瞬間。
『ボフッ』という見えない音と共に、持子の全身から極黒の魔力が一気に抜け落ちた。
「あ、あれ……? MOCHIKO? 今、一瞬だけ、すごく……近所のコンビニで半額の弁当を狙っているフリーターみたいな、情けない顔になったような……?」
カメラマンがレンズから目を離し、首を傾げる。
「な、なんでもないぞ! わしは極黒の魔王……いや、冬の女王だ! 見よ、この圧倒的なカリスマを!」
持子は慌てて、丹田に残った魔力を無理やり引きずり出し、ポーズを決め直した。
だが、不安定な魔力回路を通った極黒の魔力は、持子の意図しない『暴走』を引き起こした。
『ブワァァァァァァッ!』
「ひぐぅっ!?」
「な、なんだこの尋常じゃない色気は……ッ! 息が、息ができないっ!」
持子の全身から、致死量に達する『魅了』の魔力がフェロモンのように撒き散らされたのだ。
カメラマンは鼻血を噴出してその場に卒倒し、周囲にいたアシスタントやスタイリストたちも、男女問わず顔を真っ赤にして次々とバタバタと倒れ込んでいく。
「お、おい! どうしたお前ら! 死ぬな! わしはただポーズをとっただけだぞ!」
持子が慌てて駆け寄ろうとするが、コントロールを失った魔力はダダ漏れのままだ。
「――持子様! 大丈夫ですかッ!?」
「持子様、お下がりください!」
スタジオの奥から、第一下僕の本多鮎と、泥棒猫の花園美羽が弾かれたように飛び出してきた。
鮎は、周囲に倒れているスタッフたちを一瞥すると、瞬時に状況を察して持子に歩み寄り、その肩を優しく抱き寄せた。
「ご主人様。魔力の波長が、ひどく乱れていらっしゃいますわ。お顔色も優れません。今日の撮影は、わたくしが『体調不良』ということで強引にキャンセルしてまいりますわ」
「そ、そうですよ持子様! こんな雑魚どもに持子様の尊いお姿を見せ続ける必要なんてありません! さあ、帰りましょう! 私が美味しいクレープ、買ってあげますから!」
鮎と美羽は、過保護な母親か、あるいは過激な親衛隊のように持子を庇い立てる。
持子は、二人の愛の重さに感謝しつつも、自分の異変を悟られまいと必死に平静を装った。
「う、うむ。すまんが鮎、美羽。少し……そうだな、寝不足が響いているのかもしれん。今日は上がらせてもらおうかの」
(宝刀のせいだなんて、絶対に言えん……! 雪だけでなく、こいつらにも嘘をつき続けるのは、心苦しいが……!)
持子は、誤魔化すように二人に背を向け、逃げるようにスタジオの楽屋へと向かった。
その後ろ姿を、鮎と美羽は、先ほどまでの甘い表情から一転、氷のように冷たく鋭い瞳で見つめていた。
「……ねえ、鮎先輩。持子様、絶対におかしいです。ダンジョンから帰ってきてから、ずっと」
「ええ。わたくしと持子様は魔力のパスで繋がっておりますから、わかりますわ。持子様の魔力が、何かに『喰われている』ような……不快な感覚がずっと続いておりますのよ」
「雪社長には報告します?」
「いいえ。……持子様が隠したいと望まれるなら、わたくしたちは下僕として、その秘密ごと愛し抜くまで。ですが……もし、持子様を脅かす『何か』が外部にあるのなら、わたくしが八つ裂きにしてミンチに変えて差し上げますわ」
鮎の瞳に、狂戦士特有の淀んだハイライトが灯る。美羽もまた、七牙の短刀を隠し持つ指先をトントンと動かしながら、静かに、そして重い殺意を孕んだ笑みを浮かべていた。
***
夕暮れ時の、表参道。
冬の始まりを告げる冷たい風が、並木道の枯れ葉を舞い上げている。
スタジオを後にした持子は、鮎と美羽を「買い出しに行ってこい」と体よくパシリに使い、一人でひっそりと裏通りを歩いていた。
右の手に握られているのは、美羽が機嫌取りのために買ってきてくれた、生クリームとイチゴがこれでもかと詰め込まれた特大のメガクレープだ。
普段なら、3秒で胃袋に吸い込まれるはずの極上の甘味。だが、今の持子はどうにも食欲が湧かず、クレープの端を少しだけ齧っては、力なくため息を吐いていた。
(はぁ……。わしは、魔王失格だな。魔力のコントロール一つ満足にできんとは。このままでは、また前世のように、全てを失ってしまいそうだわい……)
持子が、トボトボと人気の少ない路地裏へと足を踏み入れた、その時だった。
『ギャアァァァァァァッ!』
路地の奥から、耳障りな妖の断末魔が響いた。
「むっ?」
持子が顔を上げると、ゴミ捨て場の影で、全長二メートルほどの巨大な犬の妖が、黒い霧となって消滅していくところだった。
そして、その妖が消えた後に立っていたのは――。
漆黒のロングコートに身を包み、身の丈を超えるタクティカル・ハルバード『執行者の黒曜石』を無造作に肩に担いだ、長身の大柄な男。
「……竜」
持子の口から、思わずその名前がこぼれ落ちた。
アメリカのプロメテウス財団『エクリプス』のエージェントであり、SSSクラスの武神。
そして何より、持子にとってかけがえのない、たった一人の幼馴染――高倉竜であった。
竜は、持子の声にピクリと肩を揺らしたが、すぐにその表情を冷徹なエージェントのものへと固定し、ゆっくりと振り返った。
「……奇遇だな。こんな路地裏で、魔王様が単独行動とは。下僕の首輪でも外れたか?」
氷のように冷たく、棘のある言葉。
大禍つ炉の最深部で彼が言い放った『お前はモッチじゃない』という拒絶の言葉が、再び持子の胸を鋭く抉った。
だが、持子は今日こそは逃げないと決めていた。
ダンジョン崩壊の際、彼が確かに自分の手を強く握り、助け出してくれたあの温もりを、持子は信じたかったのだ。
「……竜。単独任務中か? お疲れ様だな」
持子は、極黒の魔王としての尊大な口調をかなぐり捨て、等身大の17歳の少女として、少し震える声で話しかけた。
「偶然会ったのも何かの縁だ。もし……もしよかったら、少しだけ、一緒に帰らないか? 昔みたいに、コンビニの前で肉まんを半分こしたり……その、くだらない話を、したいのだ」
持子は、手に持っていたクレープをギュッと握りしめ、上目遣いで竜を見つめた。
黄金比の絶世の美少女が、頬を微かに染めて縋り付くような瞳を向ける。並の男であれば、それだけで魂を抜かれて一生奴隷になることを誓うほどの破壊力だ。
だが、竜の反応は、持子の淡い期待を木端微塵に打ち砕くものだった。
「……俺に、気安く話しかけるな。魔王」
絶対零度の声。
竜の瞳には、持子に対する明確な『敵意』と『嫌悪』が張り付いていた。
「俺の任務は、東京の霊的脅威の排除と監視だ。お前は監視対象でしかない。勘違いするな。お前が昔の『モッチ』の皮を被っていようと、中身が血に塗れた醜悪な化け物だということは、分かっている」
「りゅ、竜……わしは……っ」
「近づくな」
持子が一歩踏み出そうとした瞬間、竜はハルバードの柄を地面にガンッと叩きつけ、明確な拒絶の意志を示した。
「お前のその汚らわしい魔力を、俺に近づけるな。次俺の前にその顔を見せたら……殺すぞ」
それは、明らかな『嘘』だった。
エクリプスの監視網が張り巡らされたこの東京で、自分が持子に少しでも情を見せれば、彼女がオーウェンの謀略の最大の標的(人質)にされる。彼女を護るために、竜は自ら憎まれ役を買い、彼女との絆を永遠に断ち切る覚悟を決めていたのだ。
だが、持子には、竜のその不器用で哀しい決意を知る由もなかった。
「あ……ぁ……」
持子の手から、力なくメガクレープが滑り落ち、アスファルトの上に無惨に潰れた。
拒絶された。完全に、見捨てられた。
わしは、やはり化け物なのだ。醜悪なオッサンの魂を持つ、誰も愛してくれない存在なのだ。
持子の心に、決定的な絶望のヒビが入った、その瞬間だった。
『ドクンッ!!』
「がっ……!?」
持子の部屋に隠されている『七星宝刀』が、主の激しい精神的動揺に呼応して、遠隔から凄まじい勢いで魔力を吸い上げ始めた。
持子の丹田から、生命力そのものとも言える極黒の魔力が、掃除機で吸われるように一気に消失していく。
「あ……かはっ……!」
持子は胸を押さえて膝から崩れ落ち、アスファルトの上で激しく咳き込んだ。
魔力の急激な低下により、彼女の身体を覆っていた『魔王の威厳』が完全に剥がれ落ちる。
「おい……っ!? 持子!!」
冷徹なエージェントを演じていたはずの竜が、持子の異変に顔色を変え、思わず本来の幼馴染としての口調で叫んで駆け寄ろうとした。
だが、それよりも早く。
持子の魔力の暴走と、精神的な『隙(虚)』を嗅ぎつけた路地裏の妖たちが、周囲の影から次々と這い出してきたのだ。
『ギシャァァァァッ!』
『クエ、クエェェェェッ!』
蜘蛛と百足を掛け合わせたような低級の妖が数十匹、弱り切った持子を極上の餌と見なして一斉に襲いかかる。
「ひぃっ……!」
魔力が底を突き、ただの非力な少女へと退行しつつある持子は、迫り来る妖の群れを前に、顔を覆ってすくみ上がることしかできなかった。
『ズバァァァァァァァンッ!!!!』
直後、凄まじい衝撃波が路地裏を吹き荒れた。
竜の振るったハルバードが、見えない速度で空気を薙ぎ払い、持子に襲いかかろうとした数十匹の妖を、瞬きする間に全て『対消滅エネルギー』でチリ一つ残さず粉砕したのだ。
「……ッ」
持子が恐る恐る目を開けると、そこには、ハルバードを構えたまま、背中で自分を庇うように立つ竜の姿があった。
「……勘違いするな」
竜は、持子を振り返ることなく、低い声で吐き捨てた。
「俺の任務は、妖の排除だ。お前を助けたわけじゃない」
「竜……」
「……立てないほどの魔力枯渇。一体、何をやらかしたのかは知らんが……そんな無様な姿で、俺の前に現れるな。目障りだ」
竜はそれだけを言い残すと、持子に一切手を差し伸べることなく、路地裏の暗がりへと足早に消えていった。
彼がハルバードを握る手が、ギリッと白くなるほど強く握りしめられていたことに、持子は気づけなかった。
「……っ、ふぐっ……うぅ……っ」
誰もいなくなった冷たいアスファルトの上で。
持子は、冷え切った身体を抱きしめながら、ポロポロと涙をこぼした。
(竜……お前は、あんなに冷たい言葉を吐きながら……それでも、わしを護ってくれたではないか……)
突き放す言葉とは裏腹の、不器用な行動。
やはり彼は優しい。だが、その優しさに甘えることは、もう許されないのだろう。彼との距離は、もう二度と縮まることはないほど、遠く離れてしまったのだ。
絶望と、わずかな希望。そして、七星宝刀によって確実に蝕まれていく己の命。
持子は、地面に散らばったクレープの生クリームを見つめながら、ただ一人、孤独な嗚咽を漏らし続けた。
***
――そして。
その路地裏の惨劇を、少し離れたビルの屋上から、氷のように冷たく、狂気に満ちた瞳で見下ろしている二つの影があった。
「……見ましたわね、美羽」
「ええ、見ましたよ、鮎先輩。あのクソ生意気なアメリカ帰りの武闘バカが、我らが持子様を、あんな冷たいコンクリートの床に泣かせて放置したのを」
第一下僕、本多鮎。
そして泥棒猫、花園美羽。
二人の瞳には、ハイライトが一切存在していなかった。
そこにあるのは、自分たちの絶対的な神(持子)を侮辱し、傷つけた高倉竜に対する、沸点を超えた強烈な嫉妬と、純粋な『殺意』だけであった。
「持子様のお心は、わたくしたち下僕の愛だけで満たせばよろしいのですわ。あの男は、持子様にとって『毒』でしかありません」
鮎の背後に、ぬらりと『ルージュ』の影が広がり、血の茨がバチバチと音を立てて蠢く。
「同感です。……次にあの男が持子様に近づいたら。その時は、私が跡形もなく『お掃除』してあげますからね♡」
美羽の指先で、七牙の短刀がチャキッと冷たい金属音を立てた。
すれ違う純情と、見えない呪いの進行。
そして、狂信的な下僕たちの暴走の予感。
魔王・恋問持子を取り巻く運命の歯車は、クリスマスの『最大の悲劇』へ向けて、音を立てて狂い始めていた。




