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【深淵の門と、蘇る亡霊】

【深淵の門と、蘇る亡霊】


東京ダンジョンの深層――そのさらに奥底。


かつて誰も踏み入れたことのない『最深部』へと続く道は、まるで巨大な生物の腸内を歩いているかのような、ひどく生温かく、そしておぞましい気に満ちていた。

空気は粘度を持ち、肺に吸い込むたびに鉄錆と血の匂いが喉の奥にへばりつく。


「……気持ち悪いですね。空気が、まるで死体の泥みたいです」


合気武道部の南原紗良が、眼鏡のブリッジを押し上げながら顔をしかめた。

彼女の隣では、佐藤陽翔が「うぇっ、マジで吐きそうっす……」と口元を押さえている。


一般人でありながら魔力覚醒を果たした合気武道部の一年生たちも、この異常な空間では息をするだけで精一杯だった。

豊穣の女神・アスタルテが絶え間なく極上のバフ(回復・強化魔法)をばら撒き続けていなければ、とっくに瘴気にあてられて倒れていただろう。


「気を抜くな、ひよっこ共。ここから先は、今までとは次元が違うぞ」


先頭を歩く『極黒の魔王』――恋問持子が、普段の尊大な口調で後方へ声をかける。

身長一七五センチ、黄金比のプロポーションを誇る絶世の美少女。彼女の背中はいつも通り傲岸不遜で、頼もしい『王』のそれであった。


しかし。


(……なんだ、この胸のざわつきは)


持子の内側――その魂の最奥に鎮座する『暴君・董卓』としての記憶が、数時間前から警鐘を鳴らし続けていた。


先ほど、Cチーム(エクリプス)の高倉竜から向けられた、氷のような拒絶の視線。


『モッチは、そんな顔をしない』


幼馴染からの決定的な拒絶は、持子の心に重い鉛のようにのしかかっていた。

それに加えて、この最深部に近づくにつれ、かつて三国志の時代で嗅いだ『戦場と裏切りの血の匂い』が、幻臭のように鼻を突くのだ。


「持子様、お顔の色が優れませんわ。少し、お休みになられますか?」


隣を歩く第一下僕・本多鮎が、心配そうに持子の顔を覗き込んできた。

ピンク色の髪を揺らし、インテリジェンスと狂信的な愛を宿した瞳が、主の異変を敏感に察知している。


「……案ずるな、鮎。わしを誰だと思っておる。ただ少し、空気が淀んでいて不快なだけだ」


持子は無理に口角を上げ、不敵な笑みを作った。


「そうですわね。こんな薄汚いダンジョンの底など、持子様の極黒の魔力で一瞬にして浄化……いえ、蹂躙してさしあげましょう」


エティエンヌが優雅に微笑みながら、金髪をかき上げる。


「前方、開けます! ……これは……」


前方を索敵していた花園美羽が、無足の歩法で闇から滑り出るように戻ってきた。

その愛らしい顔には、珍しく緊張の色が浮かんでいる。


美羽の案内に従い、一行が暗いトンネルを抜けると――そこには、絶望的なまでに広大な空間が広がっていた。


そして、その空間の最奥。

天井まで届くほどの巨大な『門』が、重々しくそびえ立っていた。


黒鉄と呪詛で塗り固められたようなその門の隙間からは、ドロドロとしたヘドロのような『穢れ』が、滝のように絶え間なく流れ出している。


「……あれが、大禍つ炉の底……あの門は?地獄の門、ですか」


主将の千手美貴が、息を呑んで呟いた。

あまりの禍々しさに、森盛夫も無言で構えを取り、門蒼真が太い腕に魔力を巡らせて前へ出る。


だが、持子の視線は、その巨大な門自体には向けられていなかった。


門の前。

ヘドロのように広がる穢れの海の中央に、ポツンと『一本の剣』が突き立てられていたのだ。

七つの宝石が埋め込まれた、豪奢で、しかしひどく呪わしい気配を放つ宝剣。


「……な、ぜ……」


持子の喉から、掠れた声が漏れた。

黄金の瞳が、限界まで見開かれる。


ドクン、ドクン、ドクンッ!!


心臓が早鐘を打ち、全身の血が逆流するような錯覚に陥った。


「も、持子先輩……? どうかしたんすか?」


佐藤陽翔が不思議そうに尋ねるが、持子の耳にはもう届いていなかった。


(なぜ、あれがここにある……!? あれは、あの中途半端な小悪党、曹操の小僧がわしを暗殺しようとした時に持っていた……!)


――『七星宝刀しちせいほうとう』。


三国志の時代、董卓の命を狙う数多の陰謀と、血塗られた歴史の中心にあった呪われた刃。

それが何故、現代の東京ダンジョンの底に突き立てられているのか。


(罠だ。これは、誰かがわしを……『董卓』を知る者が、意図的に仕掛けた……!)


持子が叫ぼうとした、その瞬間だった。


『ブォォォォォォォォォォンッ……!!!』


空間全体を揺るがすような、不気味な重低音が鳴り響いた。

大禍つ炉の暴走――上層から溢れ出した莫大な『穢れ』が、七星宝刀を触媒アンテナとして、爆発的な共鳴を起こしたのだ。


「きゃあっ!?」

「な、なんだこの揺れはっ!」


阿部凛花と高橋玲央が悲鳴を上げ、部員たちが体勢を崩す。


門の前に溜まっていた漆黒の穢れが、まるで意思を持った生き物のようにボコボコと沸騰し始めた。

そして、その泥のような闇の中から――無数の『人影』が這い出してきた。


「ヒヒィィィィンッ!!」


いななきと共に姿を現したのは、骨と腐肉で構成された巨大な軍馬。

それに跨る、禍々しい鎧を纏った騎馬兵の群れ。


「……西涼の、騎馬兵……」


持子は後ずさった。

かつて自身が率い、帝都・洛陽を恐怖のどん底に陥れた無敵の軍団。その怨念が、ダンジョンの穢れを受肉して蘇ったのだ。


だが、絶望はそれだけでは終わらなかった。


『――久しいな、相国しょうこくよ』


鼓膜に直接響くような、粘り気のある陰湿な声。

騎馬兵の群れを割って前に出たのは、文官の服を着た青白い顔の男だった。その瞳には、底知れぬ狂気と知性が宿っている。


李儒りじゅ……!」


かつて董卓の知恵袋として暗躍し、あらゆる悪逆非道を共に実行した腹心。

さらにその後ろからは、荒々しい殺気を放つ巨漢の武将たちが姿を現した。


『おお、我らが主よ! また共に殺戮を楽しみましょうぞ!』

『ヒャハハハ! 殺せ、奪え、犯せぇっ!』


李傕りかく郭汜かくし華雄かゆう

血に飢えた狂犬のごとき武将たちが、下卑た笑い声を上げて武器を振りかざす。

そして、その影でひっそりと冷たい瞳を光らせる初老の男――王允おういんの幻影。


「なんだ、あいつら……ただの魔物じゃない! 明らかに『意思』を持ってますわ!」


鮎が『デュラハンの大剣』を即座に顕現させ、持子を背後で庇いながら油断なく構えた。


「皆様、下がって! こいつら、普通の悪魔よりも遥かに濃密な魔力と……ひどくドロドロとした『情念』の塊ですわ!」


ルージュが足元の影から血の茨を這わせ、エティエンヌが『魔殺しの聖剣』を抜く。


「……あ、あ、ああ……」


持子の口から、ひどく間の抜けた、恐怖に染まった声が漏れた。


彼女の中の董卓が、完全に怯えきっていた。

蘇ったのは、味方ではない。彼らは皆、最終的に董卓を裏切り、見限り、あるいは共に地獄へと落ちた怨念の塊だ。


そして。

地鳴りのような足音と共に、亡霊たちの奥から『最強の絶望』が歩み出てきた。


『ズシン……! ズシン……!』


身の丈二メートルを優に超える、鬼神のごとき巨体。

頭には二本の長いきじの尾羽飾りを揺らし、手には万軍を薙ぎ払う『方天画戟ほうてんがげき』を握りしめている。


その男から放たれる武気は、先ほど高倉竜から感じたものと酷似していながら、さらに禍々しく、絶対的な死の恐怖を纏っていた。


呂布りょふ……ッ!!」


董卓が最も愛し、最も頼りとし――そして、自身の首を刎ね飛ばした最恐の猛将。

呂布の傍らには、息を呑むほど美しい、一人の傾国の美女が寄り添っていた。


貂蝉ちょうせん

その容姿は、今、持子が持っている現世の肉体(貂蝉の生き写し)と、鏡合わせのように全く同じだった。


「ひぃっ……! 来るな、来るなァッ!!」


持子は頭を抱え、その場に無様にへたり込んだ。

極黒の魔王として纏っていた圧倒的な威厳と覇気が、ガラスが割れるように粉々に砕け散る。

そこにあるのは、かつての栄光にすがり、裏切りに怯える、惨めな一人の老人の魂だった。


「持子様!?」


美羽が驚愕の声を上げる。

どんな強大な悪魔を前にしても、決して膝を折ることのなかった絶対の主が、ただの亡霊の群れを前に恐怖で震え上がっているのだ。


『――何に怯えている? 俺はお前だ。お前は俺だろう?』


その声は、外からではなく、持子の脳内に直接響き渡った。

穢れの海の最も奥。地獄の門の真ん前から、巨大な肉塊のような『影』がせり上がってくる。


贅肉にまみれた醜悪な巨体。欲望と残虐さに歪んだ顔。

それは、他でもない。三国志の時代において、暴虐の限りを尽くした『董卓』本人の姿をした、概念の受肉であった。


「あ、ああ……わし……わしだ……」


持子の黄金の瞳から、ポロポロと絶望の涙がこぼれ落ちた。

偽物の董卓は、醜く顔を歪めて嘲笑った。


『平和な現代で、女子高生ごっこか? 美しい女の身体を手に入れて、王の器だと持ち上げられて、すっかり良い気になっているようだな』


「ちが、違う……わしは……っ」


『違わない。お前は俺だ。お前の中には、俺と同じく、女を貪り、人を殺し、全てを己の欲望のために蹂躙した真っ黒な泥が詰まっている!』


偽・董卓の言葉が、呪いのように持子の心を侵食していく。


『見ろ、あの合気武道部のひよっこ共を。お前の無責任な力のせいで、こんな地獄に引きずり込まれた。いずれお前のその残酷な本性が目覚めた時、あいつらも全てお前の手で壊すことになる。……お前が愛する立花雪も、最後にはお前を化け物と蔑み、捨てるだろうさ!』


「や、やめろ……やめろぉぉぉっ!!」


持子は耳を塞ぎ、子供のように泣き叫んだ。


一番恐れていたこと。

自分が『董卓』であるという事実が、今の平和で温かい日々――雪との絆、合気武道部の仲間たちの笑顔、下僕たちからの無償の愛を、いつか全て台無しにしてしまうのではないかという恐怖。


偽・董卓は、その最も柔らかく脆い部分を、容赦なく鋭い刃で抉ってきたのだ。


『さあ、化け物は化け物らしく、この地獄の底で永遠に殺し合おうぞ! 殺せぇっ!!』


偽・董卓の号令と共に、三国志の亡霊たちが一斉に咆哮を上げ、Eチームに向かって雪崩れ込んできた。


「ヒャハハハハ! まずはその生意気な女どもから血祭りにあげてやる!」


巨漢の華雄が大刀を振りかぶり、先頭を切って襲いかかってくる。

その後方からは、最強の猛将・呂布が、無機質な瞳で方天画戟を構え、地を蹴った。その踏み込みだけで、ダンジョンの硬い岩盤が爆発したように吹き飛ぶ。


「……持子様」


恐怖に震え、完全に心を折られた持子の前に。

一本の、頼もしい『盾』が立ち塞がった。


「持子様は、耳を塞いでいてくださいませ」


ピンク色の髪をなびかせ、本多鮎が持子に背を向けたまま、静かに告げた。

その細い肩には、身の丈を超える重厚な『デュラハンの大剣』が担がれている。


「あ、あゆ……逃げろ、勝てん……奴らは、バケモノだ……!」


持子が震える声で絞り出す。

しかし、第一下僕は振り返り、この世で最も美しい、慈愛と狂気に満ちた極上の笑顔を見せた。


「化け物? ええ、知っていますわ。持子様が、世界で一番恐ろしくて、理不尽で、どうしようもない化け物(魔王)であることなんて、最初から分かっていますわ」


鮎は、かつて持子から蹂躙され、その極黒の魔力を注ぎ込まれた時の悦びを思い出すように、頬を紅潮させた。


「でも、だから何ですの? 過去がどうであれ、あなたがどれほど醜い魂を持っていようと……わたくしにとって、あなたは世界でただ一人、心から愛し、忠誠を誓った『ただ一人のご主人様』ですわ!!」


『ゴォォォォォォォォォンッ!!』


鮎の全身から、極黒の魔力が火柱のように立ち昇った。

持子から分け与えられた闇の力が、彼女の「狂信的な愛(究極のドM心)」と結びつき、狂戦士バーサーカーとしての真の力を解放させる。


「わたくしのご主人様を泣かせるようなクズどもは……歴史の亡霊だろうが何だろうが、この本多鮎が、一匹残らず叩き斬ってさしあげますわぁぁぁぁっ!!」


『ガキィィィィィィィィィィンッ!!!』


最強の猛将・呂布が振り下ろした必殺の一撃を。

女子大生である鮎が、下からカチ上げた大剣で真正面から受け止めた。

衝撃波がドーム状に広がり、周囲の穢れが吹き飛ぶ。


「……チッ。女の細腕で、俺の戟を受け止めるか」


呂布の亡霊が、初めて驚愕の色を見せた。


「舐めないでくださる!? 愛の力は、物理法則を超えるんですのよ!!」


鮎が狂ったように叫び、呂布と凄まじい剣戟を繰り広げ始める。


「ふふっ……鮎さんにばかり、良いところを持っていかれるわけにはいきませんわね」


エティエンヌが、優雅なステップで李傕と郭汜の前に躍り出る。


「持子様が命懸けで愛したこの世界。わたくしが、命懸けで護り抜きますわ! 『極黒・ノクティス・パニッシュメント』!!」


真祖の魔力と極黒の魔力が融合した漆黒の魔法陣が展開され、襲い来る西涼の騎馬兵たちを空間ごと消滅させていく。


「アスタルテ! 防御陣形とバフの維持をお願いしますわ! わたくしは裏から指揮官を潰します!」


ルージュが『血の茨の盾』を前方に展開し、迫り来る魔術攻撃を相殺する。


「お任せくださいませ! 豊穣の光よ、我が愛しき神の眷属たちを護りたまえ!」


アスタルテが両手を掲げると、サファイアブルーの瞳から放たれた極上の生命力が、Eチーム全員の身体を包み込み、疲労と恐怖を強制的に払拭していく。


「……持子様を愚弄した罪、万死に値します」


花園美羽が、七つの短刀を逆手に構え、瞳孔を開いたヤンデレ特有の真っ黒な目で李儒と王允の影を睨みつけた。


「無足ッ!」


音が消え、気配が完全に消失する。

次の瞬間、美羽は暗殺者の刃を閃かせ、敵の陣形の最も脆弱な部分へと死神のように潜り込んでいった。


「……すげえ。これが、スノーの……持子先輩の下僕たちの、本当の力……!」


後方で呆然と立ち尽くしていた佐藤陽翔が、ゴクリと生唾を飲み込んだ。


「感心している場合ですか、サル!」


南原紗良が、冷静な毒舌と共に佐藤の背中を蹴り飛ばした。


「敵は亡霊だけではありません。大禍つ炉から流れ込む穢れが、ダンジョンの魔物たちまで呼び寄せています。このままでは、鮎先輩たちだけでは陣形が崩壊します!」


「分かってるっすよ!」


佐藤はパンッと両頬を叩き、お調子者の顔から、グラウンドを見渡す冷静なピッチャーの顔へと切り替わった。


「合気武道部、陣形を組むぞ! 千手先輩、森先輩、門! 前衛の防御壁を作って、騎馬兵の突撃を逸らしてくれ! 力で止めるな、全部『入り身』で流すんだ!」


「了解だよっ!」

「……ああ」

「……承知した」


千手、森、門の三人が、強大な魔力を全身の筋肉に纏わせ、一斉に前方へ飛び出す。


突進してくる巨大な骸骨軍馬に対し、千手は水しぶきすら上げない『見えない入り身』で懐に潜り込み、騎兵を馬から引きずり下ろして裏落としで叩き割る。

森は日本刀のように鋭い手刀と十字受けで敵の刃を弾き、門は無表情のまま円の理を用いて、巨漢の武将を次々と背負い投げていく。


「阿部、南原! 後方から魔力で牽制! 高橋は遊撃に回って、漏れた敵を確実に斬れ!」


「はいっ! 持子先輩をお護りするためなら、私、なんでもやりますぅっ!」


阿部凛花が、己の魔力を具現化させた『光の杖』を生み出し、バレエで培った異常な柔軟性で回転しながら、魔力弾を連射する。


「……私の完璧な型、とくとご覧なさい!」


高橋玲央は、美しい日本刀の形に具現化させた『魔力の刀』を上段に構え、教科書通りの完璧な太刀筋で、這い寄る魔物たちを両断していく。


「そして俺は……全部やるっすよ!!」


佐藤陽翔は、状況に合わせて右手の魔力を自在に変化させた。

遠距離の敵には剛速球の『魔力の玉』を投げ込み、接近されれば『魔力の刀』で防ぎ、味方のカバーには『魔力の杖』を伸ばす。

器用貧乏。だが、その狡賢さと異常なまでの『受け身』のセンスが、戦場において最も死ににくい遊撃手ジョーカーとして機能していた。


激突する過去の亡霊たちと、現代の若き武術家、そして人外の化け物たち。

大禍つ炉の最深部で、地獄の蓋が開いたかのような、凄惨で、しかし決して退かない総力戦が幕を開けた。


持子は、震える膝を抱えながら、自分を護るために血を流し、咆哮を上げて戦う仲間たちの背中を、ただ涙越しに見つめることしかできなかった。


(……わしは……。わしは、どうすれば……)


偽・董卓の嘲笑と、かつての恐怖が、未だ持子の心を冷たく縛り付けていた。


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